守り猫

石野二番

第1話

 僕の日課。それは海のそばにあるこの町を散歩することだ。今の家に住むようになってから一日たりとも欠かしたことはない。そしてそれは、今日も変わらない。

 朝、ハナが小学校に行くのと同じタイミングで家を出る。家から西に向かうと商店街が見えてくる。最初の目的地はそこにある花屋だ。

 花屋の店先では、店員の女性が忙しそうに花を出していた。赤白黄色。様々な色の花たちが次々と並べられていく。店員が僕に気付いて目を細めた。

 商店街を抜けて駅のある方へ。今日もたくさんのヒトたちが駅に飲み込まれ、また吐き出されていた。

 その様子を眺めていたら、不意に声をかけられた。知り合いのティダだ。彼も散歩中らしい。

「どうだい、調子は」

「いつも通りだよ。相変わらずみんな忙しそうだ」

「どうしてあんなにセカセカしてるのか、理解に苦しむな」

「まったくだね」

 ティダと別れて海沿いの道を歩く。視界の端に映る砂浜には今日もいろいろなものが転がっていた。流木や貝殻。最近はゴミも増えてきている。本当に嘆かわしい限りだ。

 家に帰ってからは、庭の端っこでうとうとする。これも日課だ。今日は日差しも暖かい。誰に気兼ねするでもなく心地よい時間を過ごすことができた。

 夕方、ハナが小学校から帰ってきた。外にいる時のハナはいつも表情が強張っている。玄関のドアをくぐった彼女は靴を脱ぎながら大きく息を吐いた。

「ただいま、ウィル」

 僕は返事をする代わりに小さく鳴いた。

 *

 僕の話をしようと思う。僕は猫である。名はウィル。ハナの父親であるハルトが名付けてくれた。

 猫の命は九つある、という言伝えを聞いたことはないだろうか。実はこれ、本当の話だったりする。僕の命は五つ目だ。

 僕たちは命を重ねるごとに知恵を付けていく。四つ目ぐらいを過ぎると、自然と若いものから頼り敬われるようになる。その分長く生きたものはその知恵や経験を以て若いものを助ける。僕は例外だけど。

 僕はどちらかと言うとはみ出し者だった。かまってくれるのはティダぐらいで、年配猫には「かわいげがない」と言われ、年若い猫には「頼りにならない」と言われる。そんなないない尽くしの猫が僕だった。

 *

 ハルトとハナは僕の家族だ。ハルトは男手一つでハナを育てている。ハナの母親、ナツコはハナを産んだ時に亡くなった。ハルトはナツコが大好きだったから、あの時の落ち込みようはひどいものだったし、それは僕も同じだった。

 ハナはおとなしい子で、わがままを言ってハルトを困らせることもない。その代わり人付き合いがあまり得意ではないようで、外では同年代の子と一緒にいるのを見たことがないし、いつも緊張している様子だった。きっとあの子にとって安心できるのは家の中だけなのだろう。

 *

 夜、ハルトが仕事から帰宅してから家族そろって夕飯を食べた。

「ハナ、今度会社の花見があるんだけど、一緒に行かないか?家族も呼んでいいそうだから」

「いい。行かない。お父さん一人で行ってきて」

「そうか。じゃあ断ろうかな」

「なんで?お父さん、行けばいいじゃない」

「ハナを置いて一人で行っても楽しくないよ。どうせお酒を飲む人たちの運転手をさせられるだけだしね」

「ふーん」

 ハナはあまり興味がなさそうで、そこで父子の会話は終わった。

 *

「ねぇ、ウィル。ウィルは、私が好き?」

 夕飯の後、ハナは僕を連れて自分の部屋に戻っていた。

 好きだよ。

 そう返事をしてあげたかったけど、残念ながら僕の言葉はハナには届かない。

「私はね、好きじゃないの。私のこと」

 それはもう何度目になるのかも分からなくなるほどに繰り返された、ハナの独白だった。

「どうして私こうなんだろ。無愛想で、いつも自信がなくて。こんな私、誰も好きになってくれないよ」

 ハナの声はどんどん沈んでいく。そして最後に小さく呟いた。

「お母さんが生きてたら、なんて言ったかな」

 *

 翌日、花屋の前を通ると、店員の様子がいつもと違っていた。路地に出てしきりにきょろきょろしている。心配そうな顔をして、誰かを探しているようだった。

 商店街を抜け、駅前を通り過ぎ、海沿いの道から砂浜を見ていると、普段見ないものを見つけた。

 それは若い男のヒトだった。波打ち際にうつぶせに横たわっている。警戒しつつそろりと近付いてみる。まるで海から流れ着いたかのようだ。

 死んではいないようだけど、どうしたものかなと考えていると、不意にその男がしゃべった。

「うぅ、そこの猫くん。申し訳ないが、助けてはくれないかな」

もしかして、僕に言ってる?話しかけてくるヒトはわりと多いけど、助けを求められたのは初めてだ。

「あれ……?君は言葉が分かりそうな気がしたんだけど、違ったかな?じゃあ仕方ない。僕もここまでか……」

 ぶつぶつとそんなことを言うものだから、僕は思わず声をかけていた。

「助けるって、他のヒトを呼んできたらいいの?」

「お、やっぱり通じた。商店街に花屋があるだろ?あそこの女の子を連れてきてほしいんだ」

「分かった。待ってて」

 短く答えて、僕は駆け出した。商店街に花屋は一つしかなく、走っていくとすぐに見えてきた。さっきと同じく、店員が外を見まわしている。

 店員が僕に気付く。急いで来たものの、どうやって連れていこう。

 その時、僕の背中から何かがふわりと浮き上がった。それは蝶のようだった。でも、蝶にしては全体が薄く透けていた。それはひらひらと店員の目の高さまで飛ぶと、霞のようにかき消えた。

