賢い電話
兵藤晴佳
第1話
朝の日がずいぶん高く昇って、部屋も明るくなりました。
僕はベッドの上に座った大人の女の人の、青く長い髪がこぼれるのを見つめながらため息をつきました。
「また見つかっちゃった」
手に持っていた、小さな鏡みたいなものをベッドの上に放り出したリュカリエールは、ずっと年下の僕をぎゅっと抱きしめます。
耳元でひそひそ言う息が、くすぐったいです。
「いけない子ね、パルチヴァール」
それが僕の名前でした。
リュカリエールが、ぎゅっと頬を寄せてきます。
「どうせ見つかるんだから、外になんか出なければいいのに」
「次は絶対見つからないよ」
この広い街のどこをどう逃げたら捕まらないか、一生懸命考えます。
でも、その端っこがどこで、どこにどんな道があるか、全部知ってるわけじゃありません。
リュカリエールもそれが分かってるのか、面白そうに笑いながら答えました。
「どんな手を使っても見つけられるわ、私なら」
こうなると、僕も負けるわけにはいきません。
今、ここにはいない別の女の人と比べてやります。
……おうち時間を過ごしましょう。
遠くから聞こえる声は、その人の声です。
リュカリエールと交代しながら、ずっと遠くにある大きな建物の中で、たいへんなことが起きるのを食い止めているのでした。
それがどういうことなのか、よく分かりません。
でも、凄いことなんだっていうのは僕にも分かります。
「プシケノースにできないことが、リュカリエールにできるわけがないよ」
「プシケノースにできることが、私にできないわけがないわ」
こういうとき、リュカリエールはいつもこうなります。
今は暗いから見えないけど、明るい時はちょっと怖い顔になるのです。
でも、そんなの平気でした。
「はっきり言い切るね」
僕のことになると、いつもプシケノースと張り合うのですから。
リュカリエールは小さな鏡みたいなものをベッドの上から取り上げると、薄いシャツの胸元にしまいました。
甘い声で、でも面白くなさそうに、耳元で囁きます。
「強く思ってるもの、パルチヴァールのことは」
それは、よく分かってるます。
だから、リュカリエールは僕がこの部屋を抜け出すたびに街を探し回って、何かあれば必ず守ってくれるのです。
でも、ありがとうなんて言いません。
「プシケノースもそうなんだね」
思ったとおりです。
リュカリエールはむきになりました。
また、僕を抱きしめると、柔らかい胸の中に押し込めます。
「私のほうが、ずっと。だから、パルチヴァールも私のこと……」
それっきり何も言わないのは、眠ってしまったからです。
からかうとすぐに怒り出すけど、疲れるのも早いのでした。
ベッドとリュカリエールの腕の中から、僕は悠々と抜け出します。
「ちゃんと見つけてくれるんだから、外に出てもいいよね」
夜の道を歩きながら、僕は耳を澄まします。どこかを走る足音が、割と近くに聞こえました。そっちへ向かって走りだします。
足音の主は、本当は遠くにいるはずでした。大きな足音をたてて、近くにいるように思わせているのです。
リュカリエールの言うことが本当だったら、僕は追いつけるはずでした。
相手を強く思っていれば、見つけだせるのですから。
でも、足はすぐに疲れてしまいます。
「会えないじゃないか」
立ち止まってつぶやきます。
リュカリエールやプシケノースにできて、僕にできないことがあるのは面白くありませんでした。
いつも聞こえる、走る足音。
それを、僕はずっと追いかけているのでした。
走っているほうは、いつでも僕に近づくことができるらしいのです。好きなときに、声をかけてきたりもします。
いつも一緒にいる、と言ってくれたこともあります。
でもやっぱり、それじゃダメなのでした。
僕が自分で追いつくんでなければ。
でも、リュカリエールにもプシケノースにも、どうしたらいいか聞いたことがありません。
たぶん、リュカリエールは怒るか、ごまかすか、どちらかです。
プシケノースは、「いい子はむやみにものを聞かない」と言うでしょう。
だったら、もういいです。
「悪い子になってやる」
そうつぶやいたとき、僕を取り囲んだ人たちがいました。
黒いマントのお爺さんがひとり。
右目と左目のどっちかに眼鏡をはめた、若い男の人がひとりずつ。
おじいさんが言いました。
「嬉しいですねえ。そう言うのを待っていましたよ」
男の人たちが、そろって同じことを言いました。
「一緒に来てください。お力になりましょう。
そこは、古い家でした。
中に入ると、とても薄暗くて埃っぽいのです。
お爺さんたちは、すぐ目の前にあった階段を登っていこうとします。
でも、僕はそのそばにある棚の上に置かれた、何か黒いものが気になりました。
円い輪がついていて、その周りには何か字が書かれていて、上には太い棒が横向きに置かれています。
ちょっと背が届かないので、階段を少し上がってから、太い棒を手に取ってみました。
がちゃん、と音がします。
階段の上から、お爺さんが教えてくれました。
「それは、電話だよ」
右眼鏡の人が言葉を続けます。
「遠くにいる人と話をする道具さ」
