⑧
道中は最悪なものだった。
まず、案の定ずっと気分が悪く、信号で車が停車するたび吐きそうになり、口を抑えた。
そのたびに運転手の男がちらりと笑美を睨め付ける。直接何か言ってくるわけではないが、申し訳ない気持ちになって、「すみません」と小声で謝る。しかし男は何も答えない。
その繰り返しで笑美の精神はどんどん疲弊していった。具合が良くなるはずもない。
吐き気と戦いながら車に揺られること小一時間で、昨日とは別の、今度は畑のようなものが広がる場所に下ろされる。外の景色を見る余裕がなかったが、今回の場所もまた、都心からは遠く離れたところのようだった。
笑美を残して、車はさっさと走り去ってしまう。無駄だと分かりながらもテールランプが見えなくなるまで頭を下げていると、後ろから肩を叩かれる。
「どうも、おはようございます」
ヤンだった。
ヤンに触れられた肩が暖かい。彼には太陽のような、不思議な力があるみたいだ、と笑美は思った。実際、ヤンの顔を見てすぐに、頭痛はまだ残っているが、べとついた疲労感は吹き飛んでしまった。
「おや、怪我をしていますね」
ヤンは自然に笑美の手を取った。
「痛くないですか? ところどころ、擦り剝いている」
「だ、大丈夫です」
一方の笑美は、相変わらずヤンと目を合わせると心臓が跳ねた。
ヤンはごく普通にしているだけかもしれないのに、恥ずかしい。そう思っても、「愛している」と言われた男性のことを意識するのはやめられそうになかった。
ヤンももう少し照れたりしても良さそうなのに、相変わらずただただ暖かい微笑みを浮かべている。
もしかして、ものすごいプレイボーイなのかもしれない、と笑美は思った。
山池先輩のことを思い出す。山池先輩も笑美にひどく優しかったし、ごく自然に振舞っていた。山池先輩はすごくモテた。笑美の育った田舎ではヤンチャなタイプがモテたというのもあるが、きっとなにより、女性には、誰にでも平等に優しい人だったから。
ヤンもそうなのではないか。
たしかに容姿こそ地味だが、この優しさと微笑みを好きにならない女がいるとは、笑美には思えなかった。
だから笑美だけが特別だと言うのは、やはり思い上がりなのかもしれない。自分にそう言い聞かせることで、笑美は平常心を取り戻そうとした。
「大丈夫なことはないでしょう? 手当しますよ」
ヤンはこちらへどうぞ、と言って少し離れたところに見える小屋を指さした。ヤンについていこうと一歩踏み出すと、
「痛」
思わず声が出た。靴の中に小石が入り、それが的確にガラスで傷ついた部分を攻撃したのだ。
「やはり、大丈夫ではないですね」
「こ、小石が当たっただけで……」
「いけません」
ヤンは真剣な顔をしている。
「このようなところから悪いものは入るのです」
悪いものとは、菌やウィルスのことだろうか。
ヤンが唐突にしゃがみこんだ。笑美の足を掴み、そのままの体勢で体を引き寄せたので、笑美はヤンの額を踏みつけるような恰好になってしまった。慌てて身をよじり元の体勢に戻ろうとしたが、ヤンの腕は笑美の脚を強く掴んでいて引き離すことができなかった。
ヤンはあっという間に靴下を脱がせ、傷ついた方の足に顔を寄せてくる。湿った柔らかいものが、傷口に押し当てられた。
一体何を、と悲鳴を上げる前に、
「回向、永眠、保温」
ヤンは静かな、しかしよく通る声で言った。
「回向、永眠、保温」
昨日と同じくらい体が熱くなるのを感じたが、昨日と違って心地よい。体の疲れや痛みが引いていく。今まさに笑美はすさまじく不気味な――会って間もない男に素足を舐められているという、異常な体験をしているのだが、何故か悪い感情はひとつも浮かんでこない。
いや、それよりも。
「その、言葉、どうして……」
笑美は徐々に思い出す。
昨日見た夢。笑美は荒廃した街を見下ろし、街の人間と話していた。自分の夢の中であるはずなのに、笑美の意志とは関係なく、決められたとおりの行動を取っていた――というより、何かに動かされているようだった。そして、笑美を動かしているものの声を聞いた。
