始まりを告げる

あげは

始まりを告げる


 カーテンから差し込む陽光と、やかましくがなり立てる目覚まし時計が夢からの覚醒を促す。

 時刻は七時。今日が休みであるなら、二度寝と洒落込むところだが、そうはいかない。

 僕は眠気で重い瞼を開き、体を起こして少し伸びをした。

 ようやく体が目を覚まし始めた気がする。

 仕上げとして、僕はカーテンを開け、燦燦と照り付ける太陽の光を一身に浴びる。

 あまりの眩しさに目を細め、額に手を翳す。

 しかし、これで僕の体は完全に目覚めたのだ。

 朝日を浴びるのが目覚めに良いと、どこかで聞いた気がする。

 それ以来こうして毎日朝日に体を晒しているのだが、なかなか悪くない。


 日課を終えた僕は、学校へと向かう準備を始める。

 顔を洗い、歯を磨く。

 高校の制服に着替えリビングへ行く。

 平日の朝はいつも父がニュース番組を見ている。朝食を食べるついでに僕もぼんやりとテレビを眺めるのだ。

 毎日犬の特集に癒され、占いに一喜一憂する。

 ルーティンと言うほどでもないが、僕にとっての朝とはこういうものだ。


 ――しかし、その日は何かが違った。


 リビングの扉を開け、中に入るといつもの光景が目に入る。

 キッチンで朝食の準備をしている母、テーブルで新聞を広げている父。

 変わらない毎日の風景だが、そこには違和感があった。


 テレビがついていないのだ。

 毎朝父はニュース番組を見ながら、取り上げられるニュースについて他愛もないことを話しているのだが、今日はやけに静かだ。

 だが、そこまで気にするほどでもないのかもしれない。

 そう思った僕は、気を取り直していつのもように声をかける。

 誰しもが何気なく使っている言葉。日常的過ぎて意味など考えたこともないが当たり前のように自然と口にする


「……おはよう」


 僕がそう声をかけると、二人の視線がこちらを向いた。

 いつもなら明るく自然と同じ言葉を返してくれるのだが、今日は違った。

 なぜか二人とも首を傾げ胡乱気な視線を送ってくる。

 僕が不思議に思い、立ち尽くしていると、キッチンから母が声をかけてきた。


「? 変な事言ってないで、早く朝ご飯食べちゃいなさい。遅刻するでしょ」


 いつも通り挨拶をしただけなのに、僕は何か変なことを言ったのだろうか。

 そうは思ったが、もしかすると僕が変だったのかもしれない。

 そう考えると、僕は何も言えなくなってしまった。

 とりあえず朝食を食べよう。

 僕の頭に残った疑問は頭の片隅に置き、テーブルに並べられた朝食を食べ、少し足早に家を出た。


 僕の通う学校は家から近く、歩いて通える距離にある。

 そのため、通学路はいつも変わらず同じ景色を同じ時間で歩く。

 僕が殊勝な人間なら、変わらない退屈な日常に飽き飽きし、刺激を求めて何かを為そうとするのだろう。

 しかしながら、僕はそう言った人間ではないのだ。

 いつもと変わらない毎日、退屈な日常だと感じるも、それを変えようとは思わない。

 僕のような平凡な人間は、その退屈な日常を生きることで精一杯なのだから。


 いつもそんなことを考えながら、通学路を歩いている。

 時に野良猫を眺め、時に隣人とのふれあいだけで穏やかな気持ちになれる。

 そんな些細な日常が僕に彩りを与えてくれるのだと、いつも感謝するほどだ。

 だが、今日感じた違和感はいつまで経っても拭えない。

 通学路ですれ違う隣人の肩に挨拶すれば怪訝な顔を向けられ、同じく登校中の小学生にはなぜか笑われる始末。

 一体どういうことなのか。