すると、あの走っているとも話ができるかもしれません。
ここにはいないプシケノースとも。
でも、それを耳に当てても、音がしません。
左眼鏡の人が言いました。
「向こうの人が持っていないと離せないし、その電話はもう、つながっていないんだよ……あの日から」
それがいつだったかは、思い出せません。
僕が朝、起きたときに覚えているのは、プシケノースとリュカリエールのこと、そして、あの走る足音のことだけなのです。
それでもその、電話とかいうものに耳を押し当てて耳を澄ましていると、上からお爺さんの声がしました。
「こっちへ来なさい、ここに来れば、探しているものが見つかります」
そこは、いろんなものが散らかった部屋でした。
ベッドの上には本、床にはお菓子の袋や、放り出された服と下着。
部屋の外で、お爺さんが言います。
「ここが、世界の中心なんだよ」
男の人たちの声がしました。
「この街は、世界の中心にあるんだ」
「そして、この家は、この街の中心にある」
この部屋の真ん中にある小さな板に、僕は気が付きました。
リュカリエールが持っていた、鏡みたいなものに似ています。
拾い上げてみると、僕の顔が映っていました。
でも、鏡みたいにぴかぴかではありません。
上と下をひっくりかえしたり、裏返したりしているうちに、僕の顔が映っていた辺りが急に光って、何か音がしました。
びっくりしましたが、音は止まりません。
「え?」
床に落としそうになったのを、その前に慌てて捕まえます。
お爺さんが教えてくれました。
「それスマート・フォン……賢い電話だよ。話しかけてみなさい」
言われた通りにしてみました。
「ええと……」
何を話したらいいのか分かりません。
でも、電話は返事をしてきました。
「何か用?」
僕が誰だか知っているみたいです。
僕も、それが誰の声だか知っていました。
あの、走る人の声です。
「君はだれ? ここはどこ?」
そのとき、光の幕が目の前で弾けました。
気が付くと、僕は裸になっていた。
身体は、少年に成長している。
手の中のスマートフォンからは、聞き覚えのある声が聞こえる。
眺めてみると、そこに映っているのは僕の顔じゃない。
左右に分けられた画面のそれぞれに、きれいな女の人たちの顔がある。
何やら言い争っているのは、リュカリエールとプシケノースだった。
「またいなくなったの? パルチヴァールが? 子守りもできないのね、あなた」
「それはお互い様でしょ? もしかして、仕事投げ出して連れ出したんじゃないの?」
そこで、声が途切れた。
僕を探しに出るつもりなのだろう。
スマートフォンから聞こえる声が、僕をたしなめるように言った。
「家に帰れよ、そろそろ……」
そうだ。
リュカリエールとプシケノースもいないから気は楽だけど、ここは、僕の家じゃない。
何か、寂しいのだ。
床の上に散らかった服に着替えると、後ろでドアの閉まる音がした。
老人の声が聞こえる。
「ずっとここにいてもいいんだよ。そのスマートフォンさえあれば、君は寂しくない」
でも、賢い電話は手の中で粉々になった。
「残念だけど、自分で何とかするよ」
若い男の人の、どっちかが言った。
「それは無理だ。君は、ここから出られない」
ここ?
それは、この部屋のことだ。
確かに、僕はここを知っている。
妙に懐かしいのだ。
確か、原子炉が暴走する前……。
そこから先は、はっきりとは思い出せないけど。
「出る必要はないんだ。見つけてもらえるから」
もうひとりの男の人の声がする。
「ここは、見つけられない……はじまりにして、終わりの場所だから」
そこで、僕は気が付いた。
「聞こえない……プシケノースの歌声が」
老人が、皮肉っぽく笑った。
「あの制御装置自体が、一種のスマートフォンになっているのさ。女同士が罵り合うには、いい道具さ」
プシケノースが歌わないということは、原子炉の制御が止まるということだ。
でも、僕は屈しない。
「見つけるんじゃない。僕が見つけるんだ」
老人は呆れたように尋ねる。
「あの女どもをか?」
「違う」
僕が言い切ると、若者たちが声を揃えて尋ねた。
「あの、走る男か?」
それも違う。
僕は自信と共に、こう告げた。
「本当の、世界さ……君たちのいいなりには、ならない」
それ以上、声は聞こえなかった。
ドアを開けると、そこには誰もいない。
家の外から、僕を探し回るリュカリエールの声が聞こえる。
いや……プシケノースの声までが。
それは、制御装置が放置されているということだ。
リュカリエールとの喧嘩で、相当、頭に来ているらしい。
原子炉がまた暴走するというのに……。
やれやれだ。
走る足音は割と近い。ということは、僕のそばにはいないのだ。
リュカリエールとプシケノースの声は、遠ざかっていく。
どうやら、僕のほうから見つけてやるしかないようだ。
賢い電話 兵藤晴佳 @hyoudo
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兵藤晴佳 @hyoudo
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