エピローグ

エピローグ

 あの雨の日から一週間が経った。


 空が重たいこの時期には珍しく、今日は雲ひとつない。窓から差しこむ光は、確かな夏の歩みを感じさせた。運動部員たちが表情を輝かせて駆けていくのも、久々のこの晴天を思えば無理からぬことだろう。


 そんな様子を眺めながら、英士とヒスイは放課後の廊下を歩いていた。


「見ろ、エージ。あの投球ロボットも、数日ぶりの出番に嬉しそうだ」


「そんな感じだな。なんとなく、だけど」


 球児たちの後をガッシャガッシャと追っていく投球用のロボットは、代々の野球部が大切に管理している相棒だ。太陽の下で走る彼らと共に練習することが、あのロボットにとっては最上の喜びに違いない。

 あれは声も表情もない無骨なロボットだが、英士はヒスイの言葉に素直に同意することができた。もう、あの纏わりつくような不快感は遠い。


 そして、このロボットに対しても。


「あら、殿羽君にヒスイちゃん。今日は二度目ね」


「ゴ来店アリガトウゴザイマス」


 聞き慣れた声が二つ、英士とヒスイを迎える。英士は笑って右手を軽く振り、ヒスイは生真面目にお辞儀を返した。


「今日で、この学校を離れることになりました。購買にはお世話になったので、改めてご挨拶を、と」


「あら、そうだったの……寂しくなるわねぇ」


 退院して購買に帰ってきた近藤は、また少し痩せた頬に手を当てる。


「元々、体裁としては短期留学に近いものでしたので。しかし、ここの限定プリンが食べられなくなるのは残念です」


「二人は常連だったものね。うーん、プリンは残っていないけれど……」


 よいしょ、と近藤が立ち上がり、コータローの横にやって来る。

 彼女は在庫を眺めると、シュークリームの包みを一つ取り上げた。


「はい、持っていきなさい。餞別よ」


「いえ、そういったことを求めに来たわけでは……」


「命の恩人に、一つくらいはお返ししなければ罰が当たっちゃうわ」


 パチリ、と歳を思わせないウインクをしてみせる近藤に、ヒスイはしばらく考えた後、こくりと頷いた。


「では、ありがたく受け取らせていただきます」


「百円ニナリマス」


「こらこら。これはいいのよ」


 目の前のやり取りが理解できていないコータローを、近藤が笑いながら制止する。

 しかしヒスイは、その相変わらずの物分かりの悪さに、眉を潜めた。


「……コータローは大丈夫だろうか。こういった融通のきかないところをあげつらう者から、残酷な仕打ちを受けたりはしないだろうか……」


「考えすぎだよ、ヒスイ。こいつが真面目なのは皆知ってるし、何かあったら俺がどうにかするさ」


 ヒスイが虚を突かれたような顔で英士を見つめる。きまりが悪くなり頬を掻く英士だったが、彼女の視線から逃れようとはしなかった。

 その態度を見て、ヒスイはやがて得心したように頷いた。


「それならば、心配は無いな」


「ああ、任せとけ」


 ヒスイはコータローのヘルメットのような頭を軽く撫でると、英士の手を取った。


「それでは、もう行きます。どうか健康にはお気を付けて」


「ええ。ヒスイちゃんもお元気で」


 ヒスイはそれきり振り返ることなく、購買を後にした。


 ヒスイは、プリン争奪戦で走り回った校舎をもう一度回りたいと言い、英士はそれを了承した。景色を目に焼き付けるように辺りを見回しながらも、ヒスイは足を止めない。


 ぽつぽつと蕾が目立つようになってきた中庭の花壇を前にした時も、その蕾をまじまじと観察している箱型ロボットと擦れ違った時も、彼女はほんの少し目を細めただけだった。

 しかし英士は、彼女の郷愁ともとれる感情の揺れを、その視線から察していた。


「咲いたら、写真を送ってやるよ」


「楽しみだ」


 英士の提案に、ヒスイは満足げに頷いた。



* * *



 オートウォークの大廊下を下りて、靴を履き替える。


 校門前の長い坂にさしかかり、ヒスイはシュークリームの包みを開けた。彼女はちらと英士の顔を窺ったが、彼が頷くのを見て、もそもそとシュークリームを齧り始めた。


 のどかな日差しが降り注ぐ通学路を、二人で並んで歩く。

 交わす言葉は少ないが、存外居心地は悪くない。そんなことを考えながら、英士は再度ヒスイの手を取った。彼女の手は、ひんやりしていて気持ちが良かった。


 英士とヒスイは、いつも放課後に寄っていた中心街の方へと足を向ける。

 すっかり見慣れたその景色の中を歩けば、色々な人に声をかけられる。『たいやきやたい』の店主などは、遠目だと言うのに目敏く二人を見つけて、大きく手を振っていた。


 その一人一人の表情を、ヒスイは愛おしそうに眺め続ける。ともすれば仏頂面に見える彼女の無表情だが、その裏の静かな高揚が、英士にはなんとなしに感じられた。