「今の、ユウリの……。君、ユウリがどこにいるか知ってるの?」

「砂浜に倒れてるヒトがいて、あなたを呼んできてって」

 彼女も僕の言葉が分かるようで、それだけ聞くと血相を変えて飛び出していった。

 *

「いやぁ、助かったよベニコ。それに、えーと……」

「ウィルだよ。僕の名前」

「そうか、ありがとうウィルくん。君は命の恩人だ」

 そう言いながら、男、ユウリは僕の頭を撫でた。僕たちは花屋の中にいた。あれからしばらくして花屋の店員、ベニコがユウリを背負って戻ってきた。意外にも彼女は力持ちだったらしい。

「助かったよじゃないでしょ、ユウリ。なんであんなところで倒れてたのよ。今朝うちに着くって聞いてたのに全然姿が見えないから心配してたのよ」

 ベニコに怒り半分あきれ半分といった調子で聞かれ、ユウリは気まずそうに頭をかきながら答えた。

「それがその、蜂に追いかけられて、足を踏み外して崖から落ちちゃったんだよね……」

 ベニコが目を丸くして絶句している。僕も信じられないと思った。蜂に追いかけられて海に落ちるなんて、猫の集会でも聞いたことがない。

「ヒトって、高いところから落ちても平気なものなの?」

「普通の人間ならまず助からないだろうけど、僕はちょっと違うからね」

「僕と話ができるのも、『ちょっと違う』から?」

「そうだよ。僕とベニコはいわゆるところの魔法使いなんだ」

「まほうつかい?」

 ユウリの言葉に、ベニコが眉をひそめるのが見えた。

「ちょっと。あんたいつも言ってるじゃない。神秘は秘匿されてこそって。そんなに簡単に明かして平気なの?」

「ウィルくんなら大丈夫だよ。猫だし、口固そうだし」

 へらへらしながらユウリは何の根拠もないことを言った。

 *

 それからユウリは魔法使いについて説明してくれた。どうやら普通のヒトができないことができるけど、それは仲間だけの秘密らしい。他にも歴史とか偉人の名前とかいろいろ言ってたけど、僕に理解できたのはそれぐらいだった。

「それで、ユウリたちはどんなことができるの?」

「僕の専門は記憶だね。嫌な記憶にフタをしたりできるよ」

 ユウリが得意げに言ってからベニコの方を見た。

「え?私も言わないといけない空気?」

 ベニコはちょっと嫌そうだった。

「無理に言わなくてもいいけど……」

「ベニコはね、まだ一人前じゃないんだ。兄弟姉妹の中では一番才能はあるんだけど飲み込みがイマイチでね」

 笑いながら言うユウリの脇腹をベニコが小突いた。知られたくなかったことらしい。

「うるさい!私は大器晩成型なの!ユウリだって先生に認められるまで何十年もかかったって言ってたじゃない!」

「何十年も?ユウリって何歳なの?」

 今度はユウリが気まずい顔をする番だった。

「あー……、ウィルくん。人にとって年齢の話っていうのは非常にデリケートな部分があってだね?」

「ユウリはね、頑張って若く見えるようにしてるけど、私のおじいちゃんなのよ」

 私の三倍は長く生きてるんだから、というベニコの言葉に僕は驚いた。二人の顔を見比べても、同じくらいの年齢に見えるのに。

「ほ、ほら僕ってわりと優秀だったからさ。専門分野以外にも勉強してみたらいろいろできちゃうんだよね」

「もう立派なおじいちゃんなのに、まだこの落ち着きのなさなのよ」

 ベニコがため息交じりに呟いた。

「それよりさ、ウィルくん。僕は君にお礼がしたいんだよね。君のおかげで文字通り命拾いしたわけだし。何かないかい?」

 ユウリが強引に話題を変えた。

「お礼?うーん、何があるかな……」

「なんでもいいよー、僕にできることなら。できないことはちゃんとできないって言うし」

 しばらく考えた後、浮かんだのはハナの顔だった。

「あのね、ユウリ。僕にはヒトの家族がいるんだ。ハナっていうんだけど、あの子を笑顔にしてほしいんだ」

 できる?と首を傾げる僕にユウリは二つ返事で答えた。

「いいよ。できるできる。早速会いに行こう」

「ハナは今学校に行ってるんだ。夕方になったら帰ってくるはず」

「なるほど。じゃあその時間まで、そのハナって子について教えてくれるかい?」

 その辺にあった椅子を持ってきてユウリは座った。ベニコは店番に戻っていった。

 *

「ハナはね、自分のことが好きじゃないみたいなんだ。まだ子どもなのに。だからなのかな、友達と一緒にいるところも見たことがないし、外ではいつも緊張した顔でうつむいてばかりいるんだ」

