異端の祝祭
芦花公園
第一章:死
①
「でそのときあっくんがレミに言ったわけ」
「なにそれやばみ」
「わかるわかるっそういうとこあるよねっ」
女子高生三人組が電車で楽しそうに話している。ボブヘアと茶髪ワンレンは座席に座り足をだらしなく投げ出していて、もう一人の黒髪ロングがその前に立っている。
「てか今日部活? 」
「いや今日はなんもない。どっか寄ってく?」
「私パンケーキ食べたいっパンケーキがいいっ」
「金欠やしマック」
「確かに。Wi-Fiあるしね」
「りょー」
「パンケーキがいいよっパンケーキっ」
どこにでもある普通の光景。おそらく乗客の誰もが気にも止めていない。島本
笑美だけは女子高生の会話を聞いて影が挿したような、暗い気持ちになっていた。
ああ、私も何度もやられてきたことだ、と思った。
さっきからボブヘアと茶髪ワンレンだけがコミュニケーションを取っていて、黒髪ロングは完全に無視されているのだ。彼女達にどういう事情があるかは分からない。でもどうしても、笑美は自分と黒髪ロングを重ねてしまっていた。
笑顔の美しい子に育つようにと母がつけてくれた名前なのに、これまでの人生で心から笑ったことなどほとんど無かった。
本当に幼い時はまだ良かった。無口な父と朗らかな母、年の離れた優しい兄、とにかく甘やかしてくれる祖父母だけが笑美の世界だった。しかし小学校に上がるとそうはいかない。何をするにも他人とコミュニケーションを取らなくてはいけないのだ。
人に話しかけることも話しかけられることも苦手な笑美にとって同世代の子供も、先生という親以外の大人も恐怖の対象でしかなく、ただ教室の隅でじっと丸まっていた。もしかして、都会ではそういう性格も個性として受け入れられるのかもしれないが、笑美の育った田舎ではそうではなかった。人と話さない暗い女の子はたちまちいじめの対象になった。
無視される。教科書に落書きをされる。私物を隠される。ひどいときは複数人にボールの的にされたこともある。
そして可愛げのない女の子は大人も守ってくれない。
先生に一回相談したところ、「気のせい」「じゃれ合いの範疇」と判定され、さらに「話し合いの会」という名前の笑美の悪いところをあげつらわれる会を開催された。それから、笑美は大人を信じるのをやめた。結局、いじめは笑美が中学を卒業するまで続いた。
高校生になるといじめはピタリと止んだ。それどころか華やかな女子のグループから声をかけられ、仲間に入れてもらうことも出来た。
地元で有名な不良の山池先輩(笑美の高校のOBだ)が笑美のこと――具体的に言えば笑美の発育の良い体を気に入り、それを公言していたから、というのがいじめが止み、華やかな女子グループから声をかけられた理由だ。笑美がグループにいれば、山池先輩と話す機会が増えるかもしれない、という打算。どちらにせよ笑美が救われたことに代わりはない。山池先輩は何かと笑美の面倒を見てくれた。きっかけは笑美の肉体的魅力だったかもしれないが、山池先輩は決して笑美に付き合うだとか、増してや性行為だとかを強要することなどなく、見かけると声をかけてくれた。グループに入れてもらったからと言って派手なグループの女子とうまくいっているとは言い難かった笑美の支えはその山池先輩と交わすほんの二、三言のコミュニケーションだけだった。
ファッションや恋愛や流行のものに興味があるグループの女子たちと違って笑美はひたすら地味で、好きなことと言えば上京した兄が置いていった将棋盤で遊ぶことだった。
彼女たちと全く趣味が合わないのは分かっていたが、それでも笑美は努力した。兄の反対を押し切って髪を明るく染めたり、雑誌で紹介されていた流行のアクセサリーを見様見真似で自作したりもした。その努力は全て無駄だった。
髪を染めれば嫌そうな顔で「うちらの真似やめてくれる?」と言われたし、ビーズアクセサリーは貧乏くさいと鼻で笑われ、捨てられた。そんな仕打ちを受けても、笑美は何も言い返せず、媚びへつらうような笑顔で彼女たちの後を付いていくしかなかった。
笑美のグループ内での扱いはまさに空気だった。小学生の時と違って、あからさまな無視や嫌がらせはない。会話もあるし、移動教室や林間学校のグループも同じだ。しかし笑美の意見が取り入れられることはない。学校では一緒に行動していても、休日に遊ぶ人間はいない。
修学旅行は東京だったが、自由行動の時、適当な理由を付けて巻かれてしまった。永田町のカフェでぼんやりとスマートフォンを見ながら過ごした5時間は一生忘れられない記憶となってその後も度々笑美の心を刺した。
大学は両親の勧めもあって東京を選んだ。母は元は杉並区の人間で、
「笑美みたいな人付き合いの苦手な子には東京の方がいいかもね」と言った。
いじめのことも対人関係のことも相談したことは無かったが母は気付いていたのかもしれない。
幸い成績は良い方だったため、笑美は成績優秀者のために地方自治体が行っている奨学金制度の枠である程度有名な私立大学に進学することが出来た。
