電話

飯田太朗

電話。

 引っ越しをすることになった。

 体調を崩した私のために、夫が大学近くに一軒家を買ってくれたのだ。


 まぁ、その家は前々から……今、私の隣で眠っているこの子が生まれる前から……購入済みで、業者さんに頼んで建設に着手した段階でこの子ができただけだから、厳密には「私が体調を崩したから引っ越すことにした」わけではないのだが。


 とはいえ、入院中の私には引っ越しの手伝いなんてとてもじゃないができなくて。

 夫が仕事を休んで引っ越しの作業に取り掛かってくれているようだ。友人知人の手も借りているらしい。ありがたいことだ。いつかちゃんと、お礼をしないと。


「痛……」

 腰痛。骨が軋むようにズキズキ来る。他にも体中、痛いところはあるのだが、今日は腰のようだ。吐き気。ホルモンバランスの崩れで起こるものらしい。近くに用意しておいた袋に顔を突っ込むが、何も口にしていないからだろう。何も出てこない。嗚咽だけ。栄養は、ほとんど点滴で摂っている。


 ぐったりする。隣では、先日生まれたばかりの三人目の娘がすうすうと寝息を立てて眠っている。私の希望で、同じベッドに寝かせてもらったのだ。


 小さい手。小さい足。何もかもが、愛しい。

 この子の顔を見ていると、体調不良もいくらか和らぐ気がする。ほっと息をついて、ベッドサイドテーブルの上に置いてあった文庫本を手に取る。


『スマホの中から始まる恋?』


 娘のさくらの通っている中学校で流行っている、四月一日わたぬき知鶴子という小説家の作品。長女のさくらがお見舞いに来た時「何か本が欲しいでしょう?」と訊いてきたので「あなたの学校で流行っている作家の本を頂戴」と言ったのだ。


 文学者の性だろう。その作家のデビュー作から着手して研究してしまうというのは。


 四月一日さんはWeb小説投稿サイトから拾い上げでデビューした作家さんらしい。この、『スマホの中から始まる恋?』という本は短編のアンソロジーで、Web小説投稿サイトで人気のあった話を集めて出版、という形をとったものだそうだ。


 四月一日さんの作品は、そんな本の最後に掲載されている。この短編が、彼女の……女性かどうかは分からないけど……デビュー作、ということになるらしい。


 全六話を読んだ。私が普段研究しているような国文学の作家さんより、いくらか軽快かつ分かりやすい文体で読みやすかった。Webという媒体の特性だろう。空行を挟むことで沈黙や場面の転換を表現したり、横書きを意識した表現などが散見された。


「顔色は、昨日よりいいな」

 二時間後。

 先生が来てくれた。私の頬に手を当て、顔色を見てくれる。嬉しい。さくらの時も、すみれの時もそうだった。多くの女性が出産後、赤ちゃんに意識がいって夫のことはどうでもよくなる、という話だが、私は違うようだ。赤ちゃんも夫である先生も、どっちも堪らなく大好き。愛している。


「本を読める程度には頭もすっきりしているらしい」

 ベッドサイドテーブルを見た先生がつぶやく。私は笑顔を浮かべる。さくらとすみれは、先生が連れてきたご友人と一緒に購買に買い物に出かけてしまった。


「お引越しは?」

「明後日には終わる見込みだ。さくらもすみれも、新しい自分の部屋に喜んでいた」

「よかった」

「医者と話したんだが……」


 少し、緊張する。

 別に、癌みたいな重病にかかったわけでもないのに。

 死の宣告を受ける前のように、身構えてしまう。

 しかし先生が口にしたのは。


「来月には一応、退院できるんじゃないか、ということだ」

 ほっと息をつく。

「本当ですか」

「ああ。でも、基本的にはベッドから動くな、という指示が出た。大学に戻れるのはもう少し先かもな」

「研究は、ベッドの中でもできますから」

 私の言葉に、先生は安心したような顔になった。

「そうだな」


 先生の目線が、私の隣で眠る赤ちゃんに注がれる。

 愛しそうな目。嬉しそうな目。その目を見ているだけで、私は、この人が夫でよかった、と思う。


「先生」私は、話しかける。「ちょっとした、ミステリーです」

「ミステリー」先生の目が私に注がれる。「どんな?」

「この本を読みました」

 私は『スマホの中から始まる恋?』を示す。

「最後に掲載されている作家さんが、さくらの学校で流行っている作家さんのようです」

「ああ」先生は笑う。「聞いたよ」

「こんな話です」

 私は、かいつまんで最後に掲載されていた短編を話した。



 主人公は「私」。

 私は、ある大学病院に検査技師として勤めていた。


 いつもいつも、気になることがある。

 毎月最終週の金曜日。

 大学病院の前にはぽつんと公衆電話のボックスが置かれているのだが、その電話ボックスに女子高生がやってくるのだ。

 手にはスマホ。それがスマホであることは、画面が光っていることから推測できる。女子高生が持つ光る媒体と言ったらどう考えてもスマホだろう。


 彼女はスマホを手にしたまま電話ボックスに入る。

 それから、時間にして三〇分程度。いや、ほぼ正確に、三〇分。

 女子高生は電話ボックスから出て、どこかへ消える。

 そんなことがこの二年間、ずっと続いているのである。


 その光景が見えるのは、ちょうど私が夜の休憩をとっている二二時半頃。二二時半頃に件の女子高生はやってきて、きっかり三〇分後の二三時、帰っていく。


 仕事と言っても、私が月に一回している当直の仕事は患者の緊急検査に備えて控室で待機するだけのことなので、忙しい時期じゃない限りは時間を持て余す。なので休憩時間が終わっても、問題の女子高生が電話ボックスから出て行くところは観察できる。