「ウィルくんはその理由を知ってるのかい?」

「多分、ハナのお母さんのことだと思う。ハナのお母さん、ナツコはハナが生まれた時に死んじゃったんだ。だからハナはナツコが死んだのは自分のせいだと思ってる」

 僕の話を目を閉じて聞きながらユウリは何度かうなずいた。

「なるほど。事は思ったより複雑そうだなぁ」

「難しいの?」

「簡単ではないね。でも請け負った以上はやりきる所存でございます」

 おどけたような返事に、僕は少し不安になる。魔法使いとやらはみんなこうなのだろうか。

「大丈夫だよウィルくん。全くの無策というわけでもないからさ」

顔に出ていたらしい。というか猫である僕の表情を読み取るなんて、やっぱりただ者ではないのかもしれない。そんな風なやり取りをしているうちに、日が傾き始めていた。

 夕方になって、ハナが帰ってくる時間になってもユウリは動こうとしなかった。それからもう少し時間が経ち、ベニコが花屋の店じまいを始めた頃にやっと、

「じゃあ、行こうか」

 と腰を上げた。

「ウィルくん、君たちの家まで案内してくれるかい?」

「いいけど、本当に大丈夫なの?」

「やれやれ、君は疑り深いなぁ。まぁ見てなって」

 そう言うユウリを連れて、僕はしぶしぶうちへ向かった。

 *

 うちの前に着くと、ユウリはためらいなくインターホンを鳴らした。ほどなくして玄関のドアが開かれる。顔を出したのはハルトだった。

「どちら様で……」

 ハルトが言い切る前にユウリがその手のひらを彼の目の前にかざした。一瞬驚いた顔をしたハルトだったけれど、すぐに表情が消え、それから笑顔になった。

「あぁ、ユウリさんですか!こんばんは。っと、もう約束の時間ですか。どうぞ上がってください」

 ハルトはまるで旧知の友人のようにユウリを招き入れた。僕も続いて玄関をくぐる。

「ウィルも、おかえり。帰りが遅いと思っていたけどユウリさんと一緒だったんだね」

「そうなんですよ。たまたまそこで出会って」

 僕の代わりにユウリが返事をした。そもそも僕は返事できないけど。

 通された先のリビングでユウリは腰を下ろした。ハナの姿はない。二階の自室にいるようだ。

「ユウリ、さっきのも魔法?」

 ハルトがキッチンにひっこんだタイミングで尋ねてみた。

「そうだよ。『僕とは昔からの知り合い』っていう記憶を滑り込ませたんだ」

「じゃあハルトが言ってた約束っていうのも……」

「それも偽物の記憶だね。そもそも今初めて顔を見たんだし」

 そこまで聞いたところでハルトがビールとつまみを持ってリビングに入ってきた。ユウリが陽気に声をかける。

「いやぁ、本当に久しぶりですねハルトさん。最後に会ってから三年ぶりぐらいかな?」

「そんなになりますか。月日が経つのはあっという間ですね」

「確か娘さんがいらっしゃいましたよね。あの子も大きくなったんだろうなぁ」

「ハナのことですか。来年中学生になるんですよ。だんだん難しい年頃になってきてます」

 薄く笑いながらハルトが答えていると、階段の方から足音が聞こえてきた。

「お、噂をすれば」

 足音の主、ハナが顔を見せた。

「お父さん、誰か来てるの?」

 ハナの声はやや緊張を帯びていた。

「ハナ、この人はユウリさん。僕の古い知り合いなんだ」

「そう。こんばんは、坂口ハナです」

 ぺこりと頭を下げるハナ。しかし、ユウリは返事をしない。彼はまるで信じられないものを見るような目でハナを見ていた。

「ユウリさん?」

 ハルトも不思議に思ったのだろう。ユウリに声をかけた。

「あ、あぁ。こんばんはハナちゃん。僕は大波ユウリです」

 そう短く答えるのが精いっぱいといった様子だ。そしてユウリは急に変なことを聞いた。

「ハナちゃん、体調は悪くない?」

「え?別に、普通だと思いますけど」

「そうか。ならいいんだ」

 ハナは少し不審そうな顔をした後、自室へ戻っていった。

「あの、ハナが何か?」

 ハルトが尋ねたが、ユウリは、

「いえ、僕の勘違いだったみたいです。それより、乾杯しましょう!僕らの再会を祝して!」

 と強引に話題を切り上げた。

 *

 もともとハルトはあまりお酒に強くない。それなのにユウリが勧めるままに飲んでいった結果、酔いつぶれて寝てしまった。

 机に突っ伏しているハルトが起きないのを確かめてから、ユウリは僕に声をかけた。

「ウィルくん、明日ベニコの花屋に来てくれるかい?時間はいつでもいい。ハナちゃんのことについて話しておいた方がいいことがある」

 その声音は軽薄だった今までとは打って変わって真剣なものだった。僕がうなずくのを確認すると、ユウリはハルトを起こさないように静かにうちを出ていった。

 *

 翌日、日課の散歩の途中に言われた通りに商店街の花屋に立ち寄った。外からお店の中をのぞくと、ベニコと目が合った。彼女は外に出てきて無言で僕を抱き上げるとすぐに店の中に戻った。そのまま奥の階段を下りていく。地下室があるみたいだ。

 花屋の地下にはうちのリビングより少し広い部屋があった。壁際に机や棚が並んでいるけど、部屋の中心には椅子が一つ置かれているだけで、それにユウリが座っていた。

「こんにちは、ウィルくん」

「こんにちは。言われたとおりに来たよ」

 ゆるんだ笑顔のユウリに、僕はベニコの腕から降ろしてもらいながら答える。

「何へらへらしてるのよ、ユウリ。昨日帰ってきてからだいたいの事情は聞いたけど、笑ってられる状況じゃないでしょ。特にウィルくんには」

「それはそうだけどさ。だからって、マジメな顔してても何が変わるわけでもないでしょ」

 自分の言い方をまねするユウリの態度が気に入らなかったようで、ベニコは大きくため息をついて地下室を出ていった。それを見送ってから僕は切り出した。

「それで、ハナの話なんだけど」

「そうだったね。ところでウィルくん、君たち猫って、幽霊とか見えるのかい?」

「幽霊?さぁ、どうだろう。僕は見えないけど、もっと命を重ねた猫ならもしかしたら……」

「やっぱりか。なら気付かないのも仕方ない」

「ねぇ、何の話?それがハナと何の関係があるの?」

「関係大ありなんだよ。ハナちゃんはね、どうやら祟られてるようなんだ」

「祟られてる?ハナが?」

 僕の問いにユウリはうなずいた。冗談ではなさそうだった。

「ハナちゃんが、というよりはハナちゃんの一族がといった方が正しいだろうね。あの怨嗟は個人に向けたものではなさそうだったし」

 理解が追い付かない僕を置いてユウリは続ける。

「僕も昨日見た時はビックリしたよ。あれは普通の恨みつらみじゃない。おそらく何らかの魔法の影響だよ」

「それで、祟られるとどうなるの?ハナは大丈夫なの?」

「端的に言うと、大丈夫じゃない。そう遠くないうちにあの怨嗟はハナちゃんを食い潰すだろう」

 そんな、ハナが……。

「なんとかならないの?ユウリ」

「それは、ハナちゃんを助けてほしいってことでいいんだよね」

 ユウリの問いかけに僕は一も二もなく頷いた。ハナは僕の大事な家族だ。

「ふむ、了解だ。君に助けてもらったこの命、しばしの間君とハナちゃんのために使うとしよう」

 契約成立だね、とユウリは最後まで笑みを崩さずに言った。

 *

 それから僕とユウリはハナを助けるための作戦会議を始めた。

「まずはハナちゃんを祟っているもの、それが何か正確に見極める必要があるね。昨日はちらっと見ただけだったけど、できるだけ時間をかけて検分したいな」

「僕に何かできることはある?」

「残念だけど、今はまだない。でも時が来たら働いてもらうからそのつもりで。僕もとりあえずは、昨日と同じでハルトさんが帰ってくるまで待機かな。その間にちょっと準備をしておこう」

