まっくらやみの司書さま

憂杞

まっくらやみの司書さま

「アイウ、このご本を読者さまへ」


 と司書さまが仰りましたので、ぼくは差し出されたご本を丁重に受け取りました。


「はい、司書さま」


 車椅子に掛けられた司書さまから返事はありません。

 うっかりしていました。ぼくは慌てて司書さまのお傍に駆け寄り、伸べられた手のひらにすらすらと人差し指を滑らせます。


「お願いね」


 ぼくが離れていくと、司書さまは母君のように微笑まれました。


 小さな事務室を出ますと、広大な書架の列が出迎えます。まっすぐの狭い分かれ道を囲うように、ぼくが背伸びしてやっと四段に届く棚が六段、悠々と並んでそびえ立っておりました。

 百年もの歴史があるという広間の組み木の床を、靴音立てぬようにそっと歩いていきます。読者さまはこの大図書館の入り口で待っておられるのですが……


「このご本で誠にいいのだろうか」


 ぼくは不安に思いました。持たされたご本は、古い童話のようです。

 受付のメモヤが言うに、此度の読者さまはご老人の方です。新たな出会いを求めて初めて来館されたのであって、特別このご本を所望されたのではありません。そんな読者さまに司書さまは一度面会するなり、ぼくに持たせた童話こそ相応しいと踏んだのですが、


「目も見えず耳も聞こえなくて、どうしてこの本をお選びになるのだろう」


 にわかに信じがたいお話でした。童話はぼくみたいな子供向けのご本であるのに。

 はたと大きな不安に陥ってしまうと気が気でなく、ぼくは立ち止まり手に持ったご本を見下ろしてしまいます。そして辺りを見回すことも忘れて、こっそり中の物語を覗こうとします。


「こら」


 後ろから鋭い声が飛びました。ぎくりとして振り向くと、ぼくより少しだけ年上の女の子であるエオカが、怒った様子で立っていました。


「駄目でしょう、読者さまより先にご本を開いては」


 ぼくは面倒な気分になりました。エオカはぼくが唯一の下っ端だからか、誰より口うるさく世話を焼いてくるのです。


「でも司書さまが間違えておられるのかも。間違いを直せるのはぼくたちだけだ」


「司書さまのお目利きに間違いはない」


 そうきっぱり答えたのはエオカではなく、重そうな荷台を押して通りがかっていたロワンでした。

 ロワンは最年長の働き者です。年はぼくより十四も上で、背が高い彼の両まぶたにはクマができております。ぼくもエオカも、その白んだ顔を恐る恐る見上げていると、つい口を噤んでしまうのでした。


「それより早く行け。読者さまが待っておられる」


 ロワンの厳しい声にぼくはハッとして、すぐ頭を下げて歩き去りました。エオカもせっせと持ち場の書架の整理に移ります。

 ぼくはまっすぐ読者さまのもとへ歩きました。今も不安でないと言えば嘘になりますが、ロワンが間違いないと言うのであれば、きっと大丈夫なのだろうと思います。


 読者さまは受付前の長椅子に掛けておられました。隣に座ったテトナが笑顔を振りまき、懸命に話し相手をしております。


「お待たせしました。ご本をお待ちしました」


 お声を掛けて近寄ると、テトナは断りを入れて蝶々のように去っていきました。その親しげな素振りに普段の大人しさは少しも見当たりません。受付台の向こうに立つメモヤはぼくを見るなり、手元の帳簿に何かを書き留めました。

 ぼくが渡したご本を、読者さまは大切そうに受け取られます。それからお顔いっぱいに浮かべた笑みをぼくに返すと、


「ありがとう」


 と仰り、頭を撫でてくださりました。

 初めての人に撫でてもらえるのは初めてです。


 ぼくとメモヤがお辞儀をすると、読者さまは手を振りながら帰って行かれました。その後ろ姿はとても満足そうでした。司書さまは間違いなどされていなかったのです。






 夕方の閉館時間になると、ぼくたち働き者の十五人は奥の書庫に集まりました。


 毎晩、十五人それぞれが持ち場からご本を持ち出して、同じ部屋で読むという決まりがありました。エオカは少し長めの童話、スセソは文字が大きめな小説、メモヤは重そうな植物図鑑を読んでいました。

 ぼくは持ち場に短い童話や絵本を置いていますが、興味があって辞書の方をよく読んでいます。エオカには小言を言われましたが、リルレやロワンは何も言いません。どころか読めない字を分かるように教えてくれたり、助けになる別のご本を紹介してくれたりします。司書さままで寛大でいてくださったので、ぼくは引け目を感じて絵本も読むようになりました。


