③
早朝の駅は空いていた。笑美はあくびをかみ殺しながら電車に乗り込む。
そしてふと、気付く。
そういえば朝から何一つ見ていない。これは一体どうしたことだろう。
笑美の人生は常に「人間以外の何か」に侵食されてきた。下を向き、なるべく誰にも気づかれないよう歩く癖のおかげで、この間のパンケーキ女の時のように憑りつかれたりするのはそうしょっちゅうでもなかったが、「人間以外の何か」を全く見ない日はなかった。
それが今日は、家を出てから駅に着くまで一切見ていない。
確かに、「人間以外の何か」は、人がいないところよりもむしろ人が多いところを好む傾向にある。あのパンケーキ女ほどではないが、皆コミュニケーションに飢えていて、常に自分たちに気付いてくれる人間を探しているのだ。
だから、いつも外に出ている時間よりも「少ない」というなら理解ができる。しかし、「全くいない」のはおかしい。
いつも駅に行く道の途中、何が面白いのか常陽樹にひっかかってけたたましい笑い声を上げている少女すら今日は見えない。
もしかしてこの忌まわしい、何の役にも立たない力が消えたのかもしれない。きっとそうだ、と笑美は微笑んだ。
どういう仕組みかは分からないが、これもモリヤに入った――
あのビルは良い匂いがした。面接官も優しかった。
きっと、社長の発する優しい、清浄な空気が、あの場所全体を神聖で、人間以外の不気味なものを寄せ付けないようにしているのだ。
笑美はヤンのてのひらの暖かさを思い出しながら幸せな気持ちになった。社長が笑美の頭に触れる直前に現れた、ひどく不気味な女のことはすっかり忘れている。
「ちょっと、あなた」
笑美の気分は音もなく近づいてきた老人に台無しにされた。少なくとも七十は超えているだろう。日焼けした顔にはいくつも皺が刻まれていて、性別も良く分からないが、短く刈り上げられた髪型が男性的だ。汚らしい作務衣を身に纏い、薄笑いを浮かべている。あまりにもはっきりとした実体を持っているから、恐らくは生きた人間――変質者だ。笑美は聞こえないふりをした。ずっと目立たないよう縮こまって生きてきて、友人などいなかったのに、笑美は昔からこういう変質者、特に痴漢には目ざとく見つけられ、格好の標的になる方だった。笑美ができることといえば、「人間以外」への対処と同じ、ひたすら無視して、相手が諦めるのを待つことだけだった。
「聞こえてるでしょう、あなた」
妙な訛りの言葉だった。しかし、汚らしい見た目とは裏腹に、老人からは森林のような香りがした。ずっしりと肩が重くなることも無い。やはり、生きた人間のようだ。
「聞こえてるならいいわ、あのねえ、あなた、今からどこに行く?」
言えるわけがないだろう、と心の中で毒づきながら、笑美は目を瞑る。こうなってしまったら寝たふりでもした方がいいかもしれない。
「なるほど、■■■ですかあ」
思わず顔を上げる。老人は、今から笑美が行く場所を正確に当てた。
「やっとこっちを見てくれましたねえ」
老人は相変わらず薄笑いを浮かべている。
「■■■ねえ……本当に行かなきゃだめですかぁ」
この老人は何を言っているのだろう。
「うーん、何をっていうか、うーんそうね、本当に行く場所なのかなあと思いましてね」
本当に行く場所なのか、の意味が分からない。
「だから、どうしても行かなきゃいけないと言うなら、仕方がないんですけどねえ」
行かなくてはいけないに決まっている。私なんかを選んでくれた大事な大事な就職先だ。
「就職先……それなら仕方がないんですけど、やめたほうがいいんですよねえ、本当は」
さっきからなんなの、急に話しかけてきて。こんなやつ――
はっとした。笑美は先程から一言も発していない。それなのに、この老人と会話が成立してしまっているのだ。
もしかして、全部読まれているのか――
「あなたのことを、心配しているだけなんですよ」
老人はまたしても笑美の心の中を勝手に読んだ。
気分が悪い。
老人の顔にこびりついた薄ら笑いに吐き気がした。最初はさわやかに感じられた森林のような匂いも、今はただ不快なだけだった。
「気持ち悪いなんて、ひどいですねえ。あなたがこれからすることは、もっと気持ちの悪いことなのに」
老人は止まらない。
「あなたにとっては……神様かな? 神様だ。でも、信じる神様は選んだほうが良いと言いますか…でも、今のあなたになにを言っても聞き入れてもらえないでしょうからね、これだけお渡ししますよ」
なるほど、この老人は結局、宗教系の人間なのだ。笑美は痴漢に遭うのと同じくらい、怪しげな宗教団体や、マルチ商法などの標的になることも多かった。
この老人は笑美の考えたことを読み取って話しているので、能力については本物かもしれないが、それ以外は霊感商法、つまり、尤もらしいことを言って相手を不安にさせ、そこにつけこんで商品を買わせたりする、そういうものの類に思えた。笑美は今までになく幸せなのに、幸せにしてくれた人の元へ行くのが危険だなどと警告するのは、悪意しか感じない。
それに、何かを渡すと言っている。お札やお守りの類なのだろうが、あとで高額な対価を請求してくるに違いない。笑美は再び視線を床に落とした。下を向いていれば手渡されるということはないだろう。この老人は無視する笑美にしつこく話しかけてきたような人間だから、渡すことを諦めず座席に置いて立ち去るかもしれない。でも、そんなもの、放置しておけばいいだけだ。
笑美は身構えた。
しかし、何の気配もしない。体感で10分くらい経ってからおそるおそる顔を上げると、老人は消えていた。きょろきょろと辺りを見回してもまばらに乗客がいるだけだ。
老人がお渡しする、と言った何かも見当たらない。すべてが幻のようだった。
あの老人は「人間以外の何か」だったのだ、と笑美は思うことにした。そうすれば、唐突に現れて一方的に話しかけてきたのも、考えていることが読まれてしまったのも、気配もなく立ち去ったのも説明がつく。
生身の人間であるはずがない。私にだけ見えているんだ。笑美は自分に言い聞かせるように何度も脳内で繰り返した。
ふと、
彼の手は暖かく、ほんの二、三言交わしただけで今までにない幸福感を得られた。
笑美のことを素晴らしいと言った。
だから、もしかしたら、
――みんな、嘘つきだって言ってるよ。
笑美の想像をかき消すように、誰のものとも分からない声が聞こえた。
――誰も笑美のことなんて信じないんだよ。可哀想にね。
そうだった。
この力のせいで、笑美は今までずっとひとりぼっちだった。頼れる人は、兄しかいなかったではないか。
笑美は両手で自分の頬を打った。思った以上に大きな音がして慌てたが、まばらにいる乗客はスマートフォンに夢中で、笑美の方など見てもいなかった。
そうだ。私は暗くて、地味で、無能で、誰からも気にされない存在だ。今回は本当に奇跡のような偶然でいい人に見付けてもらえたけれど、こんな力がバレたら気持ち悪がられるだけ。どんなにいい人でも、そんな気持ちの悪い人間からはすぐに離れて行ってしまう。
「私の味方は一人しかいないんだ」
口に出すと、仄暗い感情と共に落ち着くような気がした。
ちょうど、目的の駅に到着するアナウンスが流れる。
窓ガラスを鏡代わりに前髪を直しながら、笑美はドアの前に立った。
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