(2)
研究棟の屋上は、風が強く吹いていた。
雨はまだ止んでいない。打ち付ける雨粒が、英士の視界の邪魔をする。
それでも英士の目は、はっきりと捉えていた。
モスグリーンのヘリと、そこへ向かっていく人影。味気ないビニール傘を差した、銀髪の少女の後ろ姿。
見間違えるはずもない。
英士はその背に向けて走り、力の限り叫んだ。
「ヒスイッ!」
彼女の足が、止まった。
振り返った彼女の顔は、あの無表情だった。彼女が驚いている時の、処理が追い付いていない時のあの顔だ。
「エージ」
雨音にかき消されてしまいそうなか細い声だった。
握りしめた拳から、雨と汗の雫が滴り落ちる。
「英士君、どうしてここに……」
ヒスイの隣につき添う才花の表情は、いくつもの感情が同居していた。困惑しているようであり、歓喜しているようであり、辛そうでもある。英士がここに来たことは嬉しいが、現実は何も変わらない。そんな、一種の諦観のようなものが感じられた。
そしてヒスイを挟む形で立っているのは靖久の父、葉上鋼平である。くたびれた優男の印象を受けるが、細い眼から覗く眼光は鋭い。
誇張なく、事実として、彼は兵器の作り手だ。ただの高校生である英士とは見てきたものも見ているものも違う。英士はそれを、彼の瞳から感じていた。
だが、恐れ入っている暇はない。今から俺は、この人に喧嘩を売るのだ。
英士は凛と前を向き、朗々と名乗りを上げるかのように宣言した。
「ヒスイを戦争に連れてくなんて、看過できない。だから、来た」
才花も鋼平も、「何故それを」などと無粋なことは問わない。遅れて上がって来た靖久を見れば、状況は容易に理解できよう。
英士は彼らを見据えたまま、ゆっくりと歩を進めた。
「それは君の裁量に左右されるところではないよ、英士君」
そんな英士を拒絶するように、鋼平が口を開いた。
諭すようでありながら、同時に突き放すような語調であった。
「このロボットが司令ユニットとして〈WIRE〉に提供されるというのは、製作前から決まっていたことだ。こちらから予算も出したし、製作者の承認もある。君は、何を以ってそれを阻止しようと言うのかな」
「ヒスイはそんなこと望んじゃいない」
「ふむ」
英士の言葉に、鋼平が怪訝そうな顔をする。
「君は、ロボットに意思を認めるのか。これに、我欲があると」
「『これ』なんて言うなよ。ヒスイはロボットだけど、女の子なんだ。意思ぐらいあるに決まってる」
才花の瞳が、眼鏡の向こうで僅かに揺れる。
英士は鋼平に、そして才花に向けて訴え続けた。
「ヒスイは、人に寄り添いたいと言っていた。不完全な人間を、自分の力で助けたいと言ったんだ。それが意思じゃなくて何なんだよ。こいつの願望以外の何だっていうんだ!」
ヒスイは自分の行き着く先が兵器だということを知っていた。
それでも、英士の前で彼女はそう言っていたのだ。
「帰ろう、ヒスイ。おまえは人の営みの中にいるべきだ」
英士はずぶ濡れの手をヒスイに伸ばす。
ヒスイは神妙な顔でその手のひらを見つめ、ゆっくりと目線を上げた。
「それは……できない」
不可能だ、と彼女は告げる。
驚くことはない。人間によって矛盾する二つの命令を出されたら、無論、ロボットは優先すべき人間の命令の方に従う。
子供よりも大人。市民より警察。学生よりも、国家研究員。
当たり前の法則だ。
ただのロボットに、それを覆す術はない。
「意思の力で三原則を破ることはできないよ。これはそういったものではない。そんなことができてしまったら、いけない」
三原則は人間を守るための法則だ。それを超越してしまえば、それはロボットとして破綻している。
そうだ、そんなことは分かっている。
「それに、英士君。これからヒスイに与える仕事もまた、人を守るためのものだ。私たちはこれを……彼女を、捨てようとしているわけではない。活かそうとしているんだ」
宥めるような口調で、鋼平は英士に語りかける。
「人が死ななくなった代わりに、戦争はどこでも簡単に起きるようになった。今の外交は武力無しには立ち行かない。それは知っているだろう」
英士は口を引き結んだまま答えない。そこに否定する材料は無い。
「どこの国も、周りよりも一歩先に出ようと躍起になっている。中でもAI分野は競争が激しい。司令ユニットは、一年も経たずに総取り換えというのがざらにある。馬鹿らしい話だろう。何億という資金を投入して、血の滲む労力を賭けて作り上げたロボットは、ほんのしばらく経てば永遠にその役目を終えてしまうんだ」
だが、ヒスイは違う。
鋼平の細い目がヒスイに向けられた。そこに嫌味や嗜虐の色は無い。
あるのは純粋な、期待だった。
「彼女は成長する。知識を得て、経験を積み、その力をどこまでも伸ばしていく。そしてその能力は別のロボットにもシェアされる。経験の移植も、彼女らのおかげで研究が大きく前進したからね」
殿羽碧の経験が、不完全ながらヒスイに継承されているのは英士も勘付いていた。知識はさっぱりだったが、彼女の挙動には碧を思わせる所作が多々見られる。
成長するAI。そしてそれを継承する技術。
ヒスイを形作る二つの要素は、なるほど、司令ユニットとして理想的な構造をしている。
「彼女は護国の女神となるんだよ、英士君。この国の、全ての人を守る存在に。それは、彼女の理想に反するものだろうか」
鋼平は問いかける。