 司書さまは壁際に車椅子を寄せて、後ろからぼくたちの読書を見守っています。盲目であるはずの視線は妨げにも重圧にもならず、いつも程よい集中力を賜っていました。


 十四人と会話をする際、司書さまは盲ろうである代わりに霊力を持たれると聞きます。

 風の流れやにおいを鋭敏に感じ取れるとか。

 それにより周囲の空間のみ把握できるとか。

 亡くなった先代の司書さま方とお話ができるとか。

 ほとんどは噂に過ぎないでしょう。ただ一つ確かなことは、司書さまの耳目は生まれつきああではなかったことだけです。

 それ以上は噂に留め、深く掘り下げることのないように、ぼくたちは目と目で約束をし合いました。


「いま焦らずとも、いずれ知る時が来るだろう」


 そう諭したのはロワンでした。


 ロワンは書庫の隅にある席を借りて、誰より根詰めて歴史書を読み耽っていました。傍らには紙と鉛筆を備え、読み終えたご本はせっせと棚に戻し、時おり閉架図書からも資料を持ち出して読むのです。

 深夜に皆が寝静まる中で、ロワン一人が読書灯をともすこともありました。目を赤らめつつご本にかじりつくさまは、以前のせりふに反して焦っているようであったのを憶えています。


「ぼくたちは何のためにこの図書館で働くのだろう」


 心配に思ったぼくの疑問に、ロワンは答えました。二人きりの夜中の書庫でのことです。


「おれたちもまた書架に収められたご本だからだ。この図書館に拾われなければ、おれたちのような孤児は息衝くことすらなかった。この母なる館を守り続ける司書さまのために、十五人が手足となって支えていくべきなのだ」


 言葉の通り、ぼくたち十五人は身寄りのない拾われ者です。ひとたび館外へ出ても行くあてはなく、易く生きられることはないでしょう。居場所を頂いて、図書館のお仕事を教わった時のぼくは、涸れていたカップに温かなスープが注がれる心地でした。


 図書の管理者たるもの、未知を軽んじるなかれ。ロワンがかつての司書さまから聞いたことです。

 それは同じ屋根の下に棲まう者として、家族を知っていくことと同じなように思いました。


「なんだかわくわくする。館内のご本たちも皆、ぼくたちの仲間だと思うと」


 ぼくは書庫に並んだご本たちを眺めます。少しの読者さましかお目にかからないという閉架の書には、ぼくも触れたことがありません。そして、誰もが利用する広間には書庫の何十倍、何百倍ものご本たちが待っています。

 ぼくたちはまだ、ほんの一部の仲間たちにしかご挨拶できてないのです。


「今のうちにたくさんのご本に会っておきたい。恩人たちの良さを一つ一つごまかさず知って、読者さまに伝えていくんだ」


 ぼくがそう言うと、ロワンはまなじりを下げて微笑みました。司書さまを思わせるその笑みは、少しだけ悲しそうに見えました。


「そうだな。それがいい」


 ロワンは少しだけ、泣いているようでした。


 その次の日、ぼくたちはいつものように働きます。ロワンは昨日何もなかったかのように、エオカたちは何も知らない様子で、いつもの書架整理や読書に明け暮れています。


 ぼくにもやることがたくさんあります。最年少のぼくが教われることはまだ少ないですが。

 読み書きの訓練。読書。いつもの書架整理。読者さまをお出迎えする練習。いくつも身につけているうちに、当たり前のように日は過ぎていって……


 そうしてぼくたちは、新しい年を迎えました。






「エオカ、このご本を読者さまへ」


 と司書さまが仰りましたので、ぼくは差し出されたご本を受け取りました。持ち場の書架に置かれていた、少し長めの童話です。


「はい、司書さま」


 ぼくは呟いて、司書さまに近付きました。伸べられた手のひらに人差し指を滑らせて、「行って参ります」と伝えます。


 それから、彼のタコだらけの手を包み込むように、そっと握りました。


「エオカ? 早く行け」


 司書さま方は大人に育った時、突然盲ろうになられたと聞きます。

 そんな彼にも分かるように、ぼくは温もりを捧げました。とはいえ終いにはクマのついた顔をしかめられましたので、ほどほどにして事務室を後にします。キクケに見つかってしまえば、また口うるさく言われるかもしれません。


 ほんの些細な行いでしたが、あれで今までに言えなかった感謝を伝えられていたらいいなと、ぼくは願うばかりでした。

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