回向、永眠、保温。
そう、この言葉だった。
回向、永眠、保温。
どうしてヤンがこれを唱えるのか。
痛みは消えたはずなのに、気味が悪いとは微塵も思わないのに、先ほどよりずっと早く心臓が脈打っている。
「おまじないのようなものですよ」
ヤンは笑美の不安をよそに笑顔で答える。
「ちちんぷいぷいとか、痛いの痛いの飛んでいけとか、あるでしょう? そういったものの類ですよ」
「でも、私これ、ゆ、夢で……」
ヤンはハッとした顔をして笑美の顔を見つめた。
「素晴らしい」
笑美の手を取り、歌うように言った。
「夢というのはこれから起こることの預言なのです、もうそこまでたどり着かれたのですね」
ヤンの笑顔があまりにも清らかで美しいので、笑美は息をのんだ。
「やはりあなたは素晴らしい方です」
「え、そんな……」
ヤンは笑美の顔を穴が開くほど愛おしそうに眺める。
「あなたのことを、愛しています」
ヤンにぶつけようと思った疑問や夢の内容は全て吹き飛んでしまった。ヤンに愛していますと言われるだけで天にも昇るような気持になり、ヤンのことしか考えられなくなる。
何が素晴らしいのか。何をもって愛しているのか。
そんなことはどうでもよく、ただ彼に称賛され、愛されているということが誇らしかった。
会って間もない、少年のようにさえ見える男に、何故ここまで心酔してしまうのか笑美にも分からない。言葉が勝手に口をついて出てくる。
「私も愛」
「いけません」
笑美の言葉を遮って、
「あなたがみだりに愛していると言うのはいけません。私もそれを望みません」
目に涙が溢れる。笑美はほとんど泣いてしまいそうだった。
ぞんざいに扱われるのには慣れていたし、人と上手く言葉のやり取りができないのも笑美にとっては普通のことだったが、ヤンと同じ気持ちを共有できないということは絶望そのものだった。先程までは望外の喜びを感じていたというのに、今はこの場から消え去りたいほどの悲しみに襲われていた。
一滴、涙が地面を濡らすと、もう止まらなかった。
笑美は声を上げて赤子のように泣き出す。
「泣かないでください、私の言い方が悪かったですね」
ヤンはそう言うなり、どこからともなく木槌を出してきて、自分の左手を強く打った。
なんともいえない嫌な音がする。彼の親指の付け根がみるみるうちに腫れあがった。
ヤンは無表情のまま、なおも木槌を振り下ろした。
二回、三回、とくりかえす。指があらぬ方向に曲がっているのが見える。
「やめて」
ヤンは木槌を振り下ろすのをやめない。血が一滴、二滴、垂れ落ちている。
「やめてください……」
骨の折れる籠った音。皮膚が硬いものに当たって弾ける音。血の水音。
ヤンは息一つ漏らさない。それどころか、口元にうっすら笑みを浮かべている。
何度も、何度も振り下ろす。
「やめてよっ!」
何回目かの、機械的で容赦のない自傷行為は、笑美が彼の腕を掴んだ時にようやく終わった。ヤンの左手は腫れあがり、手とは呼べない、革袋のような代物になっている。
「どうしてそんなことするんですか?!」
簡単なことです、とヤンは微笑んだ。
「あなたを傷つけたから」
ヤンは木槌をジャケットの中にしまった。細身なためよく分からなかったが、彼は布製のウエストポーチのようなものをジャケットの中に着込んでいるようだった。
「あなたがやめろと言うのなら、そのようにします」
「私がどうとかって……そんなの関係あるんですか?」
「ええ、ありますよ。私はあなたを愛していますからね。それと……さっきは私の言い方が悪くてすみません。私が言いたいのは、私は貴方に愛されるような価値がないという意味です」
ヤンは移動しましょうか、と言って笑美の手を、どうもなっていない方の手で引き、歩き始める。笑美は戸惑いながらも付いていくことしかできなかった。
「あなたと私は平等ではないのです。私はあなたを愛しますが、あなたは愛さないで欲しい。あなたはそういう次元にはいないのですから」
「私、よく分かりません……」
絞り出すように言った言葉が空しく響いた。ヤンはそれ以上なにも言う気がないようだった。
