『ケケレサマ』

龍宝

「ケケレサマ」




 友人の様子がおかしい。


 日焼け跡も著しい少女――浜崎はまさきらんがそう気付いたのは、夏休みも明けて間もない頃だった。


 退屈な午後の授業を聞き流しながら、蘭は首を傾げていた。


 斜め前の席をそれとなく見遣る。


 いつもなら真面目に授業を受けているはずの友人——花房はなぶさ佐枝さえは、どこか上の空といった様子で、時折思い出したように身体を強張らせていた。




「——佐枝。どうしちまったのよ?」


「亜希。別に、ちょっと夏バテ気味なだけよ」




 放課後になるや否や、共通の友人である東條亜希あきが佐枝に声を掛けた。


 蘭も、取り囲むようにその後を追う。


 部活は、サボるのもやむをえまい。


 蘭にとって二人は、転校してきてからできた大事な友達なのである。




「うそだね。そんなへったくそな作り笑いでだまされるほど節穴じゃあないよ、あたしは」




 大げさに手を振った佐枝に、亜希が腕を組んできっぱりと断じた。




「ほ、ほんとに何もないって。ね、蘭?」


「わたしも、亜希と同感。佐枝、絶対おかしいし」


「うむ、ずばりおかしい」




 ごまかされている、というのはすぐに分かった。


 水泳部の合宿や練習で中々顔を合わす時間がなかったとはいえ、それなりに暇を見ては話していたのだ。


 夏休み終了の前日までは、いつもの様子と変わらなかった。


 この数日の内に、何かがあったのは明白だろう。




「佐枝、言いな。何を隠してる? 困りごとなんだろ? ――それとも、あたしらはそんなに頼りないか?」




 伸びすぎて眼を隠した前髪の隙間から、亜希の鋭い眼光が垣間見える。


 やがて、観念したように佐枝がぽつりと呟いた。








「——ケケレサマが、来る」








 何のことだ、といぶかった蘭の前を、亜希の腕が通り過ぎていった。




「こんの……! あほたれが! あれほど外れの林には入るなって、言われたじゃんかよ!」




 反応する間もない。


 突然激昂した亜希が、佐枝のえり首を掴んで押し倒したのだ。




「ちょっ、亜希……⁉」


「入りたくて入ったんじゃない! 暗くて、道に迷ったらいつの間にかまぎれ込んでたのよ!」


「そんな理屈が、通じる相手か……! 何ですぐに言わなかった⁉ ⁉」


「落ち着いて、亜希!」




 教室の床でやり取りしている二人を制止して、蘭は亜希を後ろから羽交い絞めになだめた。


 らしくなく荒い息を吐いている亜希が、身を震わせている。


 それは、怒りを抑えられない、というにしては大げさ過ぎた。




「なんなの? その――ケケレサマって?」


「……あんたは、越してきたから知らないんだったね」




 多少落ち着いた風の亜希が、やんわりと蘭の腕から離れた。


 近くの椅子を引っ張ってきて、崩れるように腰を下ろす。




「ここいらに伝わる、昔話だよ。ケケレサマっていって、悪霊みたいなもん」


「悪霊……?」


「町外れの、雑木林あるじゃん? あそこの奥に、朽ちた石のほこらみたいなもんがあって、不用意に近付くと――ケケレサマにたたられるって。信じらんないでしょ? でも、大マジなんだよね、これ」


「……祟りって、具体的には?」


「一度祟られたら、三日以内に、ケケレサマが家まで探しに来る。町から逃げても関係なしに。それで――見つかったら、斬り殺される。それだけ」




 冗談だろう、と言いたくなった。


 だが、いつになく真剣な亜希と、へたり込んだままうつむいて黙っている佐枝を見るに、嫌というほど思い知らされる。


 斜陽の差し込む教室で、蘭は思わず息を呑んだ。




「とにかく、こうしちゃいられない。準備をしないと」




 手早く佐枝を引き起こした亜希と並んで廊下へ出る。




「で、でも、まだ本当に祟られたかどうかは――」


「あたしらの取り越し苦労なら、それでいい。大の女子高生が三人、馬鹿みたいにビビってたって笑い話にもなる。でも、




 戸惑った声を上げる佐枝に、振り返った亜希の一言が、決め手だった。


 聞けば、佐枝が禁忌のもりに迷い込んだのは、夏休み最終日の夜だったという。


 両親と進路について揉め事になり、勢いのまま飛び出したら、いつの間にか辺りが見慣れない風景に代わっていたらしい。




「その時から、ケケレサマに呼ばれてたんかもね。あれは、負の感情に敏感だって聞く」




 前を向いたまま、亜希が言った。


 蘭にとってはまだ数年しか過ごしていない町だが、二人はもう十七年も住み慣れた土地なのだ。


 迷い込む、という表現は、怪異的な介入がない限り不自然に思える。




「あの、亜希。準備って、なにするの?」


「こうなった時の対処法は、昔から決まってる。御札と塩、荒縄なんかで囲った部屋に閉じこもって、ケケレサマが諦めるのを待つんだ。大体は、三日の期限を逃げ切れば、二度と現れなくなる」