 そう言ってユウリは地下室を出ていき、すぐに両手いっぱいの花を持って戻ってきた。

「それ、どうするの?」

「この花に魔法をかけるんだよ。ハナちゃんに憑いてるものが何なのか調べるためにね」

 ユウリは壁際の机に花を並べていく。全て並べ終えると今度は小さい声で何かを呟きながら一輪ずつ手にとってはまた戻していった。

「ふぅ、これでここにある花は一つずつ異なる種類の思念に反応するようになった。これである程度あの怨嗟について分かるはずだ」

 そうユウリが僕に説明しているところにベニコが下りてきた。そして机の上に並べられた花を見て声を上げた。

「ちょっと!それ私が魔法の練習用に育ててた花じゃない!何やってんのよ!」

 地下室によく反響するベニコの大声に僕は思わず身体をビクリと震わせた。

「あー、ちょっと借りたよ」

 ユウリの返事を待たずにベニコはドタドタと地下室から出ていった。ほどなくして階段の上から彼女の悲鳴が聞こえた。

「勝手に持ってきたの?」

「だから、借りただけだって」

 僕とユウリがそんなやり取りをしているうちにベニコがとぼとぼと階段を下りてきた。

「私の花……、やっと下準備が整ったと思ったのに、全部持っていったのね……」

 ベニコは見たことないほどに落ち込んでいた。

「借りただけだから、そのうち返すよ。下準備ぐらいなら手伝ってあげるし」

 本当?というベニコの小さな声にユウリはヒラヒラと手を振った。

「それよりベニコ、これを花束にまとめてくれないかな。ウィルくんたちの家に持っていくから」

 ベニコはこくりと頷くとユウリが魔法をかけた花を手際よくまとめて地下室を後にした。

 *

 日が暮れてから、僕らはうちに来ていた。昨日の魔法がまだ効いているのかハルトは今日もすんなりユウリを迎え入れた。

「こんばんは、ユウリさん。今日もウィルと一緒なんですね」

「えぇ、なんだか懐かれちゃって」

「ところで、その花束はどうしたんです?」

「これですか。商店街の花屋で見つけたんです。あんまりキレイだったんで買ってきちゃいました。ここで飾ってもらえれば」

 どうぞ、とユウリはハルトにあの魔法のかかった花束をわたした。

「ありがとうございます。花瓶どこにあったかな?」

 ハルトが花束を持って奥にひっこもうとした時、ハナが二階から降りてきた。

「あ、こんばんはユウリさん。今日も来たんですか?」

「こんばんはハナちゃん。今日はその花を持ってきたんだ。ハナちゃんはこういうの好きかい?」

「キレイ、だとは思いますけど、好きかって聞かれるとどうだろう……」

 ユウリに聞かれて考え始めてしまったハナの隣でポトリと音がした。見るとハルトが持っている花束から花が一つ落ちていた。その花びらは真っ黒になっていた。それをユウリがさっと手に取った。

「あれ?どうやらちょっと悪くなってる花があったみたいですね。すいません」

 ユウリは拾った花びらを懐にしまう。ハルトとハナは不思議そうな顔でそれを見ていた。

「あはは。これはこっちで捨てておきます。じゃあ今日はそれをわたすために来ただけだったので、僕はこの辺で」

 そう告げるとユウリは足早に帰っていった。

 僕はいつも夜は外に出ない。だから、本当はユウリを追いかけたかったけどうちで朝を待つしかなかった。

 *

 次の日、日課の散歩もそこそこにベニコの花屋に向かった。今日は花が外に出されていない。どうやらお休みにしているようだ。お店の前で待ってみても誰も出てくる様子がなかったので、裏に回ってみることにした。

 花屋の裏には小さな庭があった。塀をつたって庭に入る。ガラス戸の向こうでベニコが忙しそうに行ったり来たりしているのが見えたけど、僕に気付く様子はない。どうしたものかな。そう思っていると、奥から出てきたユウリと目が合った。ユウリはすぐにガラス戸を開けて僕を中に入れてくれた。

「おはよう、ウィルくん。昨日はよく眠れたかな?」

「おはようユウリ。昨日はあんまりかな。でも僕らは寝たい時に寝るから」

「そりゃあいいや。僕は、というか僕たちは徹夜だったよ。昨日の花びらを解析してたら朝になっちゃってさ」

 もう若くないねー、と笑うユウリからは確かに疲れの色が見て取れた。

「でも、おかげでだいぶ分かってきたんだ。もうすぐでデータが出揃うから、それまで待っててくれるかな」

 言うだけ言うと、ユウリはあくびをしながら地下室に降りていった。それと入れ替わりでベニコが顔を見せる。ベニコは僕に気付くと泣きそうな表情をした。そして、

「ウィルくん。頑張ってハナちゃんを助けようね。私も協力するからね」

 何かをこらえるような声でそれだけ言うと、花屋の奥に消えた。

 *

 日が傾き始めた頃、ベニコが疲れ果てた顔で僕を呼びに来た。

「ユウリが呼んでるから、行こうか」

 そう言って僕を抱き上げる。そのまま地下室の扉を開けた。扉の先に広がっていたのは、昨日まで見ていたあの地下室ではなかった。

 そこは、ずっと広い教室のような空間だった。地下室だったはずなのに正面の壁は一面が窓になっていて空が見える。右側の壁には大きな黒板が設置され、何か見たことのない文字や数字がいっぱいに書き連ねられている。黒板の前には大きな机があり、その上にあるガラスの容器にあの黒くなった花びらが入れられていた。