 ごく当たり前の言葉を口にしているだけだ。

 誰もが一度は必ず口にしているはずだ。知らないはずもない。

 僕は何も間違ったことなど言っていないのに、僕の心の不安は増していくばかり。

 もしかして僕がおかしいのだろうか。みんなで僕をからかっているわけではないはずだ。


 やがて学校に到着し、教室の扉を開け中に入った僕に友人が声をかけてきた。


「おう、どうした? 今日は一段としけた顔しているな」


 今日の様子で行くと、おそらく友人も僕のことを変だと思うだろうか。

 そう思うと少し怖いが、僕は友人にいつものように挨拶をする。


「……おはよう」


「おは……? またおかしなことを言い始めたな。昨日読んだ本はそれほどお気に召したか?」


 やはり……。

 彼もまた、この言葉を知らないみたいだ。

 一瞬目を細めたかと思うと、何か思い至ったかのように笑い、僕をからかう。

 彼は僕が本を好きなことを理解している。

 故に、僕が読んだ本に何らかの影響を受けたのだと感じたのだ。

 僕はカバンを置き、席について神妙な顔を友人に向けた。


「おかしいのは君だ。“おはよう”という言葉を知らないのか? 当たり前のように使う挨拶だろう。君も口にしたことはある筈だ。それとも、僕をからかっているのか?」


「急に何の話かは知らないが、お前の言うその言葉に聞き覚えはないな。使ったこともないさ。本の世界と現実が混合してしまったんじゃないか?」


「確かに本は好きだが、現実に重ね合わせるようなことはしないよ。それにしても、やはりおかしい。どうしてみんな“おはよう”を知らないんだ……?」


 教室内を見渡しても、誰も“おはよう”と口にはしない。

 まるでその言葉だけを忘却してしまったように……。

 目を伏せ考え込んでいる僕の前で、友人が何かを思い出したみたいにハッと声を上げた。

 そして僕の体を揺すり、思考の邪魔をする。

 放置していても仕方ないので、僕は顔を上げて友人の目を見た。


「そう言えば、お前の言っていた言葉……“おはよう”、だっけか? どこかで聞いた気がしたんだよ。確か最近やってきた転校生も同じ言葉をいつも口にしていたはずだぜ」


「転校生……? 転校生なんて居たか?」


「ほんの一週間くらい前だよ。それに同じクラスじゃないか。ほら、来たぜ。彼女だ」


 友人は教室の前の扉を指差した。

 彼の指の先には、少し小柄で活発そうな少女の姿。

 僕らと同じ学校の女子制服を身に纏い、元気に教室内にいるクラスメイト全員に声をかけていた。


「――おはよう!」


 それはまさしく挨拶の言葉だった。

 今日、その言葉を他人の口から耳にするだけで、こんなにも安心できるとは思わなかった。

 しかし、彼女に挨拶を返すものはいなかった。

 クラスメイト達はよくわからない言葉を言われ、困惑しているみたいだ。

 彼女と同じように“おはよう”と返せばいいだけなのに。

 見ている僕がもどかしい気持ちを感じるなんて。


 挨拶を返されない彼女は、しょぼくれた様子で自分の席に着いた。

 窓際の一番後ろの席で、小さくため息を零す姿に、なぜか僕の胸が痛んだ。

 ただ、彼女に挨拶をすればいいだけなのに、その勇気が僕にはなかった。

 見ていることしかできない僕は、所詮その程度の人間だということなのだ。



 ◇◇◇



 その日の授業は恙なく進行し、昼休みとなった。

 昼休みとなると、授業中の静寂とは反対に一気に校内が騒がしくなる。

 今日、友人は部活の集まりがあるそうで、僕はひとり昼食を食べられそうな場所を探していた。

