第5章

(1)

 じめついた季節がやって来た。

 天下のロボット都市と言えど、未だ天候の支配には至っていない。夏は暑いし冬は寒い。梅雨にはじとじと雨が降る。


 英士は雨が嫌いではない。自分の部屋からちょうど見えるところに、毎年アジサイが咲いてくれることもあって、梅雨は好きと言ってもいい。遥が口を尖らせながら洗濯物を部屋干ししているのも、風物詩のようなもので微笑ましいと思う。


「良かった」


 消臭剤を持ってうろうろしている遥を居間でのんびりと眺めていた英士は、隣に座るヒスイの言葉に、思わず赤面した。

 こいつは、じっと俺の顔を見ていたのだろうか。今に始まったことではないが、恥ずかしいことに変わりはない。


「何が良かったんだよ」


「この程度のテレパシーで音を上げるとは、エージらしくない」


「……言うようになったな、おまえ」


「学習の成果だ」


 誇らしげな顔をしてみせるヒスイもまた、英士の頬をくすぐったくさせる魔力を持っていた。


「エージがハルカを見て笑えるようになって良かった。家族とはそうあるべきだ」


「ロボットにそれを言われる日がこようとは」


「何せ最新鋭だからな」


 胸を張って見せるヒスイに、「そうだな」と英士は深く頷いた。


「ヒスイ、そろそろ出るわよー」


「了解だ」


 玄関の方から、才花の声が聞こえてきた。


 ヒスイが立ち上がり、ハンドバッグを手に取る。遥が買い与えた、可愛らしいオレンジのバッグだ。

 英士はそれを大事そうに抱える彼女の、揺れる銀髪を追いかけた。



* * *



「ごめんなさいね、最終日までバタバタしちゃって」


「いいのよ、気にしないで。洗濯物、臭うのは嫌だものね」


 玄関先に立つ才花は、脇にキャリーバッグを置いている。この中に入っていない日用雑貨は、既に配送済みだ。


 もうこの家に、才花やヒスイが生活するためのあれこれは残っていない。


「英士君」


 才花に呼ばれ、英士はしゃんと背筋を伸ばす。

 彼女の声音は優しげだったが――いつぞや、鯛焼き屋の前で会ったときのような、鋭さのようなものがあったのだ。


「二ヶ月間、ヒスイといてくれてありがとう。迷惑は随分かけたはずだけど、あなたにとってもプラスになるところが、きっとあったと信じてるわ」


「それは、もう。俺の方こそお礼を言わなきゃ。才花さんにも、ヒスイにも」


 ヒスイを見ると、彼女の碧眼と目が合った。

 相変わらずクスリともしないが、誇らしげな様子は見てとれた。


「あなたのおかげで、ヒスイの情緒は大きく成長した。碧が何年もかけた過程を、ヒスイは二カ月でこなしてしまったわ。立派なことよ」


「それは、そもそも才花さんがステップアップしてたってことじゃないかと思うんだけど」


「もちろん、それもあるわね」


 当然のように言ってのけるのは、彼女の自信の現れである。


 青春を賭けた一番機を失って、才花もまた大きなダメージを受けたに違いない。それは恐らく、英士の傷よりも深かったことだろう。


 しかし、彼女は立ち止まらずに、ヒスイを作り上げた。

 胸を張ってもいいと、英士は思う。


「けれど、今のヒスイを育てたのは間違いなくあなたなのよ、英士君。あなたとの経験は、きっとこの子の根幹の部分に据えられているわ」


「……そっか。それは何よりだ」


 ヒスイの方をもう一度見遣ると、彼女はこくんと小さく頷いた。


 ヒスイの養育、そして英士の心傷のアフターケア。

 その二つにおいて一定の成果が得られた今、才花とヒスイが殿羽家に留まる理由はなくなった。そうなれば、二人がいつまでも足踏みしているはずもない。才花は早々に、光哲市を発つ決心をした。


 ヒスイは最新鋭のロボットであり、いくら製作者と言えど、才花が独り占めにできる財産ではない。そもそも彼女はチャイルドケア・ヒューマノイドとしてデザインされており、活躍する場は英士の傍ではない。


「その様子じゃ、ヒスイを引き止める気はないのかしら」


 そんなことをすれば、ヒスイの望みは果たされない。それは英士の望むところでもない。


「今更、そんな子供っぽいことはしないさ」


「それは残念。お似合いだと思ってたのになー」


「あんたは終始そればっかだったな……」


 うふふと笑う才花の姿も、すっかり見慣れたものとなってしまった。

 ふと横を見ると、遥もくすくすと笑っている。


 思い切り否定するのもヒスイに気の毒であるし、英士は口を尖らせて見せることでしか、抵抗できなかった。


「それじゃ、ヒスイ。行きましょうか」


「了解だ。ハルカ、エージ、世話になった」


 才花に促され、ヒスイが深々とお辞儀をする。


 きっかり三秒間で頭を上げたヒスイは、軽く髪を掻き上げ、英士に背を向けた。

バサ、と味気ないビニール傘が開く。


 もう一カ月でもヒスイが長く滞在していたなら、柄ものの一つでも買ってやれただろう。服だって、制服以外には二着くらいしか持っていなかったっけ。自分の都合には付き合わせっぱなしだったのに。もうちょっと、年頃の女の子らしいことをさせてやれば良かったかもしれない。ロボットだって、お洒落の一つくらいはしたっていい。