「え?ここはどこ?」

「ここはね、『学院』の教室の一つよ。うちにある設備だけじゃ十分な解析ができないからユウリが借りたの」

 ベニコの説明を聞いていると、黒板の横にあった扉からユウリが入ってきた。入ってきたのはユウリだけではなく、彼に続いて三人の男女が入ってくる。

「あぁ、ベニコ。ウィルくんを連れてきてくれたんだね。ありがとう」

 ベニコにお礼を言ってその辺りにあった椅子に座るユウリ。他のヒトたちも各々好きな席についた。僕は所在なくて、とりあえずベニコの隣の椅子の上に飛び乗った。

「これは、ちょっとした同窓会みたいだねぇ」

 口を開いたのはユウリとともに部屋に入ってきた三人のうちの一人。口ひげを生やしたきちんとした身なりの男だった。

「確かに。一度『学院』を出るとこうやって学友と集まる機会なんてないものね」

 それに答えたのは、褐色の肌をした少女だった。ハナより少しだけ年上に見える。

「ねぇ、マリー。あなたもそう思わない?」

 褐色の少女に声をかけられたハルトと同年代ぐらいの女はむすっとした表情を崩すことなく、

「私は報酬が支払われればそれでいい」

 と短く答えた。少女がそれを聞いてやれやれと首を振った。

 はいはーい、とユウリが手を叩いた。一同の視線がユウリに集中する。

「積もる話もあると思うけど、それは後にしてくれるかな。今日は学友としてではなく、専門家として君たちを呼んだんだから」

「それはいいけれど、知らない顔がいるのは落ち着かないわ。まずはきちんと紹介してちょうだい」

 褐色の少女の言葉にユウリは頷いた。

「いいだろう。ベニコ、ウィルくん。こっちへ」

 言われるがままにベニコは僕を抱き上げてユウリの隣に立った。その面持ちは緊張しているようだった。

「この子はベニコ。僕の孫でうちの次の跡取りだよ」

「よ、よろしくお願いします……」

 ベニコはぎこちなく頭を下げた。

「で、ベニコが抱いてる猫がウィルくん。僕の命の恩人で、今回の依頼主だよ」

「こんにちは」

「跡取りがいたことも驚きだが、ユウリくん、君猫に助けられたのかい?ずいぶんと焼きが回ったもんだね」

 師が知ったら何て言うか、と口ひげの紳士が口元だけ笑みを作りながら言った。

「それについては弁解のしようもないね。いやぁ、本当にここに先生がいなくて助かった」

「ねぇねぇベニコちゃん、専門は何なの?やっぱりユウリと同じ記憶?」

 褐色の少女はベニコに興味津々のようで、質問攻めにしている。逆に先ほどマリーと呼ばれた女は僕の方を見つめていた。睨んでいるのかもしれない。猫にとってじっと見られるのはあまり居心地のいいものじゃない。僕はつい耐え切れずに目をそらした。

「じゃあ、今度はこっちの紹介だね。ベニコ、そっちの口ひげはガロンド。女の子に見えるのがクレア。で、不機嫌そうなのがマリーだよ」

 ユウリのあまりにも適当な紹介にガロンドとクレアが不満の声を上げるが、ユウリはそれを無視して話を進めた。

「さっきも言ったけど、今回は専門家として君たちに協力してほしくて呼んだんだ。これを見てほしい」

 ユウリは容器に入れられた花びらを見せた。それにいち早く反応したのはガロンドだった。

「なるほど、怨嗟か。この色になるまでにかかった時間は?」

「ほぼ一瞬だった。憑かれているのはウィルくんの家族の坂口ハナちゃん。彼女が顔を見せてすぐにここまでになって花が落ちた」

「ふむ。相当進んでいるな」

「解析結果はどんな感じー?」

 クレアが緊張感のない声で尋ねた。

「ハナちゃんの家系は少なくとも三代前から憑かれているようだ。でも残留の仕方が人間のものとは異なる。憑いているのは動物、それもおそらくは猫だろう」

 ユウリの返答にクレアが渋い顔になった。

「うえー、猫かぁ。猫はしつこいのよねぇ」

「しつこいと言っても普通の猫がここまで何代も続くような恨みを募らせることはなかなかない。だから僕は、ハナちゃんの家系に魔法使いがいたのではと思っている」

「魔法に失敗して、生贄にした猫に祟られてしまった、ということか?」

 マリーが口を開いた。ユウリが頷く。

「多分そうだろう。そこでガロンド、この痕跡からそれがどんな魔法だったか特定してもらいたい。その後にクレアに解呪の魔法式を組み上げてもらう」

「解呪の魔法式ったって、これ払い切れるの?」

「無理だろうね。だから払えなかった部分を別の触媒に移し替えることになるだろう。マリーはその触媒の選定を頼む」

「予算は?」

「僕の今年の研究費用の七割」

 マリーの短い問いにユウリも簡潔に答えた。クレアが驚きの声を上げ、ガロンドがピュウと口笛を吹いた。

「今提示した額で、僕がどれだけ本気なのか分かってもらえたと思う。僕は受けた恩はできる限り全力で返したいからね。どうかよろしくたのむ」

 そう言ってユウリは頭を下げた。

 *

 それからは目まぐるしく日々が過ぎていった。僕も毎日魔法使いたちのところに顔を出し、時に手伝いもした。手伝いといっても、魔法をかけた首輪をつけてうちと花屋を往復するだけだったけど。

 その日、いつものようにベニコに抱き上げられて教室に行くと、クレアとユウリが大声で怒鳴りあっていた。

「だから!この規模の解呪には何代か時間をかけるのがセオリーなの!それを一代でやろうなんて正気の沙汰じゃないわ!」

「そんなことは重々承知だよ!でも、ウィルくんは『ハナちゃんを』助けることを望んでるんだ!君らを呼んだのもそのためじゃないか!」

 ヒートアップしている二人の言い合いを傍から眺めていたガロンドは僕らに気付いて肩をすくめて見せた。ベニコが彼の方に歩いていく。

「ガロンドさん、魔法の特定は終わったんですか?」

「今しがたね。だから次はクレア嬢が方針を立てる番なんだが、ご覧の有り様でね」

「何か問題があるの?」

 僕が尋ねても、ガロンドは答えない。後から知ったのだけど、彼は僕らの言葉が分からないそうだ。魔法使いでも、動物の言葉が分かるヒトの方が少ないらしい。

「ハナ嬢の先祖には確かに魔法使いがいた。しかし一代だけだ。その一代限りの魔法使いが猫を使役して血族の守護にしようと試みたらしい。それが失敗、『護り』という命令が裏返って『祟り』となり、その猫の恨みを増幅してしまったようだね」