 出来るだけ静かな場所で落ち着いて食事をしたい僕は、天気がいいため中庭を目指した。

 中庭は基本的に、校内のカップルや団体さんが集まっている人気のエリアだ。

 しかし、そんな人気スポットの中にも死角というものは存在する。

 カップルや団体さんたちがいる中庭を横切り、大きな桜の樹の裏、さらに植木の陰に隠れた場所に小さなベンチがポツンと置いてある。

 昼休みをひとりで過ごすにはもってこいだ。


 そんな僕のお気に入りのスポットに、小さな先客の姿があった。

 僕と同じクラスメイトの転校生だ。

 どうしてこの場所に彼女が……? そう思ったが、口にはしなかった。

 彼女は僕を見て、ベンチ一人分スペースを空けた。


「良かったらどうぞ。一緒に食べない?」


「……邪魔じゃないかな?」


「そんなことないよ。話し相手が欲しいと思っていたところなの」


「そうなんだ。では、お言葉に甘えて……」


 僕は彼女の隣に腰を下ろし、母の作ったサンドイッチを手に取った。

 話し相手が欲しいと言った彼女だが、黙々と弁当を食べ進めている。

 静かな時間が流れていく。

 だが、不思議と居心地は悪くない。

 妙に落ち着くのはどうしてだろう。彼女のことを認識すらしていなかった薄情な僕の心は今、どんな穏やかな海よりも凪いでいる。

 僕の落ち着き払った心は、無意識に、口を衝いてあの言葉を出していた。


「……おはよう」


「!!」


 彼女は吃驚して僕の顔を見た。

 そしてどこか安心したような表情を浮かべ、ホッと息を吐いた。


「良かった……知ってる人が居たんだ」


「僕も吃驚したよ。誰にも通じなくなってしまうなんて。僕がおかしくなったのかと」


「何もおかしなことなんてないよ。間違っているのはこの世界なんだから」


 世界……。

 彼女はそう言ったのか。

 突然、世界だなんて話のスケールが大きくなっている。

 だが、彼女の言いたいことも分からないでもない。

 間違っているかどうかは僕には判断できないけれど。


「もしかしたら、間違っているのは僕たちなのかもしれない。そうは考えなかった? 当たり前のように使っている言葉も、いつかは誰にも使われなくなり、忘却の彼方に置き去りにされてしまう。当たり前を享受し過ぎた僕らは、そんな当たり前にありふれているものでさえ忘れ去ってしまうんだ。そう思うと、悲しくなると同時に、仕方ないかなって考えてしまう」


 日常的に誰かが口にする言葉。

 それは時間の経過とともにも移り変り、刷新されていく。

 現代の世の中とは、そうやって変化しているのだ。

 誰かの言葉が流行し、皆がそれを口にする。

 しかし、その流行も、一年も立てば記憶の底へと追い込まれてしまう。

 そして新たな言葉がまた生み出される。

 そうして世界は移ろっているのだ。

 いずれは“おはよう”という言葉も消えてしまうのではないか。

 僕はそう思ってしまう。


「――そんなことないよ」


 彼女はきっぱりと僕の思いを否定した。


「私のおじいちゃんが言っていたんだ。“おはよう”って言葉には魔法が込められているって」


「魔法……?」


「そう。朝起きた時、出社した時、初めて顔を合わせる時だって使うんだよ。どんな場面でも、どんな人でも、その言葉を交わしただけで誰かと繋がった気分になれる。“こんにちは”も“こんばんは”も一緒。使う時間が少し違うだけで、どれも変わらない。ただ一言、そう口にするだけでいいの。それだけで人と心を交わすことができる始まりの言葉。ほら、魔法みたいでしょ?」


