用意された服は上下とも笑美にぴったりだった。ヤンと同じように白くてゆったりしたデザインだ。

 更衣室にはシャワーがついていて、フリーサイズの下着まで用意されていた。ゆっくり準備していいですからね、というヤンの言葉に甘え、笑美はしっかり体の汚れを落としてから服を着た。

 普段の笑美だったら、失禁したことをいつまでも引きずって、とてもではないがゆっくりシャワーなど浴びられなかっただろう。でも、何故かヤンの前だと、何も緊張しない。

 ヤンなら笑美の全てを許してくれる、そんなふうな気分にさせられるのだ。

 この不思議な安心感は面接のときからずっと変わらない。

 恐らくヤンが本当に善人そのものの、慈愛に満ちた微笑みをしているからかもしれない。今まで笑美が接してきた人々はほとんどが笑美に対するいらつきや嗜虐心を隠さなかった。ヤンは違う。

 さらに、ヤンは極端に美形だったり不細工だったりしない、印象の薄い顔だ。笑美の両親も兄も、テレビに出ているタレントのような、モダンな顔をした美形だったから、今まで身近にいたどの人とも違う新鮮さがある。

 それに、彼の匂いだ。

 笑美の着ている白い服の襟元からも、ふわりといい匂いがした。ヤンと同じ匂いだ。笑美はそれだけで幸せな気持ちになる。この匂いはなんなのだろう。どこかで嗅いだことがあるような気もするが、多分人生の中で一番好きな匂いだ。いつまでも嗅いでいたいような気分にさせられる。

 幸福感で一杯のふわふわした頭のまま、笑美は更衣室から出る。

「洋服、きつかったり肌に合わなかったりしませんか」

「大丈夫です、こんな素敵な……ありがとうございます」

 笑美がそう答えるとヤンは柔らかく笑った。

「では、こちらへいらしてください。一緒にやって欲しい作業があるので」

 ヤンは笑美の手を取って歩き出した。

 外観は体育館のような建物だったが、内部はもっと複雑な造りをしており、笑美が利用したシャワー付き更衣室をはじめ、ほかに何部屋もあるようだった。

 壁だと思っていたところがドアだったり、外からはそう見えなかったが地下に続く階段があったりする。笑美はきょろきょろと辺りを見回しながら歩いた。笑美が立ち止まろうとするたび、ヤンが優しく手を握って首を振る。笑美はその手の暖かさが嬉しくて、わざと何度も立ち止まった。