いや、それは問いのかたちをしているが、事実確認といった方が正しいかもしれない。
正当性があり、論理が通っている。これに反論することは即ち、駄々をこねるような物分かりの悪い行為だ。
それでも英士は、この右手を下げるつもりはなかった。
「そんなの、ヒスイの顔を見りゃ分かるだろ」
英士は一歩も退かずにそう返す。
物分かりの悪い駄々っ子のわがままに、鋼平は顔をしかめた。
しかし、伏し目がちだった才花は顔を上げ、ヒスイを見ていた。
英士をじっと見つめている、ヒスイの姿を。
「確かに、司令ユニットだって人を守る姿の一つだ。立派な仕事なんだろうさ。だけどヒスイは、人に寄り添いたいって言っていたんだ。その手で人と触れることが、一緒に生きることが望みなんだよ。それが、こいつは何より好きなんだよ!」
不完全だからこそ手を取り合う。そんな人と人との関係に、ヒスイはきっと憧れていた。
この日常に溢れている、当たり前の光景を愛していた。
「ロボットに戦争を代行させるってのは、人の日常が脅かされないためにできた方策だ。人が泣かないための決まり事だよ。だけど、鋼平おじさん……ロボットが泣くのだって、気分が悪いって俺は思うんだ」
確かにヒスイは人工物で、人の子宮から生まれた存在ではない。
それでも感情を持って生きている。生きているのだ。
「今日までの記憶や知識は全て吸い出す手筈となっている。戦場で彼女が泣くことはない」
「経験の移植はまだ不完全なんだろ? だったら、綺麗さっぱり吸い出せるかなんて分からない。何も残らないなんて言いきれるもんか」
経験の移植は、人が数値で説明できないものを移す技術だ。故に、人が言う「絶対」など当てにならない。
鯛焼きを食べた手で、コータローを作った手で、英士に触れた手で、彼女は敵を撃つのだ。
ヒスイはその時、本当に何も感じないというのか。
英士には、とてもそうは思えなかった。
「エージ……私は、やはり……」
ヒスイは俯き、唇を噛み、そして顔を上げる。
その縋るような眼差しに、英士はもう一度声を張り上げた。
「帰ろう、ヒスイ!」
ヒスイの足が、ほんの少しだけ英士の方に踏み出していた。
「来なさい、ヒスイ。ここまでだ」
「……了解」
しかし、その数センチは、いとも容易く無かったことにされていた。
「心配しなくても、初期化に関して技術的な問題は無い。そして、既に彼女は我々の所有となっている。君が感情移入しているのはわかったが、そんなことに拘られていては、私たちは前に進めない。……悪く思わないでほしい」
それは口論の強制的な終了を意味していた。
国家研究員の厳命は、ヒスイを容易に支配する。
踵を返した鋼平の背を、ヒスイの足は一切の淀みなく追っていった。
「……」
未練がましく振り返りながらも、ヒスイの足は止まらない。ロボットは優先すべき人間の命令を遵守しなければいけない。
「待て、ヒスイ! 止まってくれ!」
いくら叫ぼうとも、もう英士の声は届かない。
いや、正確には届いているが、強制力が足りない。
国家研究員の厳命を打ち破るだけの効力が、英士の言葉にはない。
ヒスイがロボットである以上、それは逆らうことのできない一線だった。
「ヒスイ……!」
「無駄だよ。もう君に、彼女を連れ戻す手段は無い」
鋼平が歩調を早め、ヒスイの背も遠ざかっていく。
ヒスイはまだ、こっちを見ていた。透明なビニール傘を通して、英士を見つめている。
希望を口に出しても仕方ないという諦観。
これから待ちうける運命に対する不安。
それに抗うことのできない自己嫌悪。
全てをないまぜにして、彼女は英士を見るのだ。
「……認められるか」
その翡翠の瞳を、英士は諦められなかった。
その瞳が輝きを湛えて見つめていた未来を、絶対に途絶えさせてはいけないと思ったのだ。
「そんなの、許せるわけないだろうが!!」
次の瞬間、英士は咆哮と共に駆け出していた。
――ヒスイとは、反対方向に。
「エージ!?」
ヒスイと真逆の方向にあるのは、英士たちが上ってきた非常階段。
そして、腰ほどの手すりの向こうには、虚空が待つだけである。
英士は、何の躊躇もなく、十二階相当の高さを誇る屋上から身を投げていた。
「馬鹿な、何を!」
「英士君!」
不可思議なほど遠くで、鋼平と才花が叫んでいる。
しかし、靖久の野郎はニヤニヤと笑ってやがる。親友の身投げに、こんな表情で立ち会う奴があろうか。
まあ、俺がおまえと同じ立場でも、きっと笑うのだろうけど。
「エージッ!!」
それは英士が初めて聞く、彼女の切羽詰まった声だった。
誰より早く、何より速く、ヒスイは飛び出していた。身体と意志が乖離していた先ほどとは違う、完全な総体としてのヒスイが、全力で英士に手を伸ばしていたのだ。
英士の言葉は届かない。彼の言葉の重さは、国家研究員の強制力に勝てない。
だが、その命の重さならばどうか。
彼女はロボットだ。等しくルールに縛られる存在でしかない。
ゆえに、第一条は絶対の理として、第二条を凌駕する。
「エージ、手を!」
そんな顔をするなって。おまえが間に合わないはずがないだろう。それを信頼していなければ、こんな危険な真似はするもんか。
英士は満足げな笑みを浮かべ、差し伸ばされた白い手をしっかりと握った。
いつの間にか、雲の切れ間から日の光が差していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます