生き残り

凪野海里

生き残り

 刑事ドラマなんかで見るような取調室に自分が入ることになるなんて思わなかった。


 私は1人取り残された部屋で、パイプ椅子に腰かけながら刑事さんが入ってくるのを今か今かと待っていた。

 どうして、刑事さんは早く来てくれないのだろう。この部屋に入るように言われてから、もうすでに30分は経過していた。時間の経過がより不安を煽る。この部屋は寒いし、暗い。まるで独房みたいな場所だ。四方はコンクリートで作られた壁に囲われているし、唯一抜け出せるのは、私の目の前にあるドアからだけ。背面の壁にも窓があったけれど、格子状になっていて部屋に光を差し込めるくらいにしか役に立たないから、ますます不安を煽った。

 早くこの場所から出たい――。そう思っていたとき、ようやくドアが開いてそこから黒いスーツを着た女性が入ってきた。


「け、刑事さん!」


 私は思わず椅子から立ち上がった。

 女性は少し驚いたような顔をしてから、にこりとほほ笑みかけてきた。それだけで救われたような気持ちになる。「おかけください」と言われたので、私はもう一度椅子に座りなおした。

 部屋に入ってきた女性は、年齢が40代くらいだろうか。長い黒髪を1つにまとめて結んでいて、眼鏡をかけていた。化粧も薄く、着ているスーツも相まって知的で真面目そうな雰囲気があった。


「橋本、杏里さんね。はじめまして。私はあなたの担当をします、水野というわ」


 手にしていた書類に目を通しながら、水野さんは私に手を差し出してくる。私は慌ててその手を両手で握った。

 水野さんは私の向かいにあるパイプ椅子に腰かけると、抱えていた書類とペンケースを目の前の折り畳み式テーブルの上に置いた。


「初めてのことで緊張しているかもしれないけど、大丈夫よ。私はあなたの味方だから」


 その言葉に私は涙ぐみそうになった。「はい」とうなずいて、顔をうつむかせる。すると、水野さんは私の心境を察してくれたのか、優しく肩を2、3回ポンポンと叩いてくれた。


「さて、じゃあ本人という確認のために、あなたのお名前と生年月日を教えてくれるかしら」


 私は自分が橋本杏里という名前であること。それから今年で18になることを水野さんに告げた。

 水野さんは手元にある書類に、ペンを走らせながら「うんうん」とうなずく。


「では次に、どうして自分がここに来ることになったのか。理由はちゃんと覚えているかしら」

「……はい」


 私はまたもうつむいた。

 のことを思い出すと、私はいつも胸のあたりがムカムカして、吐きたくなってしまう。頭もずきずきと痛くなる。何の前触れもなしに冷や汗もぶわっと体じゅうからあふれるようにでてきて、わけがわからなくなるのだ。

 一種のパニック障害だと、前に教えてもらった。


「私がここに来た理由は、たぶん。殺されそうになったから、です……」

「誰に、殺されそうになったのかな」

「色々な人です。両親もそうですけど。上に兄と姉がいるんですが、その人たちからも。刃物を向けられたんです、突然。もうわけがわからなくって。外に助けを求めようとしたら、今度は友だちや近所の人たちまで!」


 思わず私は口を押さえた。喉元までせり上がってくる酸っぱい味を、なんとか押し込めようとする。けれど、体のなかを流れていく血はめぐりが速くなっていって、息切れが激しくなる。止めなきゃと思うのに、体が思うように働いてくれなくなり、頭のなかは一気に真っ白になっていく――。


「大丈夫?」と慌てたように水野さんが席から立ち上がって、私の隣に腰かけると、優しく背中を何度も擦ってくれた。背中を撫でてくれる手の動きを意識する。その手の動きに呼吸を合わせていくと、だんだんと落ち着いてきた。私は深く息をついて、「すみません」と謝った。


「外の世界が、もう怖いんです……。知っている人がなんであんなに、人が変わったみたいになったのかわからなくって、怖くって、助けを求めたいのに、誰に助けを求めたら良いのかわからなくって」

