面接には絶対遅刻だ。それでも、電話に出た、おそらく就活生の対応係なのだろうが、受付の女性は、遅刻したにも関わらず「面接させていただきます」と言ってくれた。

 あのあと、黒髪ロングは言葉通り付いてきた。なんとか気付いていない振りをしようとしたが無駄なのは分かっていた。あの思い出したくもない手触りの黒い毛玉。あれは黒髪ロングが仕掛けた罠のようなものだったのだろう。

 物心ついたときから笑美には生きている人間とそれ以外の区別がつかなかった。

 それが、よく聞く幽霊の風体――異形であったり透けていたり分かりやすい目印があれば分かったかもしれない。中にはそういうのもいたが、ほとんどは笑美たち普通の人間と同じように実体があって、色鮮やかなのだ。顔見知りの人間以外に話しかけられるのも話しかけるのも恐ろしい。すべてをこの体質のせいにしてはいけないが、小中学校でいじめられたのも、高校時代空気のように過ごしたのも、就職活動が上手くいかないのも、少なからずこの体質が影響していた。

「生きている人間ではない何か」が、普通の生きている人間と違う点があるとすれば、ひどく会話に飢えていることが挙げられる。少しでも気付いた素振りを見せると一方的に話しかけてくる。その一方的な会話の標的になってしまうと体がひどく重くなる。そして話している間のそれは徐々に、怪談でよく聞くような異様な風体に変わっていくのだ。

 両親も祖父母も兄も、幼い笑美の訴えを馬鹿にしたりせず受け止めてくれた。神社、寺、祈祷師――様々なところに連れて行ってくれた。しかし笑美は早々にそれが無駄であると悟った。

 誰一人、見えてすらいないのだ。

 目が飛び出るほどの相談料を要求してきた、高名な霊能者という人が来た時なんて笑ってしまいそうだった。全く見当違いの方向を向いて、お嬢さんにはこの家の先祖が女を責め殺した怨念が染み付いている、今も背後にぴったりとつき呪っている、とか言うのだ。その間も頭部が膨れ上がった中年男性は霊能者の真後ろで延々と会社の上司の愚痴を言っていたというのに。

 他の人には見えていない。見えてすらいないのに解決できるわけがない。だからどんなに鬱陶しくても、目を合わせてこようとも、白目がなくても、口が耳まで裂けていようとも、脳髄がこぼれ落ちていても、頭が二つあっても、とにかく怯えながら時間が過ぎるのを待つしかない。そうすれば大概の場合――個体差はあったが、長くとも一週間くらい耐えていればフッと消えてしまう。幸か不幸かそれらが体調不良以外の直接的な危害を及ぼすことはなかった。

 パンケーキを連呼する黒髪ロングは、経験から言ってかなりしつこい部類だろうと笑美は思った。まず、見えていない人間にもしつこく話しかけていた。その時点でコミュニケーション飢餓度がかなり高いことが伺える。そして、あそこまで異形なものも珍しい。何ヶ月か、何年か、ひょっとして何十年も無視され続けていたのかもしれない。あんな罠を仕掛けるような真似までして……そこにやっと、笑美がのこのこ現れたのだ。体の重さも尋常ではなかった。立っていられないほどになったのは初めてのことだ。なんとか這うようにして体を進ませたが、三十分前に到着する予定が、会社の前に着く頃には面接開始時刻を十分も過ぎていた。

 笑美がそこまで大きく絶望しなかったのは土台無理だと諦めていたからかもしれない。オフィスビルを見上げてその大きさに圧倒される。やはりこんなところ、50社以上も落とされた私には分不相応だ。そう思ってまた溜息をつく。だいたい、このパンケーキ女がいる時点で気になって集中なんてできるわけがない。

「パンケーキここで食べれるの?パンケーキっパンケーキ食べさせておねがいおいしそうおいしそうおいしそう食べさせて、かじらせて、ちょっとでいいのおねがいおねがいきけよきけよきけきけきけきけきけきけきけき」

 口を大きく開けて眼前に迫るそれが、オフィスに入った途端蒸発するように消えた。

「えっ」

 自動ドアをもう一度通り抜けて確認しても、パンケーキ女はやはりどこにもいない。目線を上に向けても同じことだった。

 もしかして、安心させておいて、オフィスの中に隠れていて、また入った瞬間に驚かせようとしているのかもしれない。

 深呼吸をしてふたたび自動ドアを通る。

「島本笑美さんですか」

 いかにも仕事のできそうなビシッとした美人が、冷ややかな声でこちらへどうぞ、と声を掛けてくる。笑美は恥ずかしくて顔を上げることができなかった。遅刻までしておいて玄関先で挙動不審な真似をしている女なんて、怒りを通り越して呆れられているに違いない。気にはなるが、消えたならそれはそれで好都合だ。なんとかパンケーキ女消失のことは頭の隅に追いやって、促されるまま彼女について行った。