 そこまでベニコに説明してからガロンドは机の上にあったティーカップとソーサーを手に取った。次の瞬間、ガラスの試験管が机の上に飛んできて砕け散った。そこはついさっきまでティーカップが置かれていたところだった。ガロンドはカップの中身を一口飲んでから言った。

「クレア嬢、熱くなりすぎだ。物を投げるのは感心しないよ」

「うるさいわね!こんな無理難題押し付けられて、熱くならない方がおかしいわよ!」

 だいたいねぇ、とクレアが続けようとした時、教室の扉が開いてマリーが入ってきた。片手には大きなビニール袋を下げている。

「クレア、触媒のサンプルをいくつか見繕ってきた。使えるものがあるか見てほしい」

「マリー!触媒はもっと大事に扱いなさいよ!そんなビニール袋にぞんざいに入れないの!」

「そんざいには入れていない。ちゃんとひとつひとつ密封してある。この袋も便利なんだ」

「ぐぅ……、あぁ言えばこういうヤツね!」

 頭冷やしてくる!と言い残してクレアは教室を出ていった。

「クレアはどうしたんだ?ずいぶん怒っていたようだが」

「ちょっと僕と意見が対立しちゃってね。マリーは気にしなくていいよ」

 ユウリがいつものへらへら顔で答えた。さっきはあんなに真剣そうだったのに。

「ところで、クレアたちは何の専門家なの?」

 僕はずっと気になっていたことをユウリに尋ねた。

「あぁ、ウィルくんには説明してなかったね。彼らは僕が以前『学院』にいた頃の同級生なんだ。やがてそれぞれ違う道に進んで、今は三人ともその分野の第一人者だよ」

 そう言ってユウリはガロンドの方に視線を向けた。

「ガロンドが得意なのは分析。彼にかかれば一つの手がかりから十でも百でも情報を得る事ができるよ」

 僕がガロンドの方を見ると、彼は僕に手に持っていたティーカップを少し掲げてみせた。

「マリーは転置の達人で、彼女に移し替えられないものはない」

 マリーは自分が話題に上がっていることにも意に介さずガサガサと袋から中身を出している。

「で、さっき出ていっちゃったクレアだけど、彼女は解法、つまり魔法を解くことに特化した魔法使いなんだ」

「改めて聞くと本当にすごい人たちなんだけど、そんな人たちを軽々しく呼びつけちゃうユウリって何者なの……?」

 僕を抱いたままのベニコが呟いた。僕も言葉にしないだけで同じことを思った。ベニコの言葉に答えたのはガロンドだ。

「ユウリくんはね、魔法使いとしては器用貧乏なのだが、あり得ないぐらい顔が広いんだよ。どんな人ともすぐに打ち解けるんだ。まるでそういう魔法を使っているのかと思ってしまうぐらいに」

「確かに僕の得意分野は記憶だけど、さすがに魔法使い相手には通用しないよ」

 ユウリはそう言って笑いながらマリーの方へ近付いていった。

「さてと。マリー、持ってきた触媒をちょっと見せてくれるかい?」

「かまわないが、封は解くなよ。デリケートなものもいくつかあるからな」

 マリーの忠告を聞いているのかいないのか、ユウリは返事をせずにあれこれと手に取っていた。

 *

 それから季節が巡り、冬の終わりに差し掛かった頃。魔法使いたちはハナに憑いているものを払う方法を完成させた。

「結局、一代で完全に払い切る魔法式は組み上げられなかったわ」

 クレアは悔しそうに言った。

「マリーの魔法で移し替えるにしても、怨嗟が濃すぎて時間がかかる。だから、払うのではなく、ほとんど害のないレベルまで薄める方法を取ったわ」

 そう前置きしてから、クレアは説明を始めた。

「ガロンドの分析から、この怨嗟の原因となった魔法式は推測できたわ。ずいぶん粗が目立つというか、拙い式だったけど、一代限りの知識と実力じゃあこの程度が関の山ってとこかしら」

 でも、重要なのはそこじゃない、と彼女は続ける。

「問題は、その生贄に使われた猫の怨嗟が坂口ハナの魂に深く食らいついていることね。だから無理に払ったり移し替えようとすると彼女の魂まで傷付いてしまう。そこで、怨嗟を分割して、それを触媒に移し替えることにしたわ」

「その触媒には何を使う?私の用意したものの中に適合するものはなかったと思うが」

「当初は器になる物に怨嗟を移し替えて封印なり破壊なりするつもりだったけど、今回の魔法式においてその方法は使えない。今回使うのは、彼よ」

 クレアがまっすぐに僕を見た。つられてみんなの視線も僕に集中する。

「ウィルの命を使うわ。分割した怨嗟を残りの命すべてに分配する。命はその場で消費されるだろうけど、それで怨嗟は祟る相手が死んだと勘違いして消えるはずよ」

「僕、死んじゃうんだ……」

 思わず言葉が漏れた。それを聞いてユウリが辛そうに言った。

「本当に申し訳ない、ウィルくん。この魔法式の触媒に必要なのはハナちゃんとの『つながり』なんだ。今から他の触媒とハナちゃんを結んでいる時間はない」

「どうする?魔法式は組み上がってるし、やろうと思えば今日にでも実行できるわよ」

「少し、いいだろうか」

 発言したのはマリーだった。

「ウィルの命が消費される瞬間、魂が散り切る前に回収して別の触媒に入れるのはどうだろうか。魂の全てはサルベージできないだろうし元の肉体には戻れないだろうが、少なくとも死ぬ必要はなくなる」