「大変だったのね」

「大変なんてもんじゃありませんよ」


 思わず私は水野さんの言葉を笑った。


「ここにいれば、安心なんでしょうか?」

「そうね。ここにいれば、ちょっとずつでもあなたは苦しみから解放されると思うわ。だから平気。大丈夫よ」

「でも、どうしよう。もしここから出られても、親のもとには帰れないし。高校生で1人暮らしなんて無理ですよね。外聞も悪いだろうし、警察のお世話になったなんて知られたら、高校にも、きっとまともに通えなくなります」

「大丈夫。橋本さんなら大丈夫よ」


 水野さんは私の背中をまたゆっくりと擦って、それからもとの席に戻って腰かけた。私は水野さんの顔色をうかがった。

 彼女は折り畳み式テーブルの上に置いたペンケースを漁っていた。何を探しているのだろうか。でてくるのは、ボールペンと消しゴム、それから蛍光ペンもでてきた。私はその様子を見つめていた。


「そういえば、私が担当する前も何人かあなたの担当についていたと思うのだけど、どうだったかしら」


 何の前触れもなく、水野さんは聞いてきた。


「え?」

「前の担当者は梅田、その前は川北、さらにその前は森。彼らもあなたのことを心配していたわ」

「ご、ごめんなさい。何の話をしてるんですか?」


 話の筋が見えなくて、頭の中が混乱する。イッタイメノマエノコノヒトハナニヲイッテイルンダロウ。


 水野さんが初めてペンケースを漁っていた手を止めて、私のことを下からにらむように見てきた。その眼光の鋭さに私は思わず声にならない悲鳴をあげてしまう。


「私もあなたが心配だわ。ご両親も、あなたのことを心配している」

「なんで親の話が。今言ったじゃないですか、お父さんもお母さんも、兄も姉も、みんなおかしくなって、私に刃物を向けるようになったって! 家族だけじゃありません! 近所も友人もです!」


 私の声は後半からだんだん金切り声になっていた。

 水野さんはようやく、ペンケースから手をだした。その手に握られているのは、注射器。その先端には長くて太い針がある。


「ひっ」


 私は思わず席から立ちあがって、この部屋の唯一の出口であるドアに飛びついた。ノブをまわすけど、ガチャガチャと耳障りな音をたてるだけでびくともしない。


「誰か、誰か開けて! 開けてください!」


 何度も何度も拳でドアをたたく。けれどドアはびくともしないし、ドアの向こうには何の反応もなかった。

 そのうち、背後で気配がした。ゾッとして振り返るとさっきまで水野さんだと思っていた人は、よく見知った顔――お母さんの顔に変わっていた。お母さんの手にはさっきの注射器が握られている。


「いやああああああああっ!」


***


 デスクでパソコン作業をしていると、耳障りな音が部屋じゅうにこだました。鬱陶しく思いながらも、顔をあげて壁にかけられている非常呼び出しの表示を見る。

「506 橋本」――。梅田はため息をついて席から立った。


 506号室へ向かうと、すでに部屋には何人かの看護師が向かっていた。梅田が病室を訪れると、そこには仰向けの姿勢で床に倒れている橋本杏里と、彼女の前で深刻そうな顔をしているスーツ姿の水野がいた。彼女は梅田の同僚だ。

 水野は手首をおさえていて、その手からは血がわずかに滴っていた。


「あ、梅田」

「大丈夫?」


 担架を持ってきた看護師数人に橋本杏里を任せて、梅田はすぐさま水野の止血にとりかかった。幸い、手をひっかかれただけのようで大したことはなさそうだった。


「水野、何でスーツ着てんの?」

「あなたが前に書いたカルテに、『看護師を刑事と勘違いしてる』って書いてあったから、実行してみたの。でももう私も駄目ね。彼女に不信感を抱かれてしまった」

「あの患者は難しいから、無理もないよ。でも、気持ちはわからなくもない」

「A村で起きた事件の、唯一の生き残りって話よね。夜中に近所の人も友だちも、家族まで殺されて。犯人は挙句の果て自殺。橋本さんはそのときから時間が止まっているみたいね」

「本当はもうすぐ30になるのに、いまだに自分が高校生だと思ってるんだからね。もしかしたら、一生あのままなのかもしれないよ」

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