 ある日。

 女子高生の謎の行動……スマホを片手に電話ボックスに入ること。手元のスマホでかければ? と私は思ってしまう……の理由が気になった私は、休憩時間中に大学病院から出て……。



「……出て?」

 先生は首を傾げる。私はにっこり笑う。

「落丁です」本を開く。「ページが、ありませんでした」

 先が分からんのか。完全に。先生はぽかんとする。

「気になるな」

「でしょ?」

 私は笑顔を浮かべたまま、先生の目を覗き込む。

「でも先生なら、もしかしたら謎を解けるかなぁ、って」


「また無理難題を」先生が困った顔になる。でも私は、先生のそんな顔も、好き。

「先生でも分かりませんか?」

 ちょっと、悪戯っぽく言ってみる。

 するとその態度が嬉しかったのか……まぁ、体調の関係で、私がこんな茶目っ気を出すのが久しぶりだったから、だろう……先生は優しく微笑んだ。


「考えてみるよ」

 それから先生は思考時間に入った。

 私は隣で眠っている赤ちゃんの顔を見つめる。

 私のかわいい赤ちゃん。私の愛しい赤ちゃん。見ているだけでとろけていきそう。


 私が赤ちゃんを堪能していると。

 先生が不意に、口を開いた。


「その女子高生は……」

「はい」

「夜二二時半に大学病院の近くにやって来る。観測できるのは毎月一回。最終週の金曜日」

「はい」

「きっかり三〇分通話して帰る」

「はい」

「考えられる仮説が、ひとつ」

「何でしょう?」


 先生は口元に拳を当てる。

「仮説の域を出ないぞ」

「いいんです。先生と知的な会話ができるのが楽しいんです」


「まず言えることは、その金曜日に限って言えばその女子高生はバイトをしている可能性が高いということだ。高校生が……一八歳未満が……働けるのは二二時までだ。バイトを終えて、家か職場から真っ直ぐその大学病院に向かったのだとすれば、二二時半頃の観測にも納得がいく」

「なるほど」


「次。決まった日、決まった時間にその公衆電話を訪れるということは彼女にとってそれはルーティンだということだ。逆に言えば、常習化するほど大事なことだ」

「はい」


「……推測にすぎんが、恋人などに連絡をしているわけではなさそうだ。うちの大学で青少年の発達心理学を担当している百瀬という准教授がいるんだが、彼がうちの大学の学生相手にとった『高校生の恋愛』に関するアンケート調査によれば、『高校時代に異性と付き合ったことがある』と答えた学生は全体の三割程度。交際期間のデータを取ると平均して『三カ月程度』しか続かない。問題の女子高生は二年間ずっと観測されているそうだな。彼女が『交際経験のある』三割の人間に該当するか、『三カ月以上関係が長続きする平均値以上の』人間に該当するか、について検討すれば、まぁそこに入る確率は低くなるだろう」

「頷けますね」


 まぁ、この話はフィクションだから、現実のデータを当てることに意味はなさそうだけど。という言葉は、飲み込んだ。


「以上から、推測するに」先生は息を継ぐ。「おそらくだが、その女子高生は『遅くまでバイトをしなければいけないほど』生活に困っている人間、もしかしたら『家庭に何か問題がある』ことが推測される。離婚とかな。で、『二年間毎月電話をする』という関係性から、相手はかなり親しい人間。例えば血の繋がった母親か父親とかな。そういう相手に電話をしていたのだとすれば……」

「スマホを使わなかった理由は?」


 私が突っ込むと、先生は笑った。

「電話料金だよ。スマホは二〇秒で一〇円くらいかかるだろ。ところが公衆電話なら三分で一〇円。三〇分電話しても一〇〇円。格安だ。遅くまでバイトをしなければならない学生なら頼りたくもなる」

 一昔前なら、と先生は前置きする。

「いつも電話をかける番号くらいなら暗記していたんだろうな。ま、そこは今時の子だ。スマホを見れば済むならスマホを見るだろう。彼女が電話ボックスに入る前にスマホを手にしていたのはそういう理由だ」


「すごい」

 私が拍手をすると、部屋のドアを開けてさくらとすみれが入ってきた。先生のご友人……先生の同期らしい……も、頭を下げて入ってくる。

 簡単に、挨拶を済ませる。

 私はさくらに、あの本を示して訊く。

「この本、落丁してて……」

「あら。読めなかった?」

「うん。最後の話が」

「『電話』ね?」

 するとさくらが物語の顛末を語ってくれた。

 私と先生は、顔を見合わせた。


 了

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電話 飯田太朗 @taroIda

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