「本当にここで合ってるのかな」

 到着する前からうすうすおかしいとは思っていたが、指定された場所は想像していたものとはまったく違った。住所から、都会とは言い難い場所なのは理解していたが、駅からここに来るまで、コンビニ一つ見当たらなかった。年季の入った食堂は一軒あったが、そのことがさらにこの場所の活気のなさを強調している。

メールに書いてあった通り、会社のスタッフが運転する車が迎えに来てくれたため、迷うことはなかったが、ここは寂れた駅に輪をかけて寂れている。

 全体的なつくりとしては、笑美が通っていた高校の無駄に広い体育館に似ていた。そのような建物が、あまり手入れされているとは言い難い雑木林の中にポツンと建っている。

 送ってくれたスタッフも妙で、笑美とは一言も口を利かなかった。移動の間は運転に集中しているのかと思ったし、人と話すのが苦手な笑美にとって無口な人間は都合が良かった。しかし、こんな場所に説明もなく降ろして、そのまま去ってしまったのには面食らった。それに、「ありがとうございます」と笑美が言うと、体が跳ね上がるほど驚いていた。

 今日の笑美は、面接の日と同じようにリクルートスーツに身を包んでいた。普段着でお越しください、と書いてあったが、平服でお越しくださいと書いてあっても、その言葉通りカジュアルな服装で参加すると恥をかくのが日本社会だ。

 だから、言葉を発しただけで他人を驚かせるほど不審な見た目はしていないように思う。それなのに、なぜ彼はあんな反応をしたのだろうか。

 段々、心細くなってくる。

 先程から笑美はスマートフォンで時間を確認しつつうろうろと歩き回っているが、とにかくこんなに何もない場所に一人残されるのが不安でしょうがない。五分が一時間にも感じられた。

 木と木のこすれ合う音ひとつに、クマでも出てくるのではないかと怯えてしまう。

 そういう恐怖に加えて、笑美にはもう一つ別の恐怖があった。

 それは、兄の言った通り、ブラック企業で、新人研修と称した嫌がらせのようなものではないかということ。就活生の集まるネット掲示板で、新入社員に意図的に恐怖を与え、そのときの反応を見てダメ出しする……というような書き込みがされていたのを思い出す。

 それならばまだいい方で、もしかして完全に騙されているのかもしれない。場所からなにからデタラメで、そもそもあの採用通知も悪意を持った誰かが送ってきた偽物かもしれない。きちんと社用メールアドレスから送信されていたが、いまどきこんなものいくらでもねつ造できるような気がする。

 それになによりおかしいことが一つあった。

 こんな雰囲気の雑木林、「人間以外の何か」がいない方がおかしい。

 やはり、私は力を失ったんだろうか、と笑美は考えた。ずっと消えてしまえと願っていた能力なのに、今この時だけは消えないでほしかった。日常と違うことは恐ろしい。何かいるはずの場所に何もいない、見えない、それがここまで恐ろしいなんて。

 幽霊・妖怪などを怖がる人間は、目に見えない物音や声を怖いと言う。「見えている」笑美にとっては羨ましい発言だった。笑美にとっては「怖いもの」ではない。「鬱陶しくて迷惑で消えて欲しいもの」だ。しかし今やっと、笑美にも彼らの気持ちが分かった。見えないということは、怖いことだ。鬱陶しい方が、怖いことよりずっとマシだ。

 さらに、もし力が消えたということなら、「人間以外の何か」として片付けたあの老人の実在を認めなくてはいけなくなる。あの老人は笑美に「ここには行かない方がいい」と言った。

 言葉さえ交わしていないというのに不思議なことだが、笑美にとってあの老人は強く心に残り、かつ、線路の置き石のように、せっかくうまく行きかけている笑美の人生を邪魔する障害物のように感じられた。

 老人は笑美の心を読み、「これだけお渡しする」などと言って音もなく消えた。あの老人にはなにか不思議な力があることは間違いない。あの老人が笑美に何かしたのだ。

――みんな、嘘つきだって言ってるよ。

 また、あの声が聞こえてきた。

「私は嘘つき」

 声に出すと安心する。

「私は嘘つき、私は嘘つき、私は嘘つき」

 不安をかき消すために笑美は何度も何度も唱えた。


――ガサガサ

 笑美の背後で音がした。

 木のざわめきとは違う、何かが近付いてくる音だった。今度こそクマかもしれない。

 しかし、あくまで足音はゆっくりとしていて、大型生物のものとは思えない。

 笑美が来たのは整備されている、とは言いにくいが、一応は整備された、車がぎりぎり二台すれ違えるくらいの幅の道だった。しかし、いま笑美は来た道を左手に、体育館のような建物の方を向いて立っているので、音はその道からではなく、何もないところから近付いてきている。

 クマよりももっと恐ろしいものが笑美の頭の中に浮かんだ。

 笑美を騙してメールで誘い出し、ここまで来させた人物かもしれない。

 笑美は地味な容姿だが、ヤンチャな先輩に目をつけられるくらい男好きのするスタイルをしていた。そういうつもりだったのかもしれない。

 そういう考えに至った途端、笑美には半ばあきらめのような気持ちが沸いてきた。

 こうなる運命だったのかもしれない。今日一日力が消失したのも、神様が死ぬ間際に与えてくれたプレゼントだったのかもしれない。襲われたら、抵抗せずに大人しく死のう。

 覚悟を決めると少しだけ怖くなくなった。

 深呼吸をする。

 振り向くと、大きな女の顔が目の前にあった。

 人ひとり入ってしまうほど巨大な眼窩。バランスの狂った体。

 人間は本気で驚くと声すらも出ないのだと笑美は悟った。

 全身の力が抜け、そのまま尻もちをつくような恰好で崩れ落ちる。地面に腰を打ちそうになるすんでのところで何者かの腕が笑美を支えた。

「大丈夫ですか」

 社長ヤンだった。面接の日とは違って、白いゆったりした服に身を包んでいる。

 ほっとしたのは確かだった。さっき眼前にいたあの女も、ヤンが現れてすぐ消えてしまった。しかし。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……なさい」

 寂れた駅の汚い公衆トイレに抵抗感があって使わなかったのがいけなかったのかもしれない。驚いた瞬間に失禁していた。

 笑美は泣きながら、ひたすら謝り続けた。中学生の時、いじめで納屋に閉じ込められ、我慢できなくなって失禁したことを思い出す。あのときも兄が迎えに来てくれるまで絶望と羞恥の中泣くだけだった。

 今はあの時よりずっと自分が情けなかった。もういい大人で、初出勤の日にこんなこと。

「ああ、スーツで来てしまったんですね」

 ヤンは笑美に向かってにっこりと笑いかけた。

「とてもきちんとした方なんですね。でも、今から簡単な作業をしていただくので、着替えてください。こちらに用意がありますので」

 笑美は驚いた。ヤンは笑美が粗相をしてしまったことに不快感を持つどころか動揺すらしていないように見える。何も言葉を発することができないでいると、ヤンは優しく腰に手を当てて建物の中に誘導した。

「ここまで遠かったでしょう。それに、お待たせしてしまって本当に申し訳ありませんでした」

「い、いえ……」

 それきり何も言えなかった。ヤンの体からは、面接の日と同じように、柔らかくて甘い、いい匂いがした。笑美は先程まで泣きじゃくっていたことも忘れ、夢うつつの気分で歩いた。

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