 少し、可哀相なことをした気がする。

 英士はそんなことを考えながら、彼女の背中を見送っていた。



* * *



 部屋に戻った英士は、まだ満開には遠いアジサイの様子を窺い、ベッドの隅に腰を下ろした。


 こうして部屋を見回すと、八畳間というのは案外広いものだ。このところずっと誰かさんが居座っていたものだから、久しくそれを忘れていた。


 寂しい、とまでは言わない。ただ、どこか物足りない。

 しかし、直に慣れることだろう。


 英士はしとしと降り続く雨に視線を移し、頬づえをついた。



 ――エージ



 ぼんやりしていると、いつもの声が聞こえてくるようだ。情けないものである。



 ――エージ!



 そこまで依存しているつもりはなかった。ただ、大きな存在になっていたことは認める。彼女は、英士の価値観をすっかり変えてしまったのだから。

 もうしばらくは、彼女の影を視界の端に見てしまう日が続くのかもしれない。

 英士は自嘲気味にため息をついた。


「英士!」


 ハッと目を見開く。

 これは幻聴などではない。れっきとした肉声だ。


 しかも、男の。


「おい、聞いてるのか、英士!」


 窓の、外。

 飾り気のない見慣れた眼鏡が、英士の目に入った。


「……ヒサ?」


 窓の外で英士を睨む靖久は、いつになく厳しい表情をしていた。


「何も言わずに僕についてきたまえよ。ヒスイちゃんのためだ」



* * *



 手近なターミナルに走り、十分に一度の巡回バスに乗り込む。

 そうしてからようやく、靖久は英士に質問を許した。


「一体どういうことだよ。ちゃんと説明してくれ。ヒスイのためってどういう意味だ」


「言葉通りの意味さ。あの玄関先の会話が、最後のチャンスだったんだぜ」


「おまえ、あそこにいたのか? いや、それよりヒスイのことをどこまで……」


 靖久が心底呆れた表情で英士を見る。こちらが申し訳なくなるほどに、冷めた眼差しだ。

 ぐい、と顔を近づける靖久に、英士は同じだけ身体を反らしていた。


「誰がヒスイちゃんと君を逢わせたと思っている。仲を取り持ったのは誰だ。研究所を漁らせてやったのは。誰なんだ?」


 ぐうの音も出ない英士をねっとりと睨め回してから、靖久は身体を引いて背もたれに身を預けた。


「元々僕は、才花さんの協力者だ。ヒスイちゃんのテストに不都合がないか、現場での様子はどうか、具体的な報告をするのが主な仕事だった」


「でも、おまえが関連あるのは軍事の〈WIRE〉だろ? ヒスイも才花さんも、医療の〈MIRE〉に属しているはずじゃ……」


「いいや、共有財産さ。才花さんはヒスイちゃんを組む時に、〈WIRE〉の方にも頭を下げている。アレの一番機のデータが、たんまり残されてしまっていたからね」


 一番機――それは、殿羽碧のことに他ならない。

 人格移植のために、外部に抽出していたデータがあったということか。未遂に終わったとは言え、工程が何一つ進んでいなかったわけではあるまい。


「……ちょっと待てよ。もしかして、ヒスイの次の任務ってのは……」


 出会った直後にはぐらかされて、その後問い質すこともなかった。


「当然、〈WIRE〉側の話さ。兵器開発だよ。前に、仄めかすくらいはしてやったはずだ」


 靖久が見せた、あの妙な記事を思い出す。


 火のないところに煙は立たない。


 そうだ。まったくその通りなのだ。


「戦争に使われるぜ、ヒスイちゃん」


 戦争に人間が参加してはいけない。戦争による人命喪失の追放。それは世界中の人が望んだ、国家間争いの解決方法だ。一定の技術水準を持つ国は、残らずそれを受け入れた。


 そこには見栄もあっただろう。戦争で人が死なないための法を、跳ね除ける方便などあろうものか。


 戦争はあたかもゲームの延長のように、あらゆる人にとって「画面の向こうの出来事」へと変わった。結果、心理的なハードルの下がった「戦争」が頻発するようになり、かつて専守防衛を礎とした日本ですら、積極的な軍拡を推し進めている。