 エレベーターに乗ると、屋上まで40階もあり、また圧倒される。これで第三ビルというのだから、本当に場違いなところに来てしまったものだ。

 38階につくと、そこから面接会場までの廊下はひとりで歩くことになった。

 長い廊下を歩いているとき、笑美はふと、緊張が一切取り払われていることに気付いた。エレベーターに乗っていたときまでは遅刻という大失態、それにオフィスの大きさに精神的苦痛を感じ、つま先まで冷え切っていたというのに、今は顔がほんのり汗ばむほど暖かい。このフロアはとてもいい匂いがするので、そのせいかもしれないと笑美は思った。以前エステの無料体験を受けたとき、そこで焚いていたアロマのような、ふんわり落ち着く匂いだ。(と同時に、断りきれず高額の回数券を買わされたことも思い出し彼女の穏やかな気分は少し損なわれた)

 大企業というのは、このような細やかな気遣いまで出来るのだなあと改めて感心して息を大きく吸い込んだ。なんだか頭まで冴えていくような気がする。

 端から諦めていたが、もしかしたら今回はうまくやれるかもしれない。期待を胸に笑美は面接室をノックした。

「失礼します」

「どうぞ」

 面接官は三人、全員男性だ。笑美より少し年上くらいに見える青年、清潔感のある壮年、ふくよかな老年、全員人の良さそうな笑みを浮かべていた。

「おかけになってください」

 笑美はまず頭を下げ、遅刻を謝罪した。面接官たちはなんでもないというふうに笑ってそれを流した。

 本来、遅刻なんてあってはならないことだ。遅刻した場合、必ず会社に連絡して、そこは諦めましょう、と就活生用のマニュアルにも書いてあった。恐らく形だけだろうが、時間を割いて、面接を受けさせてくれただけでもありがたいのに、なぜこの人たちはこんなに優しいのだろう。思わず涙が出そうになったが、せめて失礼のない態度で面接を終えよう、そう思って席に着いた。


 面接ではスタンダードな質問が続いていく。笑美の答えはマニュアル通りで陳腐なものだったが、面接官はさも興味を惹かれたかのように笑美をまっすぐ見つめ真剣に聞いてくれた。そのおかげで、今まで失敗してきた面接のことを忘れ、落ち着いてきちんと答えることができる。全員優しそうな、まるで我が子でも見るような目で笑美を見ている。おそら客観的に見ても「手応えアリ」という状況だ。

「最後に質問はございますか」

 青年が尋ねる。笑美が口を開こうとした瞬間、押し潰されるような衝撃が体を襲った。

「あ、ぐ、あ……」

 肺が潰されて呼吸さえ難しかった。

「どうしたんですか」

 そう聞かれても息が苦しくて、とはとても言えない。目蓋を開けているのがやっとだ。

 薄目に、面接官が座っている場所の奥の扉がゆっくりと開くのが見える。肺を潰すほどの圧迫感はそこから来ている。

「社長」

 面接官が三人とも立ち上がったのが分かった。

 お疲れ様です、と口々に挨拶している。

 笑美の視界の端に、綺麗に磨き上げられた革靴が映った。おそらく、「社長」のものだ。

 面接に気まぐれに来てみたら、変な女が呼吸困難になっている。「社長」から見たらそんな感じだろうか。必死に体裁を取り繕おうとしても、やはり立ち上がることなどできなかった。

 ふと、革靴が近付いてくる。笑美はますます焦った。こんな失礼なことはない。頭では分かっていても、圧迫感は増すばかりだった。

「大丈夫ですよ」

 頭の上に暖かさを感じる。そこから全身に血が行き渡るように、じわじわと温まっていく。

 深呼吸をすることができた。そのまま、顔を上げる。

「ウッ」

 瞬間、笑美は嘔吐しそうになった。先程までの押しつぶされるような不快感からではない。

 視界に入ったのは「社長」ではなかった。「社長」らしき男性を遮るようにして浮いているバケモノだ。

 眼窩が洞穴のように空洞で、異様に大きい。顔の半分以上を占めているように見える。鼻と口、長い髪が女性的で、おそらく女の幽霊なのだが、元が人間だとは信じられないくらいだ。全体のバランスも狂っていて、玩具のような雑な造りの手足が巨大な顔の下についている。ここまでの異形は様々な「生きている人間以外」を見てきた笑美でも見たことはなかった。