 やがて案内された部屋は、大学の講堂程度の大きさで、床一面にブルーシートが敷かれていた。

 商品開発部で働くことを志望していた笑美は少し面食らってしまう。一体ここで、社長ヤンと二人きりで、なにをすると言うのだろう。

「まずは泥を作りましょうね」

 ヤンはそう言うなり、重そうな麻袋を部屋の隅から引きずってきてその中の土をブルーシートの上にぶちまけた。

「あのっ、ど、泥を作るって……」

 笑美は思わず声を上げた。

「どうしました?」

 ヤンは作業の手を止めずに聞いた。

「え……えっと、その……何をするのかと、思いまして……」

 ヤンはきょとんとした顔で笑美をしばらく見つめたあと、またすぐ笑顔に戻る。

「ああ、こんなどうでもいい作業、私がやりますから、まだ休んでいて大丈夫ですよ。手伝っていただきたいのはこの後ですから」

「えっと、そうじゃなくて、それはむしろ、やらせていただきたいんですけど……」

 笑美はおずおずと切り出した。

「この、泥……? を作るのって、商品開発に、なにか関係あるのかな、と……」

「関係はありませんね」

 ヤンは笑顔のままきっぱりと言った。

「あっ……そうですよね。初日だし、そんな大きな仕事に絡ませてもらえるわけ、ないですよね……これは、オリエンテーションみたいな、そういう感じの」

「仕事より、もっとずっと素晴らしい行いですから」

 笑美を遮ってヤンが言う。

「あなたにしかできないことなので、これは素晴らしいことなのです」

「私にしかって……えっと、でも、あの、それってどういう……」

 ヤンは突然近寄ってきて笑美を抱きしめた。

 途端に心臓が跳ね上がる。

 布と布の擦れる音と、心地よい圧迫感。服を通して人肌の暖かさまでも感じられるようだった。

 笑美は、他人をここまで近くに感じたことがなかった。

 ヤンの身長は笑美とさほど変わらない。顔立ちも地味で、非常に華奢な体格の彼は、一見すると高校生にさえ見える。まったく男らしさとはかけ離れているといってもいいだろう。それなのに笑美は、ヤンに対して、愛情とも欲情ともつかない感情を抱いていた。

 そもそも初対面の人間にこんな感情を持つこと自体がおかしい。そんな疑問を持つ間もなく、

「お嫌ですか?」

 ヤンは腕に更に力を込めたようだった。ほとんど頬と頬が触れそうになる。

「これがお嫌なら、今すぐにやめます。もし、ショウヒンカイハツのお仕事がしたいなら、手も回します。でも、お願いしたいんです。いずれ、私と一緒に」

「嫌じゃないです」

 今度ははっきりと言葉にできた。その自信が笑美の舌を動かす。

「嫌なことなんて絶対にないです」

 お世辞でもなんでもなく本心だった。

 暗い性格で、他人とまともに目さえ合わせられず、どこへ行っても受け入れてくれる人なんていなかった笑美を拾ってくれ、あまつさえ「素晴らしい」とまで言ってくれた人が頼んだことを拒否などするわけがなかった。

「社長じゃなくて、ヤン、でしょう」

 ヤンは吐息がかかるような位置でそう囁いて、笑美から体を離した。

「ヤン……さん……」

 離れて行った体温を名残惜しく思いながら笑美は呟く。

「本当は、呼び捨てがいい。それに、丁寧語を使っていただくような者ではないんです、私は」

「ええと……でも、さすがに……」

「でも、あなたは天使様ですから」

「天使って……」

 笑美はあいまいに笑ってそのお世辞を流そうとした。しかし、ヤンの目はあくまでも真剣だった。下がりかけていた体温がふたたび上昇するのを感じる。

 同時に、面接のときから今まで、なぜここまで良くしてくれるのか、なんとなく分かった気がした。おそらくヤンは笑美のことを女性として好き、なのだ。

 女性として気に入ったから採用――いわゆる顔採用、というものは、最近は差別的であり、良くないもの、という風潮がある。そもそもヤンのように、いくら気に入ったからと言って個人的な業務を二人きりで行わせたり、手を握ったり、抱きしめたりするのは、明らかにセクシャルハラスメントに該当する。

 しかしそれは、本人が嫌がっていた場合の話だ。

 笑美は少しも嫌ではなかった。

「あなたは天使だ」というナンパみたいなセリフを吐かれても、不快どころか、より一層嬉しさが増すだけだった。

――お前、優しくしてくれるならだれでもいいわけ?

 ぞっとするほど冷たい声が頭の中を支配する。

――お前みたいなやつに媚び売られて嬉しい人間誰もいないよ。みっともないから今すぐやめな。

 反射的に、笑美はヤンの体を手で押し返した。

 嬉しかったのに。少しも嫌ではなかったのに。

 ただ、笑美は自分が気持ちの悪い存在だと分かっている。分かっているから、こんな優しい人に、例え性欲由来であったとしても、こんなふうに優しく抱きしめてもらうのは申し訳ないと思ったのだ。

 笑美が何も言えないでいると、ヤンはくるりと背を向けて、ふたたび麻袋を運び出した。

「ごめんなさい、急ぎ過ぎましたね」

 笑美は何か言葉を紡ごうとしたが、口下手な自分がこれ以上状態を良くできるとは思えなかった。落胆した様子のヤンを見て泣きそうになる。しかし、ヤンひとりに作業させることはできないと思い、気持ちを切り替えた。