笑美はなんとか次の言葉を探して、
「その手……そんなふうにしてしまって、大丈夫なんですか? 早く病院に」
「大丈夫ですよ、病院は要らない」
ヤンはきっぱりと言った。
「とは言え……この手では少し、支障があるのも事実。私の無礼を許してくださいますか?」
ヤンはそう言って足を止め、笑美をじっと見つめる。
笑美は思わず目を逸らして、
「許すも何も、無礼? 無礼なことなんて、何もされていませんし……それより心配なだけです、急に、そんなこと……」
ヤンは花が開くように笑った。
「やっぱり、あなたは優しい方です」
――回向、永眠、保温――
また、あの言葉を唱えてから、今や青紫の塊になってしまった手を動かした。一切傷は良くなっていないように見えるのに、何故かスムースに動いている。
「これでだいたいは良いでしょう」
「そんなに動かしたら……」
「大丈夫ですよ。私たちは今回、見るだけですから。見ることが重要なのですが」
ヤンの言っていることは、さっぱりわけが分からない。
言っていることだけではない。行動も、笑美への対応も、なにひとつ読めなかった。
突然自分で自分の手を滅茶苦茶にして、それは笑美を悲しませたことの罪滅ぼしだと言う。おまけに、一方的な愛を望んでいるなどとも言っていた。
純粋な好意だったら良かったのに――
ヤンの顔を横目で伺ってみても、穏やかな微笑みを浮かべているだけだ。
「ここで少し待ちましょう、もう来る頃……あっ、来ましたね」
何が来るのだろうか。ヤンの目線を追うと、遠くから四人の男女が近付いてくるのが見えた。
途端に猛烈な吐き気が込み上げる。
「なんかイヤッ、イヤです、ヤダヤダヤダヤダ、イヤです」
笑美の口から濁流のように拒否の言葉が流れ出た。
とにかく不快だ。あの男女からは、とてつもない、嗅いだことも無い悪臭がする。
息をするとその臭いが全身を巡って、体を燃やし尽くすような気さえする。とても耐えられない。彼らからは、あの、目が洞穴のような女のバケモノと同じ臭いがする。
「イヤだ、無理です、お願いします、なんでもしますから、イヤ、イヤです」
ヤンは笑美を抱きしめた。
「どうしても無理ですか?」
笑美が力なく頷くと、ヤンはあっさりとではやめましょう、と言った。
「本当は兄弟たちに挨拶をさせたかったのですが、見ることが大切なので、それはどうでもよいのです」
兄弟? 挨拶? 見ること?
聞きたいことは沢山あったが、凄まじい不快感はそれにも勝って、笑美はなにも言えなかった。
ヤンの腕に縋りつくようにして歩き、来た道を戻る。しばらくして、臭いが気にならなくなった。やっと呼吸をすることができる。特有の土っぽい空気が、こんなに美味しく感じられるとは思いもしなかった。
ヤンは笑美の背中をさすりながらどこか遠くを見ている。
しばらくして笑美の呼吸が落ち着くと、
「今からあの建物の中に入ります」
ヤンは左の方を指さした。
見ると、ビニールハウスに取り囲まれた、コンクリート打ちっぱなしの建物があった。
「兄弟たちも来ますが、あなたのことは見えません。あなたと話すことも会うこともないので安心してくださいね」
そう言ってまた、自然に笑美の肩を抱いた。笑美は結局、何も言うことができなくなり、ヤンに従った。
ビニールハウスには白い百合が隙間なく植わっていた。
今度は嫌な香りではない。しかし、ひどく甘い香りだ。
この百合の中を通って、建物の中に入るようだった。
「どうですか」
ヤンは歩きながら尋ねる。
「ええ……綺麗、ですね………」
これもまた、本心だった。笑美は未だかつてこんなに美しく大きい百合を見たことがなかった。
「気に入って頂けて良かった。これはあなたのための場所なので」
「私の……?」
ヤンは大きく頷いて、また歩き出す。きっとここで、「私のためとはどういうことなのか」と聞いても「愛しています」と返されるだけだろう。笑美は黙って、しかしヤンの腕を握る手に力を込めてついていく。