 しかし、二人は歩き続ける。緩やかな歩調で、その日常を後にする。


 二人は歩き慣れた頼寺通を抜けて、大きな銀色のゲートの前で足を止めた。


「早かったね。もう少しゆっくりしてくれば良かっただろうに」


「いいんだよ。十分だ」


 ゲートの前で待っていた靖久の言葉に、英士は短く答える。

 靖久がヒスイに視線を移すと、彼女も無言でこっくり頷いた。


「そうか。君たちがそう言うなら、そうなんだろう。ついておいで」


 ゲートを開けた靖久に続き、英士とヒスイは再び〈WIRE〉研究所へと足を踏み入れる。


 この軍事施設にやって来るのも、この一カ月でもう三回目である。最早見慣れてしまった新第三研究棟に、今度は堂々と正面口から入り、三人はエレベーターに乗り込んだ。


「これに乗るのは初めてだな」


「アウトローな絡み方ばかりだったからねぇ。この不良め」


「おまえも加担者だろうが」


「それでも君が首謀者だ」


 言い合ううちに、エレベーターは屋上まで辿りつく。

 左右に開いた扉を抜けると、そこは数日前のあの場所だ。ヘリも同じ場所で待機している。ただ、先日と違って今日の天気は快晴である。


「英士君!」


 白衣を羽織った才花が、少し離れたところで右手を挙げた。風に踊るブロンドヘアーのおかげで、距離があってもすぐに彼女だと分かる。


 それに対して、その隣に立っていた男を識別するには、近くまで歩み寄る必要があった。何しろ彼は、印象の薄い優男なのだ。


「鋼平おじさんも来てたんだ」


「一応、今回の件には深く足を突っ込んでいるからね」


 靖久の父・葉上鋼平は、柔和な笑みで応じる。今日の彼の表情からは、あの底冷えのするような迫力は感じられなかった。


「話したと思うけど、葉上先生は随分便宜を図ってくれたのよ」


 英士もそれは聞き及んでいる。今日が迎えられたのは、彼あってこそと言っていい。

 英士は会釈するように彼に頭を下げた。


 才花とヒスイは、この新第三研究棟の屋上から、今改めて光哲市を離れようとしていた。


 そしてそれは、ヒスイが兵器としての生を始めるためではない。


 医療を司る〈MIRE〉のロボットとして、チャイルドケア・ヒューマノイドとしての次なる活躍の場を求めて、彼女らは光哲市を去ることになったのだ。


「でも、本当に大丈夫だったんですか。俺が言うのも、何か変だけど」


「大した労力はかけていないよ。私の命令を無視して君の方に行ってしまった、と報告したら、上は血相を変えていたからね。そんな危険なものをウチに持ってくるなとさ」


 英士が身を張ったという部分が隠されているのだから、それはロボットが暴走したという報告と同義である。兵器開発を行う〈WIRE〉ならば、そういう話には特に敏感である。


 結果、ヒスイは不良品として突き返された、という体になっている。


「すみません、わがままを通してもらって」


 あの後、鋼平は問答無用でヒスイを連れていくこともできた。しかし彼はそうしなかった。

 英士が頭を下げると、鋼平は「気にしないでくれ」と首を横に振った。


「君の行動でわかったよ。彼女が戦場に行くことで泣く『人間』が、少なくとも一人いるということがね。それに目を瞑れば、私は自身の仕事を誇ることができなくなるだろう。……君の主張とは異なるだろうけど、僕にも譲れない一線はあるということさ」


 そう言って笑う兵器開発のスペシャリストが、かつてゲーム作りを志していたという話を、英士はふと思い出していた。


「……それで、英士。君はいいのかい? ヒスイちゃんがいなくなったら、寂しくなるだろう」


 父との話に一区切りがついたと見て、靖久が口を開く。


 結局、ヒスイがここからいなくなるという事実に変わりは無い。靖久は、それでいいのか、引き止めないのか、尋ねているのだ。


 なるほど、寂しくなるというのは間違いない。

 しかし英士は、彼の問いに迷いなく答えることができた。


「いいんだよ、ヒサ。俺はヒスイを縛り付けたいわけじゃないんだ」


 ヒスイが英士の傍にいる理由は、もうないのだ。当初の予定通り、彼女は別の誰かに寄り添うことで、その存在意義を達成していく。


 それが彼女の望みであり、英士が勝ち取った未来のかたちであった。


「まあ、二度と会えないわけじゃないものね。英士君、興味があったら私に弟子入りでもしてみない?」


「前向きに、考えておきます」


 ロボットに対する嫌悪が消えた今、英士は蓄えたロボット知識を創造に活用することも考えている。国家研究員まで昇り詰めることができると確約はできないが、定める目標としては悪くない。