「お、お手伝いします」

 見よう見まねでどんどん土をばらまいていく。

 麻袋は意外にも軽かったが、これは自分が高揚しているせいなのかもしれない、と笑美は思った。

 十分くらい経つと、部屋に敷き詰められたブルーシートの半分くらいが土で覆われた。

 ヤンはちょっと待ってくださいね、と言って部屋を出て行き、ふたたび戻って来た時にはシャワーヘッドのついたホースを手にしていた。

「泥を作っていきましょうね」

「はい」

 今度は笑美も疑問を口に出すことはなかった。

 一言も話さず、ホースから出てくる水と土を混ぜていく。

「全体的にこれくらいの固さになるようにしてください」

 ヤンは泥で球を作って笑美に握らせた。泥からも手の熱が伝わるようで、思わず泥を取り落とすと、ヤンは笑顔のまま大丈夫ですよ、と言った。

 ヤンの泥を捏ねる手は優艶で、ついつい目が離せなくなってしまう。映画「ゴースト」の、主役の二人が陶芸をする有名なシーンを思い出す。笑美はほんの小さい頃観たきりだったので記憶は朧気だったし、あのシーンが何を意味するのかも全く分からなかったが、彼の手を見ていると分かる。手というのは強烈に情欲をそそる人体のパーツなのだ。

 ――皆、笑美のこと気持ち悪いって言ってるよ。

 頭の中に声が響く。ヤンが気持ち悪いなんてひどいことを言う人間でないのは分かっている。しかし、こんなに見ていたらそう言われてしまうかもしれない。

笑美は湧き上がるよこしまな気持ちを押し殺して目の前の土に水を混ぜた。

 しばらくして、水が全体に混ざり大量の泥ができた。

「最初は鳥から作りましょう、このように」

 ヤンは硬めに練った泥を捏ねて、あっという間に小さな鳥の形に成形した。

 またも疑問がよぎる。

 たしかにヤンの作った鳥は見事だった。土色をしていなければ本物と見間違えてしまうだろう。短時間でこんなに精巧なものを作れるなんて信じられない。

 でも、なんのために? なぜ、鳥を?

 これはなにに役立つスキルなのだろう。

 たしかにモリヤ食品は知育菓子や、見た目が可愛くて華やかなお菓子も製造・販売している。しかし、イメージイラストはまだしも、立体のモデリングなんかは外注じゃないのかな。

 笑美は美大を出ているわけではないし、芸術系の能力もどちらかというと低い方だ。

 これが「笑美にしかできない素晴らしいこと」とは到底思えない。

 しかし笑美はそれを口に出すことはせず、ヤンに倣った。やはり、ここまで笑美を気に入ってくれる人にがっかりされたくなかったのだ。

「私、下手ですね」

 出来上がったのは鳥に見えなくもない、といった様子の醜い泥の塊だった。

 ヤンの作ったものと並べると公開処刑されているようだ。

「下手なんてとんでもない。とてもいいですよ。その調子でどんどん作っていきましょうね」

 ヤンはふたたび泥を捏ねて、鳥を瞬く間に量産する。

「すごい」

 思わず声を上げると、ヤンは恥ずかしそうに俯いた。その顔も、穏やかな笑顔とまた違った魅力がある。

「そんなに褒めていただけるような人間ではないのに。なんだか、とても照れます」

「でも、しゃ……ヤンさんは、最初からずっと、私に対して、そうですよ」

 笑美はヤンのくりくりとした目を見て言った。

「すごく嬉しいんですけど、ちょっと、恥ずかしいです」

 どちらともなく、笑いが漏れた。

 そのまましばらく二人で思い切り笑った。

 幼稚園生くらいに戻って、好きな子と泥んこ遊びをしているみたいだった。

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