「その触媒の準備は?」

「できている。こんな時、日本ではこういうんだろう?『こんなこともあろうかと』とな」

 そう言ってマリーは不敵に笑った。

「あとはウィルくん、君次第だ。その姿を失っても、生きていたいかい?」

 ユウリの問いかけに、僕は答えた。

「それでハナのそばにいられるなら」

 *

 次の日の夕方、僕とハナはベニコの花屋にいた。学校から帰ってきたハナにユウリが『夕方に花屋に来る約束をした』記憶を滑り込ませたのだった。

「こんばんはハナちゃん。今日は来てくれてありがとね」

 出迎えたのはベニコだ。

「ユウリさんに言われて来たんですけど……」

「あぁ、ユウリは今忙しいみたいだからちょっと待っててもらってもいい?」

 どうぞ、とベニコはお茶を出した。ハナはいただきます、と言ってそれを一口飲んだ。

「ごめんね」

 ベニコの短い言葉を聞いて首を傾げたと思ったら、ハナはすとんと眠ってしまった。ベニコはハナを抱き上げて地下室への階段を慎重に降りていった。

 地下室の扉を開けた先に広がる教室では、四人の魔法使いが準備を終えて待っていた。ベニコは黒板の前の大きな机の上にハナを横たえた。僕はその隣に立つ。

「じゃあ、始めるわよ。ここからは時間との勝負だから、気を付けて」

 仕切っているのはクレアだ。

「魔法式読込開始。展開」

 クレアのその声が聞こえた次の瞬間、僕の視界は真っ白に染まった。

 *

 薄暗いところに僕はいた。足元だけが淡く光っている。目の前、ずっと向こうにも同じようなたよりない光が見えた。そちらに向かって進む。肉球から伝わる地面の感触はふわふわと不思議な感じがして、一歩進めるごとに何かが僕の中に流れ込んできた。それは自分に対する悲しみや他者への羨望といったハナの感情だった。

 光に近付いていくと人影があった。ハナだ。しゃがみこんで泣いている。僕はそばに行って声をかけた。

「ハナ」

 ハナが顔を上げてきょろきょろと周りを見た。そして僕に気付いた。

「ウィル、どうしてここにいるの?それに今私の名前……」

「ハナ、僕は君を助けに来たんだ」

「私を、助けに?」

その時、大きなうなり声が響いた。それは聞くだけで身がすくむような恐ろしい声だった。ハナがびくりと身体を震わせる。

「来た!もういやだよぅ」

 ハナと僕の目の前の空間に大きな猫の顔がぬぅっと現れた。牙をむきだして、その表情は憎しみに満ちていて、目玉があるはずの場所には底知れない闇の色がのぞいている。まるで化け猫だ。

「憎いィィ……憎いィィィィ……」

 これがハナを祟っているのは明白だった。僕は声を上げる。

「ユウリ!見つけたよ!こいつだ!」

 すると僕らの頭上から光の帯が何本もするすると降りてきた。それらはまるで蛇のように化け猫に絡みついた。

「邪魔をォ、するなァァァ!」

 目の前で大きな猫がじたばたと暴れるが、すぐに光の帯にぐるぐる巻きにされて身動きがとれなくなった。そのまま帯に包まれていく。

 次の瞬間、帯の塊となった化け猫の身体が五つに割かれた。そのうちの一つが僕の中に吸い込まれていく。

「ウィル!」

 ハナが叫ぶのが聞こえた。

 *

 僕は、化け猫の記憶を垣間見た。

 彼はその土地の猫たちのまとめ役だった。穏やかに暮らしていた彼らだったが、ある時を境に状況は一変する。猫たちの数が瞬く間に減っていったのだ。

 それが新たにその土地に住み着いた魔法使いの仕業なのはすぐに分かった。猫たちの懇願を受け、彼はその魔法使いを討つことを決めたが、逆に捕らわれ、魔法の生贄にされてしまった。

 *

 誰かが僕を呼ぶ声がする。目を開くと、僕はまだあの薄暗い場所にいた。僕を呼んでいるのはハナだった。顔が涙でぐしゃぐしゃだ。

「だいじょうぶだよ……」

 ハナに声をかけながら、いつもの何倍も重く感じる身体を起こす。五つあった帯の塊は二つまで減っていた。その片方がまた僕の中に吸い込まれた。僕の頭の中にいろいろなヒトの顔が現れては消えていく。それは化け猫に喰い殺された魂たちだった。その中に一つ、知った顔があった。ハナの母親、ナツコだ。そうか、ナツコが死んだのも、お前のせいだったのか。

 そう悟った瞬間、自分の中で怒りの感情が膨れ上がるのが分かった。こいつのせいで、こいつのせいで、こいつのせいで。怒りは際限なく大きくなっていき、まるで自分の感情ではないかのようだった。

 うなり声が聞こえる。怒気をはらんだそれは、僕の口から漏れ出ていた。それに反応したのか、化け猫のかけらを包んでいる光の帯がほどけてこちらを向いた。ゆるんだ帯の拘束から化け猫の腕が抜け出して、そのまま振り下ろされた。その大きな爪が僕ごとハナをーーー。

 *

 気が付くと、僕はあの教室にいた。視界には魔法使いたちとハナが映っている。

「意識が戻ったみたいよ」

 クレアの声がした。でもその声はなんだかくぐもっていてはっきりと聞こえなかった。

「ウィルくん、落ち着いて。ゆっくりでいいから自分の感覚を意識するんだ」

 ユウリの声が聞こえた。言われたとおりにしてみると、不意に身体が軽くなった。まるで浮いているみたいだ。いや、みたいじゃない。本当に浮いている。足元に小さな陶器の猫があった。僕の魂はそれにつながっているようだ。

「分かる?ウィル。あんたの身体は移し替えられた怨嗟と一緒に消えたわ。予定通りならあんたの魂が散る前にマリーが用意した触媒に移して万事オッケーだったんだけど」

 そこでクレアは言葉を切って背後を振り返った。そこには無数のキズが刻まれた教室の壁と残骸となった机やいすがあった。

「あんた、怨嗟に飲み込まれかけたのよ。それで大暴れ。んで、私たちでなんとか抑え込んで辛うじてその触媒につっこんだの」

「ハナは?ハナは大丈夫?」

 僕の声が聞こえたのだろう、ハナが僕のそばに来た。

「ここにいるよ、ウィル」

「あぁ、ハナ。無事でよかった」

「説明の続きは僕がやろう。今回の計画は結果だけ見れば概ね成功と言えるだろう。アクシデントもあったけど、ハナちゃんに憑いていたものはだいぶ薄くなった。もう悪さもできないだろう」