建物の中は、笑美の通っていた大学を思わせる造りだった。外壁と同様に打ちっぱなしの床と壁で、講堂のようなものがある。きっと何か説明があるのだろうと思ってそちらのほうに歩いていくと、こっちですよ、と階段に誘導される。
階段を三階分登り、狭い部屋に通される。学校の放送室と言えばいいのか、録音スタジオと言えばいいのか、ミキサーのような機械や、マイクがある。そんな部屋だった。
正面がガラス張りになっていて、そこから下を覗くと先程の講堂が見える。講堂とはいっても、椅子も何もなく、ただ正面に舞台があるだけだった。おそらく、なにかのセミナーを行うときにだけ、パイプ椅子を運び込むのだろう。
さらに、中央に基礎というのか、なにかそこにあったものを取り払った後のような、他の床とは色の違う場所があった。
笑美が質問しようとすると、ヤンがどこからともなくソファーを持ってきて、ガラス窓の前に置いた。
「ここに座ってください。これから兄弟たちがやることを一緒に見ましょう」
「兄弟たちっていうのは、しゃちょ……ヤンさんの、ご兄弟ですか?」
「兄弟は兄弟ですね」
ヤンはそう言って、下を指さした。
「そろそろ入ってくるでしょう」
ヤンの言葉通り、さっきの四人組が行動に入ってくる。
「うっ」
笑美はふたたび言いようのない気持ちの悪さに襲われたが、さっきと違って耐えがたい、と言うほどではない。油ものをしこたま食べた次の日、例えるならそれくらいのむかつきだった。
「お辛いでしょうが……見てください。しっかりと、最後まで」
「は……はい……」
ヤンは笑美の答えを聞くと微笑んだ。
「まず、にわとりが鳴きますよ」
にわとりとはなんですか、と質問する前に、四人の中で一番背の高い男が動いた。
「ケエコオ」
大声で叫ぶ。それにつられて、他の三人も「ケエコオ」と叫んだ。
笑美は思わず吹き出す。大の大人がにわとりの鳴きまねをしている様子はばかばかしくて面白い。きちんと見ておけ、と言われたのに笑ってしまったら怒られるかもしれないと思い直して、ちらちらとヤンの様子を窺ってみたが、彼は真剣な表情で四人組を見守っているだけで笑美を咎めることはなかった。
「ケエエエコオオオオ」
次は少し長かった。しかも、先ほどより声が大きい。こんなに馬鹿らしいことをやっているのに、四人の顔からは何の感情も読み取れない。四人はぐるぐると輪を作るように歩き回っている。
「ケエエエエエエエエコオオオオオオオオオオオ」
ガラスに振動が伝わるほどの大声だった。思わずのけぞると、ヤンが背中に手を回してくる。
「ここからですよ」
四人の男女が歩くのをやめた。そのまま床に四つん這いになる。
それとほぼ同時に、講堂の入り口からにゅっと、長い棒のようなものが顔を出した。笑美から見ると棒のようなサイズだから、恐らくはかなり太い――木をそのまま切り落とした丸太だ。
白い作業着を着た集団が、それをいくつも台車に載せて運んできた。
彼らは搬入した丸太をみるみるうちに組み上げていく。中央の基礎のような部分になにかを作るつもりらしかった。その作業を見ていると、笑美の不快感は増してくる。肺の中に取り出せない泥が詰まっているような息苦しさを感じた。しかし、目を逸らすことができない。ヤンに最後まで見ろ、と言われていたというのもあるし、なにより、不快感と共に、無視できない魅力がある。笑美はレシピ動画を見るのが好きだ。料理をするのが好きなのではない。なにかが出来上がる過程を見るのが好きなのだ。これは、そういったもののひとつであるように思われた。
――体感ではほんの数十分だったが、時計を見ると五時間も経っていた。
作業員たちは休みなく働き続け、ついにそれは完成した。
やぐらというには少し風変りだ。細長い塔のようなものなのだが、横から見るとらせん状に丸太の端が飛び出している。しかし、それは何の役割もはたしていないように見える。人が昇ることを前提にしていないような気がする。
ふと横を見ると、ヤンが優しい眼差しを笑美に向けていた。
「きちんと見てくださいましたね」
「はい……」
彼の目があまりにも優しいので、笑美は正面に向き直って、