「……ヒスイを救ってくれてありがとう、英士君。あなたには、本当に感謝しているわ。そして、あなたの未来に期待している」


 英士は差し出された才花の手を握り、今更ながら彼女の名刺を受け取る。

 少しこそばゆい気もするが、彼女の手に宿る熱は、これから追いかけるべきものだと英士は感じていた。


「エージ」


 そして、英士は彼女と向かい合う。柔らかい、無表情。そう形容したくなる、穏やかな顔つきをしていた。


「実は、エージに一つ報告がある。以前、私が動物の鳴き真似をしたのを覚えているか」


 ああ、と英士は頷く。靖久の手のひらの上でスパイごっこをした時か。しかしそれがどうしたというのだろう。

 首を捻る英士に、ヒスイは得意げに言葉を繋げた。


「私には、チャイルドケア・ヒューマノイドとして、まだまだ隠された機能があるかもしれない。そう考えた私は、この仕組みについて一つの答えに辿りついた」


「どの仕組みだ?」


「ひとまず後ろを向いていて欲しい。私は乙女なのだ」


 何がしたいのかさっぱりわからない英士だったが、大人しく彼女の指示に従う。

 背を向ける直前、おもむろに皿を取り出したように見えたが――


「……おい、まさか」


「もういいぞ、エージ」


 嫌な予感が的中しないことを祈りつつ、英士は振り返る。


 そして彼女の持っている皿が、イイ感じにとろみをもった流動体で満たされていることを確認した英士は、自らの祈りが天に届かなかったことを理解した。


「離乳食だ」


 スパァン!と小気味よい音を響かせ、英士のツッコミがヒスイの後頭部を襲った。


「何が不満なのだ、エージ」


「一切合財何もかもだ! ええい、それはどこから出した!? いや、言わんでいい!」


 横で才花と靖久が爆笑しているが、英士は酷い頭痛に苛まれるばかりである。


「ったく、別れを前に吐瀉物を見せる奴があるか……」


「むぅ……私は食事が楽しめ、同時に幼児向けの食料を生産するという、画期的な案だったのだが……駄目か」


 どうやら真剣な提案だったようなので、余計に性質が悪い。

 まだ、彼女が真の乙女となる日は遠そうである。


「……ありがとう、エージ」


 ふと、ヒスイが小さな声で呟いた。


 唐突な声音の変化に、英士は表情を引き締める。

 彼女の翡翠の瞳は、僅かにさざ波の立った湖を思わせた。


「こうやって、チャイルドケア・ヒューマノイドとしての新たな可能性を模索することができるのは、エージのおかげだ。私はこれからもずっと、人の傍で、人と共にあるだろう。貴方がその道を示してくれた。それを、私は忘れない」


 真摯な言葉に、英士は言葉を詰まらせる。


 ああ、お別れなのだ。それが、強烈な実感として英士を襲う。


 引き止めて、一緒に学校生活を送りたい気持ちもある。言葉に出せば、才花は止めないだろうし、実現は決して難しくない。


 しかし、それはできない。


 ヒスイはロボットだ。

 数多の人を救うために、彼女はそれを選んだ。


 ならば、気持ちよく送り出してやるのが、最初に彼女に救われた殿羽英士のけじめだろう。


「元気でな、ヒスイ。いつかまた会う時には、おまえの武勇伝を聞かせてくれ。何時間だって、何日だって、絶対聞いてやるから。だから……」


「わかっている。エージが目を剥いて驚くような活躍をしてみせる」


 強く頷き、ヒスイが右の拳を突き出す。英士は迷わず、そこに自分の拳をぶつけた。

 幼い頃にも姉と同じことをしていたのを、英士はふと思い出していた。少し使い方は違ったけれど、当然だ。彼女はヒスイであって、碧ではないのだから。


 才花とヒスイの姿が、ヘリの中に消える。

 ローターが回転を始めた。


 轟音の中、窓に張り付いた彼女の姿が、英士には見えていた。


「ヒスイ!」


 最後に呼んだ声が、果たして聞こえたのか。この轟音を割って、彼女に届いたのか。


 それはわからない。


 しかし、英士の目には彼女の表情がしっかりと映っていた。





 ヒスイは、笑っていた。





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ヒスイの三原則 かんごろう @kangoro

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