 恐ろしすぎて声も出ない。

 女はすでに息がかかりそうな位置まで接近してきている。

 女の髪がべたりと笑美の顔に張り付いた。

「し と み い」

 バケモノの小さな口がなにか言っている。

「し と み い」

 真っ暗な眼窩を笑美の方へ向けて――


「明日から来ていただけますか」

 凛とした声が響いた。同時に、バケモノの姿も見えなくなる。

 ようやく見えた「社長」は、張りのある声に比して随分印象の薄い青年だった。HPに載っていた写真と全く違う。HPに出ていたこの会社――モリヤ食品――のCEO、守屋もりや秀光ひでみつは厳めしい顔つきの60代くらいの男性だった。しかし、目の前の「社長」は、どう見ても30歳以上には見えない。笑美より年下、それどころか、高校生と言っても通用しそうだった。

「社長」は眼鏡を外して、胸ポケットから取り出したハンカチで拭いた。眼鏡を外すとますます印象が薄くなる。しかしどういうわけか笑美は、彼に好感を抱いていた。

 考えるより先に「はい」と声が出る。何を決断するにも時間がかかり、臨機応変に行動する、ということがまったくできない笑美にとっては初めてのことだった。

 案の定、面接官は困惑している。

「しかし社長、まだ面接の途中で……」

「社長はやめてくださいといつも言っているでしょう」

「社長」がひとこと言っただけで、中年男性は口を閉じ、目を落ち着かなく泳がせた。

「やっと見つけました。貴女は素晴らしい。こんなに嬉しいことはありません」

「社長」は笑美の手を両手で握り、優しく微笑んだ。先程頭に手を置かれたときのように、彼に触れられた部分から末端へと熱が伝わる。こんなに幸せな気持ちになったのは初めてだった。

 頬が濡れて、自分が泣いていることに気付いた笑美が指で涙を拭おうとすると、「社長」は笑美の指をそっとつかみ、代わりにハンカチで涙を拭った。

「ヤン、と呼んでください」

 笑美は幸せで満たされ、ぼうっとした頭で曖昧に頷いた。ヤン、という名前の響きは、中国人かもしれない。

 年若く、また、社長でもない彼がどうして「社長」と呼ばれていたのか、あのすさまじいバケモノはなんだったのか。今の笑美にとってはどうでもよいことだった。

 笑美はぼうっとした頭のまま家に帰り、兄の陽太にメッセージを送った。

「就職決まったよ、心配かけてごめんね」

『どこに』

「モリヤ食品」

 フリック入力。下にスワイプ。「モ」を打つだけで指先が震えるほど誇らしかった。

 地元の誰も、笑美がこんなところに就職できるとは思わなかっただろう。

 当の笑美でさえ信じられない気持ちだったが、「モリヤ食品」と入力することで、空想が現実になったようで嬉しかった。

『うそだろ』

 画面に、とぼけたような顔の猫のスタンプが躍った。

「嘘じゃないもん」

『証拠』

 笑美は届いた採用メールをスクリーンショットして、陽太に送る。

 ややあって、

『本当っぽいのは分かったけど、時間も集合場所もやばくない?』

 確かに、メールには明日の朝六時に、あのオフィスとは遠く離れた、都内ですらない場所に出勤せよ、というようなことが書いてある。

『ブラックっぽい。やめたほうがいい』

 曖昧に笑っている女の子のスタンプを押して、笑美はスマートフォンをソファーに放り投げた。

 集合時間が早いくらいなんだっていうんだろう。全くうまくいかない中、拾ってくれた会社だ。しかも、モリヤみたいな、誰でも知っている上場企業。就活生向けのサイトにも、掲示板にも、悪い噂なんて一つもなかった。

 時計を見ると、いつの間にか十時になっている。ずっと夢見心地だったからだろうか、全く気が付かなかった。なんだかお腹も減らない。

 明日は、遅くとも五時には家を出る必要がある。もう歯を磨いて寝てしまおう。

 笑美は放り投げたスマートフォンを充電器にセットして、寝る支度を始めた。

 ベッドに入ってからもしばらく、笑美はヤンに触れられたときの、溢れるような多幸感を何度も何度も反芻した。

 本当に何年かぶりに、笑美は微笑みながら眠りに落ちた。

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