午後九時三十分、俺だけの彼女の時間。

神凪

三十分の宝物

 隣の家の、一番近い部屋の電気がついた。気づけば時間は九時半の二分前にまで迫っていた。

 慌ててイヤホンを準備してスマホに接続。バッテリーの確認をしてから、とりあえず椅子に腰かける。

 そのほんの数秒後に、スマホが着信音を鳴らしながら振動した。


『今日も時間通り……ありがとう、水景みかげくん』

「そっちこそ、いつも時間通りじゃないですか、美南みなみ先輩」


 彼女は棗美南なつめみなみ。俺の幼馴染みであり、先輩であり、彼女であり、そして容姿も成績もスタイルも、全てに恵まれたような人だ。

 ああ、知っているとも。そんな人はいない。彼女は決して完璧なんかじゃない。

 だからこそ、この時間は美南先輩にとっても必要な時間だ。三十分だけ、たったそれだけの棗美南の休み時間。彼女が睡眠時間以外に息を抜ける唯一の時間。


『水景くんは今、何をしていたの?』

「イヤホンを繋いでました」

『違うの、そうじゃないの。そこじゃなくて、その前に』

「読書してただけです」

『どんなの?』

「ライトノベル」

『うんうん、好きなことをして時間を潰してたわけか。没頭しすぎちゃうからラノベを読むときは注意しないと……』

「そういう美南先輩は、勉強ですか?」

『いいえ、お風呂に入ってたの。ギリギリになってしまったからどきどきしたわ』

「ああ、そういえばそうか」


 ここから美南先輩の部屋は一番近くの部屋になる。つまり、先程電気がついた部屋は美南先輩の部屋だ。ついさっき明かりがついたのだから、当然そこで勉強していたわけがない。


『さて、今日はなにを話しましょうか』

「なんでもいいですけど」

『一番困る返答ね』

「それは晩御飯とかそういう話のときでは」


 それに、この通話は初めから美南先輩の為の時間だ。俺が好き勝手話すための時間ではないし、なるべく美南先輩の話したいことを話す時間にしたい。

 学校での美南先輩を全て知っているわけではない。だが、以前用事があって美南先輩の教室へと言ったときは、いつも俺と話しているときの様子とは随分と違うように感じた。相手の話を聞いて、適した相槌を打つ。そんな、誰とっても話しやすい人を演じていた。

 だから、今くらいは好きなことを話させてあげたい。少しくらい、話を聞く相手になってやりたい。それが幼馴染みとして、そして恋人として彼女を支えなければいけない俺ができることだ。


『なら、今の話をしましょう』

「今の話?」

『たとえば、私の今の服装は?』

「白のネグリジェ」

『……正解。どうして?』

「いや、なんとなく。小さいときからそういう大人っぽいの好きだった記憶があったんで」

『そう……理解されているのも、なんだか嬉しいものね』


 その気持ちはよくわかる。とはいっても、美南先輩にはなにもかもを見透かされているようであまり気は抜けないのが本音だが。

 告白したときもそうだった。というか、美南先輩に告白させられたような感じだったが。好意はバレていたしそのうえでからかってくるしで、あの頃はいろいろと大変だった。


『やっぱり、私のことを一番よくわかっている』

「そりゃあ幼馴染みだか……」

「そうじゃないでしょ!」


 聞こえた声は、スマホを介したものではなかった。

 窓は閉めていなかった。なるほど、それなら聞こえるはずだ。


「受け止めて」

「えっ……ちょっ!?」


 見れば窓の棧に足をかけていた。えっ、マジで言ってる? この人本気で言ってるの? 落ちたら……死ぬよ?

 そんな心配はつゆ知らず、美南は飛んだ。本当にギリギリでなんとか抱き寄せる。


「ば、馬鹿か!? 怪我したらどうする!」

「……ごめんなさい」

「いいけど……本当にやめてくれ」

「ええ……たまにしかしないわ」

「次したら窓二度と開けないからな」

「……ふふっ」


 何故か笑いだした。こっちは真剣に怒っているのだが、そんなことはこの人はお構い無しだ。そんなところも可愛らしいなんて思ってしまう自分が憎らしい。

 一方の美南はというものの、腕の中で幸せそうに笑い声をあげている。この人は絶対に反省していない。なんなら本当にまたやりそうだ。


「久しぶりね」

「なにが」

「『美南先輩』じゃない私と話してくれるの」

「……すません」

「戻っちゃうのね……」


 しゅんと表情が曇る。

 普段から心がけていないと学校での振る舞いにも影響が出るのだ。ほぼ接点がないとはいえ、たまに話すことがないわけではない。

 でも、それが美南は不満ならしい。

 未だにイヤホンを付けていることを思い出して、外すついでに通話も終了させる。慌てていたから気づかなかったがどこかにぶつけたらしく、画面には思いっきりヒビが入っていた。


「あ……えっと、修理費は出すから」

「いらない。スマホなんかより美南の方がずっと大事だ」

「スマホも大事にしないと駄目」

「そう思うなら玄関から入ることを次からは覚えてくれ」

「でも……三十分で帰れなくなるから」

「……ああ」


 両親か。黙らせておくことにしよう。茶化されるのは俺としても不愉快だ。


「……あのね」

「なに」

「いつも、通話に付き合ってくれて、話を聞いてくれて。相談にも乗ってくれるし、気晴らしのお遊びも一緒にしてくれる。画面越しに声を聞くだけで、とっても楽しいの」

「……そっか」


 そんなことを言われると、嬉しくなってしまう。どうしてこう恥じらいもなくこんなことを言ってしまえるのか。


「でも、やっぱり会えたら楽しいね」


 ぎゅうっ、と。抱きしめる力を強める。なんだこの可愛い生き物。


「高校卒業したら結婚しよう」

「それは考えておくわ」

「えぇ……」

「大学卒業までには結婚しようね」

「……オーケー」


 その日だけは、美南が三十分を過ぎても帰ることはなかった。

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午後九時三十分、俺だけの彼女の時間。 神凪 @Hohoemi

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