「すごいですね、こんなに早く……あっ、でも」
笑美は丸太の塔の周囲を見回して、あることに気付いた。
「あの人たち、まだ四つん這いになっていますけど……大丈夫なんですか」
「大丈夫ですよ」
笑美を遮ってヤンが即答した。
「えっ……でも、ずっと見ていたわけではないですけど……ずっとあの格好、だったら、やっぱり……」
「大丈夫ですよ」
ヤンは声の調子を変えずに繰り返した。
こうまではっきり言い切られると、「そうですか」と納得するしかない。
それぞれが違う色の服を身に纏った四人は、純白の作業着の中ではかなり目立つ。
笑美は苦労して彼らを意識の外に追いやった。
『そろそろ帰っていいですよ』
建物にヤンの声が響いた。いつの間にかヤンはマイクの前に座っている。
作業員たちは入って来た時と同様、あっという間に撤収していき、その後を追うようにして、四人の男女もふらふらと出て行った。
誰もいなくなった講堂に、塔のようなものがことさら異様に鎮座している。
あの四人が出て行ってから、ずっと感じていた息苦しさは和らいだ。その代わり不安感が押し寄せる。
思い返せば、ずっと変なことの連続だ。昨日だって流されてしまったけれど、おかしかった。泥遊びが仕事であるはずがない。
今日はそれに輪をかけておかしかった。
不気味な男女が現れ、彼らが変な儀式――そう、儀式だ。怪しい儀式に参加させられた、強制的に。
ブラック企業どころではない。もっと異常な――
「どうなさいました」
ヤンと目が合う。
またこれだ。
ヤンの目の色は、深い茶色だ。この目を見ると、何もかもが吸い込まれて、何も言えなくなる。血の巡りが早くなって、体中が暖かくなって、全身が多幸感で一杯になる。
いままで笑美の人生に起こった幸せなことをすべて足しても追いつかないくらい幸せになってしまう。
ヤンはどう考えても異常な男なのに!
笑美は幸せになってしまい、使い物にならなくなった脳の端の端で考える。
ヤンはおかしい人間だ。言うことだって支離滅裂だし、何を聞いても説明はしてくれない。
愛していると繰り返すけれど、それだって疑わしい。
笑美はあんなに嫌がったのに、あの男女を近付けた。
それに、笑美はそんなこと望んでいないのに、勝手に贖罪と言って、自分の手をボロボロに傷付けた。
笑美はヤンの手を見た。もう、殆ど治っている。
恐ろしい。
なんで少年にしか見えないのに、社長と呼ばれているのか。
なんで笑美に普通の仕事をさせてくれないのか。
なんで彼らを兄弟と呼ぶのか。
なんで変な呪文を繰り返すのか。
なんで泥で鳥を作らせたのか。
なんで塔を建てたのか。
なんで笑美を愛しているのか。
なんで笑美に愛させてくれないのか。
なんで笑美の感情で動くのか。
なんで怪我がすぐに治るのか。
なんでこんなに、彼を愛してしまっているのか。
そうだ。こんなに怪しい、異常な男なのに、笑美は彼のためならなんでもしたいと思ってしまっている。彼が喜ぶなら、なんだってやりたい。
笑美は今まで馬鹿にしていた、異性に溺れてとんでもない行動に走ってしまう人たちの気持ちが分かるような気がした。
愛と言う感情は何物にも勝り、代えがたい。そして、それは付き合いの長さで決まるものでもない。
――笑美のこと、みんな嘘つきだって言ってるよ。誰も信じないんだよ、可哀想にね。
そうだ。本来、誰からも愛されないのだ。この先どんなに生きていても、笑美なんかに、ヤンよりいいひとが現れるとは思えない。でも。
きっとヤンにそう言ったら、少し眉をひそめて、優しい声で「なんか、なんて言っては駄目ですよ」と言うだろう。
想像するだけで笑美は幸せな気持ちになった。
本当に幸せだった。
「大丈夫です、明日は何時に、どこに行けばいいですか」
笑美がそう言うと、ヤンは微笑んだ。
帰りは手を繋いで歩いた。どこまでも歩いて行けそうな気がした。
もう、頭の中の声は聞こえなかった。
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