 しかし、とユウリは続けた。

「全部が全部うまくいったわけでもない。ウィルくんの魂にも怨嗟が染みついてしまった。そのためにハナちゃんとウィルくんの間に通常より強い縁が結ばれてしまったようだ。ハナちゃんがウィルくんの言葉を理解できるのもそのためだよ」

 ハナと僕はお互いの顔を見た。

「僕の言葉、分かるの?ハナ」

「うん、分かる。さっきも聞こえた」

 ハナに僕の声が届いている。きっかけはどうであれ、単純に嬉しかった

「感動してるところ悪いんだけど、これはあんまりいいことじゃないんだ」

 それからユウリがしてくれた解説によると、僕とハナが話せるのはそれぞれの魂に化け猫の欠片が残っているからで、僕の中の欠片の方が少し大きいらしい。それも無視できない程度には。

「だから、本当はウィルくんの方は払っておくべきなんだけど、それやると、ウィルくんも一緒に消えちゃうんだよね」

「そんなのダメ!ウィルを消しちゃうなんて!」

 ハナが声を上げた。

「でもハナちゃん、ウィルくんが消えるのも辛いと思うけど、彼に祟られることになるのも嫌だろう?」

「かまわない!それでもウィルと一緒にいたい!」

 ハナは泣き出した。ユウリは困り果てている。助けを求めてクレアやマリーの方を見るが、二人とも知らんぷりだ。

「あー、ちょっといいかね」

 ガロンドの声がした。みんなの視線が彼に集中する。

「ユウリ君、一つ提案があるんだが。あの怨嗟、元をたどれば『護り』の魔法に失敗したのが原因だった。魔法式が拙すぎて裏返ってしまったが、解析は済んでいるし、それを組み直して本来の形にするのはどうだろうか」

「裏返ったものをさらに裏返すのか」

 マリーの言葉にガロンドが頷いた。

「その代わり、魔法式の組み換えは僕ら三人は専門外だ。サポートはするがメインのかじ取りは君にお願いするよ、ユウリ君」

 それを聞いたハナがユウリに向かって勢いよく頭を下げた。

「お願いします!ユウリさん!」

 ユウリは少しだけ思案顔になってからハナに笑いかけた。

「やってみよう。専門外なのは僕も一緒だけど、ハナちゃんに悲しい顔をさせるのは契約違反だからね」

 *

 それから少し時は流れて。僕はハナの通う学校の教室にいた。教室の後ろ、ロッカーの上に寝そべって授業風景を眺めている。教師も生徒も僕の姿に気付く者はいない。霊感が強い人ならあるいは見えるのかもしれないが、ここにはいないようだ。チャイムが鳴り授業が終わった。ハナの座っている席に一人のクラスメイトが寄ってきた。

「ハナちゃん、さっきの授業分かった?私、イマイチ理解できなくて……」

「あぁ、あれはね……」

 ハナとクラスメイトは楽しそうに話をしている。ハナの表情にも緊張の色は見えない。それが僕には嬉しかった。

 *

 学校が終わると、ハナはベニコの花屋に向かう。それが習慣になっていた。

「こんにちはベニコさん!」

「こんにちは。ユウリたちはいつものところよ」

 ベニコにお礼を言ってからハナは階段を下りて地下室の扉を開けた。中に広がっているのは学院の教室ではなく、僕が初めて訪れた時と同じ部屋だった。

「いらっしゃいハナちゃん」

「ユウリさん、こんにちは」

「ウィルくんの調子はどうかな?」

 ハナが陶器の猫をランドセルから取り出して机の上に置いた。その中から僕は半透明の姿を見せた。

「悪くないよ。この姿にもだいぶ慣れてきたし」

「それはなにより。だけど、本当に肌身離さず持ってるんだね、ハナちゃん」

「だって、この中にウィルの魂が入ってるから。いつも一緒にいたいの」

「気持ちは分かるけど、陶器は割れやすいから落としたりしないように気を付けてね」

 ハナは神妙な面持ちで頷いた。

「それで本題に入るんだけど、魔法式が完成した。というか、魔法式自体は少し前にできてたんだけど、綻びがないかチェックしてたら思ったより時間がかかってしまってね」

「じゃあ、これでウィルは……」

「うん。この魔法式を使えば、ウィルくんの中の『祟り』が『護り』に転換できる。分かりやすく言えば、守護霊になるようなもんだね」

「ハナを護ることができるようになるの?」

 ユウリは僕の言葉に頷きながら続けた。

「ハナちゃんだけじゃない。その陶器の身体が失われない限り、これから生まれてくるだろうハナちゃんの子どもやそのまた子ども。一族を通した守護になるだろう」

「それは大役だね。僕に務まるかな」

「大丈夫。君がハナちゃんを思う気持ちは本物だから。きっとできるよ」

「じゃあ、本当にずっと一緒なんだね、ウィル」

 ハナが嬉しそうに口にするのを見ながらユウリはやはり軽薄そうにへらへら笑っていた。

「そんなわけで、早速始めたいんだけど、大丈夫かな?」

「僕はいつでも大丈夫だよ。しくじったりしないでね」

 僕の言い草にユウリは大笑いした。

「よーし、では始めよう。ハナちゃん、そこに書いてある陣の真ん中にウィルくんを置いてくれるかな?」

 はい、とハナは言われたとおりの場所に僕、陶器の猫を置いた。

「魔力励起。魔法式読込開始」

 陣が光を帯び始め、僕の中から暖かいものが湧き上がってくる。それが僕の魂を作り替えていくのが分かる。ゆっくりと意識が遠のいていく。誰に説明されるでもなく、次に目を覚ました時、僕は自分がハナを守護するもの。守り猫に変わっていることが理解できた。


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守り猫 石野二番 @ishino2nd

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