「やけにポピュラーだけど……そんなんで、入って来れないもんなの?」


「確実じゃあない。けど、これ以上に手がないんだ。それで助かったって人も、居るんだから」




 早足に進む亜希の声には、やはりいつものような余裕はなかった。


 それだけ、切迫した事態ということなのだろう。


 鞄を握る手に力が入る。


 ふと交差点を横切った時に、何かが視界の隅をかすめた気がした。




「——あ、れ?」




 立ち止まって、そちらを見遣る。


 住宅路の真ん中、一区画ほど離れたところに、誰か立っている。


 人影。


 ちがう。


 人じゃない。


 背が、高すぎる。


 影が、振り返った。




「……あ、き。佐枝」




 眼が合った。


 白面を被った、黒い影。


 手足が、不釣り合いに細い。


 ふらつきながら、こちらに走ってくる。



 タッタッタッタ。



 足音に交じって、何かを引きずるような音が聞こえてくる。



 タッタッタッタ。



 カラカラカラカラ。



 タッタッタッタ。



 カラカラカラカラ。





 なただ。






 蘭の背丈ほどもある、大きな鉈を引きずっている。




「亜希、佐枝! 逃げ――」




「ケケレサマだッ――‼」






 いきなり、手を引かれた。


 亜希が、立ちすくんでいた蘭の腕を痛いほどに掴んで、前を走っている。


 後ろからは、足音と鉈の音が聞こえてくる。


 ぞわり、と胃の底が騒ぎ出す感覚に、蘭は叫び出しそうになった。


 全力で走っていると、次第に音が遠くなっていった。


 それが完全に消え失せた頃、亜希がようやく手を離した。




「……もう来てた。また、すぐに見つかる」


「亜希、蘭……」


「あたしは、大人たちを全員呼んでくる。蘭は、佐枝の部屋で準備を頼む。あ、鏡は駄目だ。一枚残らず、割って」


「わ、分かった」




 分かれ道で、亜希はそう言って駆け出して行った。


 地元の名士である佐枝の実家は、かなり大きな邸宅だ。


 両親が出張か何かで留守ということもあって、広い割に静かで暗い。


 震える佐枝を支えつつ、部屋の準備を済ませていく。


 亜希が言っていた物は、すべて家に備えられていた。


 この町の者なら、どの家にもあるという。


 その周到さが、一層気味の悪いものを感じさせた。


 結界の完成した部屋の中、ベッドの上で蘭たちは互いに手をつなぎ合っていた。




「蘭。私、死んじゃうのかしら」


「何言ってんの、佐枝。大丈夫だって、わたしも一緒に居るし、亜希も」


「ごめんなさい……あなたまで巻き込んで……こうなるから、言わないって決めてたのに」




 涙声に、蘭はとっさに佐枝の方へ向き直った。




「私、怖くて――結局はあなたにまで背負わせてしまった」


「佐枝。そんな言い方しないで。友達なんだから、当たり前だよ」


「あなたと、亜希だけが、本当の私を見てくれてたのに。私の、一番大事な親友なのに……!」




 顔を覆って泣き出した佐枝を、蘭は抱きしめた。




「私が悪いんだわ。ずっと、両親のことを恨んできた。あの日だって、けんかして――飛び出した時も、あの二人を憎んでた。それを、ケケレサマに見抜かれたんだわ」


「佐枝は悪くない。環境のせいだよ。余所者のわたしにも、佐枝は優しくしてくれた。佐枝は、わたしの恩人なんだよ」




 寝室に、すすり泣きが響いている。


 佐枝は、元々限界だったのだろう。


 今回のことで、それが決壊したのだ。


 こうして手をこまねいていることしかできない自分の無力さが、蘭はただ恨めしかった。








「——あけて」








 いきなり、扉の外から声が聞こえた。




「あ、亜希……?」




「うん。あけて。ここ、あけて。ねェ」




 抑揚のない声が、返ってくる。ずっと、繰り返しだ。


 震える自分を叱咤して、蘭は立ち上がって扉に近寄った。




「亜希なら、わたしの名前を言ってみて」




 ふり絞った問い掛けに、壊れた録音機のようだった声が止む。


 沈黙に、殺されそうだ。


 そう思った時だった。






「あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけて。あけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろ」





 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ——‼






「……違う、亜希じゃないッ」




 引きったのどで、それだけ言うのがやっとだった。




「もう止めて! 私を殺すなら殺せばいい! だけど、蘭には手を出さないで……‼」


「佐枝!」



「ケケレサマ! 私の罪なら、私だけが背負う! 親友を巻き込むつもりはない!」



「佐枝、駄目だ! わたしも一緒だよ! 一人にしないから!」




「あなたも神格のある身のはず! ——もし、蘭に手を出してみなさい! 私は、あなたを絶対に許さない……!」




 ひと際大きな物音が立ったと思ったら、部屋の扉が勢いよく弾け飛んだ。


 風。


 ――その時、意味の分からない叫びが聞こえた気がした。








 しばらくして、蘭たちは助けに来た亜希と町の大人たちに起こされた。


 気を失った後どうなったのか、なぜケケレサマは何もせず立ち去ったのか。


 それは、あれから時を経た今でも、よくわかっていない。




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『ケケレサマ』 龍宝 @longbao

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