そして母の言っていたことは本当で、東京には笑美と同じように、コミュニケーションが不得手な人が沢山いた。引っ越した先でも近所付き合いは皆無だったし、人付き合いが苦手でも、レポートやグループワークでは少し困ることはあったものの、なんとか大学生活はやっていけた。バイト先の飲食店は近くに大きな出版社のある忙しい店舗で、コミュニケーションを取ることよりすばやい食器の上げ下げや調理が優先された。本当に東京に来て良かったと思ったものだ。
元来勉強することも、地道に課題をこなすことも、全く苦に思わない性格だった。
評定も良く、バイトにもやりがいを感じ、笑美はかつてないほど充実していた。
友達がいなくても、一足先に上京していた兄がいた。兄は既に働いていて、お金も持っていたので、笑美を色々なところに連れて行ってくれた。孤独を感じることなど全くなかった。
コミュニケーション能力に難のある自分でも、都会ならこのまま支障なく生活していけるのだと、笑美は思っていた。
しかし順調だったのは三年生の夏までだった。就職活動が始まったからだ。学歴と資格さえあればどうにかなると思っていたのが浅はかだったと気付いたときには遅かった。まず、インターンの時点で笑美は思い知った。笑美より評定の低い、毎日飲み会をして、講義にも最低限しか出ていなかったような同級生が、笑美よりずっと「使える」人間だということを。彼らはいきいきと働き、社員にも気に入られたようだった。最終日、社員から言われたことを笑美は今でも覚えている。
「興味なかったらわざわざ来なくてもいいよ。他にも会社はいくらでもあるんですから」
笑美のおどおどとした態度は、一般的には「やる気がない」と見做されてしまうようだった。
兄に相談して、面接の訓練をした。心理学の本をたくさん読んだ。カウンセリングも受けた。しかし、本格的に就職試験が始まっても、培われた性格がそう簡単に治るわけはなかった。
何社受けても陰鬱な印象でマニュアル外の質問をされると挙動不審になる笑美を採用する会社は現れない。そうこうしているうちに卒業を迎えてしまい、笑美は俗に言う就職浪人生になってしまった。ただでさえ、新卒でない者の就職は困難を極めると言われている。増してや、こんな自分では――
今日も鬱々とした気持ちで電車に揺られている。今回で何社目になるだろう。50社から先は数えるのをやめた。
ただでさえ憂鬱な気持ちが高校時代の笑美を彷彿とさせる黒髪ロングの女子高生のせいで加速する。ボブヘアと茶髪ワンレンは無言でスマートフォンを弄っているというのに、黒髪ロングはなおも彼女達に話しかけ続けている。痛いほど気持ちが分かる。なんとかして自分の存在を受け入れて欲しいのだ。
「行こー」
「うん」
「パンケーキだねっ一緒に話そうねっ」
座席に座っていた二人が席を立ち、その拍子にボブヘアの鞄からキーチャームのようなものがこぼれ落ちる。黒いウサギの尻尾にも似たそれは笑美の足元にまで転がってきた。
「落ちましたよ」
ボブヘアの肩を叩き手渡そうとすると、彼女は笑美の手を振り払って、
「なに?意味わかんない」
と吐き捨てた。
自分もかつてそうだったはずなのに、女子高生の遠慮のない物言いは怖い。女子高生特有の根拠のない万能感――笑美にはなかったものだったが――だからこんなにひどい言い方ができるのだろうか。それでも深呼吸をして、なんとか心を落ち着かせ、
「これ落ちてたから」
と努めて冷静に答える。
するとワンレンが、笑美の顔を不気味なものでも見るかのように一瞥したあと、ボブヘアの手を強く引っ張り、そのままボブヘアを連れて電車を降りてしまった。
女子高生ってこんなに失礼な生き物だっただろうか。それとも不審者と思われたのだろうか。地味な見た目だが、リクルートスーツを着て薄化粧もしているし、そこまで怪しげな風体をしているわけでもないのに。
ワンレンが強い口調で、
「あの人絶対関わっちゃいけないタイプの人だよ!」
とボブヘアに言っている。そのままこちらの様子を見ながら二人は小走りで視界から消えてしまった。
――女子高生から不審者扱いされる女なんて採用されるわけないよね。
どうせ今日の面接も不採用だろう、と笑美は自嘲気味に笑って女子高生の残したチャームを握りしめた。見た目と違いフワフワな感触ではない、ゴワゴワしていて、まるで髪の毛のようだ――
「パンケーキ一緒に食べようねっ」
耳元で黒髪ロングの声がする。
「一緒にパンケーキ食べようねっ」
口を耳まで釣り上げて、満面の笑みを浮かべたそれが笑美を見て繰り返す。
「パンケーキ食べようっパンケーキっ付いてくからっ絶対っ絶対っ付いてくからっ付いてく付いてく付いてく付いてく付いてく付いてく付いてく付いてく付いてく付いてくっ」
笑美には生きている人間とそれ以外の区別がつかない。
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