 無邪気に笑って、彼女はそう言った。

 魔法だなんて、荒唐無稽な話だ。

 だけど、僕はそれを否定することができない。

 当たり前のように使っている言葉、誰でも関係なく日常的に耳にする言葉。

 考え方ひとつでその形は変化する。

 彼女の言葉が魔法のように、僕の心を晴らす。


「だから、あなたも忘れないで。当たり前も、日常も、ありふれた言葉だって、その人の思い次第で何にだってなれるのだから。私は――」


 彼女の言葉が遠くなっていく。

 彼女だけではない。周りの景色も何もかもが遠く離れていく。

 心安らぐ穏やかな時間が僕の下から離れてしまう。

 全てが僕の中からなくなってしまう前に、僕は必死に手を伸ばした――。



 ◇◇◇



「――いたっ!」


 後頭部を襲う鈍い痛みに、僕は目を覚ました。

 突然の事態に困惑しつつ、僕は辺りを見渡した。

 陽光の差し込むカーテン、ジリリとやかましく鳴り響く目覚まし時計、そして僕が眠っていたはずのベッド。

 ここは僕の部屋だった。

 がなり立てる目覚まし時計を止め時刻を確認すると、時計の針はいつものように七時を指していた。

 そこで僕はようやく気付いた。

 今までの鮮明な光景は、夢だったのだと。

 妙にリアルな夢に、身震いした。


 とにかく、気にしてはいられないため、僕はいつも通りの日常を送ることにした。

 カーテンを開け日の光を浴び、顔を洗い、歯を磨く。

 学校の制服に着替えリビングへ。

 キッチンには朝食の支度をしている母、テーブルに肘をつきテレビのニュースに一喜一憂している父。

 変わらない日常の光景に安心感を覚える。


「おはよう」


 そう声をかけると、二人とも僕の方を見て


「ああ、おはよう」


「おはよう。早く座って、ご飯食べなさい」


 と、挨拶を返してくれる。

 やはりあれは夢だったんだ。

 そう再認識した僕は、朝のニュース番組で犬の特集と占いを見てから、足早に家を出た。


 いつも通りの通学路を歩き、時々すれ違う隣人にも挨拶をする。

 皆不思議に思うことなく、挨拶を返してくれる。

 退屈だと思っていた日常が、こんなにも色付いて見える。

 夢で見た彼女の言葉が、僕の心境に大きな変化をもたらしたようだ。

 まるで違う世界を歩いているようだ。

 学校に到着し、いつものように友人に声をかけた。


「おはよう」


「ああ、おはようさん。今日は随分と機嫌が良いな。良い事でもあったのか?」


「んー、そうだね。そう言っても差し支えないかな?」


「やけに素直だな。まあ、そんな日もあるわな」


 友人の言葉に僕は頷く。

 それから少し友人との会話を楽しんでいると、始業を知らせるチャイムが鳴った。

 そして僕はふと気になったことを友人に訊ねた。


「そう言えば、転校生の姿がないね」


「おいおい、ボケてるのか? 転校生が来るのは今日だろ。それもうちのクラスだってよ。」


「そうだっけ? 勘違いしていたみたいだ」


「本の読みすぎで現実と混合してしまったんじゃないか?」


「はは。そうかもしれないね」


 からかうように笑った友人に、僕も同調する。

 どうやら、夢で見たものが混ざってしまっているみたいだ。

 早いうちに切り替えないと。

 そうこうしているうちに、担任の先生が教室に入ってきた。

 皆が前を向き、そわそわとした様子で先生の言葉に集中した。


「それじゃ、転校生を紹介するぞ。ほら、入って」


 失礼します、と元気よく声を上げて入ってきたのは――。


「あっ――」


 僕は思わず立ち上がってしまった。

 転校生は、小柄で活発な印象を与える表情豊かな少女。

 夢で見た彼女とその姿が重なる。

 一人立ち上がった僕に、クラスメイトの視線が突き刺さるが気にしていられない。

 そして彼女と視線が交錯した。

 彼女は何かに気が付いたようで、少し微笑んだ。

 彼女が次に行うことは想像できた。

 僕もそうしようと思っていたからだ。

 彼女が教えてくれたのだから、当然と言えばそうなのかもしれない。


 これは始まりを告げる言葉。

 変わりゆく日常、新たな出会い、そして……――彼女との日々。


 僕たちは晴れやかな気持ちでその言葉を口にした。


『おはよう!!』







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