 もっとも、英士にそれを否定しようという気持ちはなかった。

 いくらロボット同士を争わせようが、人が死なないのならばいい。そう思っていた。


 しかし、これは違う。

 決定的に、別問題ではないか。


「もっとも、これまでの成果物は全て吸い出されるだろう。戦場に出るのは、日常を知らないまっさらなヒスイちゃん。恐らく、本人は不幸なんて感じないはずだ」


「それで割り切れるような俺じゃないから、こうやって連れて来たんだろうが」


「まあ、そうなんだがね」


 いくら彼女に日常の記憶がなかろうと、彼女が戦争の知識を詰め込まれて戦う姿を、英士自身が想像したくない。そもそも、記憶を吸い出されるという時点で気に入らない。


 ヒスイは、人を育む存在であろうとしていた。その姿勢に、妥協はなかった。

 しかし、彼女はまだ殿羽英士ただ一人しか、救っていないではないか。

 それを、看過できるはずがなかった。


「〈WIRE〉の新第三、その屋上にヘリポートがある。そこからどこに行くかは、僕も知らない。だから、引き止められるとしたらそれまでだ」


「……悪いな、何から何まで」


 軍事に通ずる〈WIRE〉の情報は、レベルの高い機密である可能性も高い。こうして英士に漏らすこと自体、大きなリスクである。

 しかし、英士の言葉に対して靖久の返答は淡泊だった。


「気にするな。僕に盗み聞きされる才花さんと親父が迂闊なのであって、僕は何も悪くない」


 この軽口が、今は頼もしかった。



* * *



 英士たちは、〈WIRE〉の研究所から三百メートルほど手前の停留所で下車した。


 そこは頼寺通のショッピングモールに程近い街路であり、英士とヒスイが、初めて二人で放課後を過ごした場所である。


 英士は傘を開き、靖久のペースに合わせて走り出した。全力疾走とはいかないのがもどかしいが、靖久の協力なしに〈WIRE〉の研究所に突入することは不可能だ。英士は、彼のペースで走る他なかった。


「……ヒスイ」


 ふと目の端に映ったアルミのベンチに、英士は彼女の横顔を思い出す。

 雨のせいで人通りは少ないものの、英士はあの時の光景をはっきりと思い出すことができた。


 鯛焼きを満足げにかじるヒスイの表情。英士と別れた後の話をするヒスイの、どこか空虚な声。そして、頑なにヒスイを嫌いだと言ってしまっていた自分。


 冗談じゃない。あのヒスイが、戦争の司令ユニットになることなど望むはずがないのだ。


 そして、俺自身も、そんなヒスイを見たくない。

 やっと好きになれた彼女を、そんなかたちで奪われたくはない。


 英士は一度ギュッと目を瞑り、そして開いた。


 視線の先には、もう〈WIRE〉の研究所が見えている。兵器開発を担うとはいえ、光哲市の〈WIRE〉施設内では爆発物などの使用はないため、市街地にほとんど隣接しているのだ。


 今思えば、あの日の才花は〈WIRE〉の施設にいたのだろう。医療の〈MIRE〉――才花本来の所属施設がここから少し離れているという点を、不自然に感じたのを覚えている。〈WIRE〉にいたのなら、休憩がてらこの辺りにやって来るのも頷けた。


「英士、待て、もう少しスピードを……」


「あ、悪い」


 物思いに耽るあまり、速度を抑えるのを忘れていた。

 英士は振り返って、息の荒い靖久にペースを合わせる。


「僕は、君のような体力おばけじゃないんだぞ……」


「わかってるさ。ちゃんと待つよ。でも急げ」


 ひいひい言っている靖久だが、流石に抱えて走るわけにもいかない。ここは靖久自身に頑張ってもらうしかないのだ。

 どうにか叱咤激励しながら、英士は靖久を急がせるのだった。



* * *



 〈WIRE〉研究所に辿りついた英士と靖久は、真っ直ぐに新第三研究棟に向かった。


「ここからなら、上まで関門ゼロだ。思いっきり走れよ。僕は僕のペースで上る」


 以前はいくつかの研究棟を回りながら、連絡通路で到達した場所である。しかし、IDを持っている靖久がいればそんな必要はない。

 非常階段の扉を開放した靖久は、そこで立ち止まって英士の背中を押した。


「ああ。ありがとな、ヒサ」


「お礼は後だ。ヒスイちゃん、しっかり捕まえてこい」


 英士は強く頷くと、邪魔になる傘を放り捨てて、全力で階段を上り始めた。


 幸い、階段の踏み面自体はそう濡れていない。遠慮なく、全力で、この記憶に新しい螺旋にぶつかることができた。


「待ってろよ……!」


 前にここを通ったのは、ヒスイが英士の無茶な要求に応えてくれた時だった。

 彼女は大きなリスクがあるのを承知の上で、英士の力になることに一片の躊躇いも見せなかった。


 そして、英士を十年来の呪縛から救ってみせた。


 ヒスイには大きな借りがある。だからこそ、放っておくわけにはいかないのだ。

彼女がそうしてくれと頼んだわけではない。場合によっては、彼女は望んで戦場へと赴こうとしているのかもしれない。


 それなら、それでいい。その時は、英士が英士自身で、その結末を受け入れるだけだ。


 しかし、ヒスイがそれを望まないのなら。彼女がかつて言ったように、人に寄り添っていくことを願うなら。そして、その想いが叶わないという理不尽が現状なのだとしたら。


 そんなものは認めない。国家機関だろうが関係ない。彼女の手を取って、救い出してやる。


 英士は強い決意と共に、十二階分の階段を上りきった。

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