白仮面

棚霧書生

白仮面

白仮面

 そんなところにまだ手が残っていたとは、クソッ、こっちの持ち時間も少ないっていうのに。イライラしながら、スマホの画面に表示された将棋盤を睨みつける。こっちに打ったほうがいいか……、と次の手を考えているとガタンと床が揺れた。

 画面に指がチョンっと触れる。動かすはずではなかった駒が思ってもいないところに指された。この駅間は橋の上を通るから揺れることをすっかり忘れていた。舌打ちをしつつ、即座に投了の文字をタップして将棋アプリを閉じる。

 まだ降りる駅までは少し時間があるし気分転換にユーチューブでも見ようかと迷っていたら、車内の雰囲気がどうにもおかしいことに気づいた。皆、ある一箇所を見ている。いや、見ているというより気にしている。

 俺が乗っている車両の真ん中辺りに位置する座席。そこに白い仮面をした男が座っていた。

 男は普通のサラリーマンのようにスーツを着てネクタイを締め、鞄も持っている。ただ顔全体を覆う白い仮面だけが貼り付けただけの下手な合成写真のようで異様だった。

 ウィルス対策の新しい商品だろうか。顔面全体を保護するタイプかもしれない。しかしまあ、不気味も不気味だ。そう思っているのは俺だけではないようで、車内はそこそこ混んでいるにもかかわらず仮面の男の座っている左右の席は空いているし、通路も汚物を避けるように近くには誰も寄りつかない。

 しかし皆、仮面の男を警戒しながらもなにかするわけではない。遠巻きに少し様子をうかがうだけだ。俺もそれに倣うことにした。もうすぐ降車駅に着くし、人混みをかき分けて隣の車両に移るまでもないことだと思った。が、これが失敗だった。仮面の男は辺りを見渡すと俺の方で視線を止めた。こっち見てるよ、怖ァ。と思いつつも俺はまだ余裕だった。しかし、仮面の男が立ち上がりこちらに向かってきたことで焦燥が一気に体中を駆け巡る。

 まだ次の停車駅まで時間あるでしょ、なんでこっち来んの。公共機関使うときは仮面つけんなよ。皆、怖がってんのわからんのか、おっさん。

 心の中で何事も起こらないように念じまくる。窓の外を見て、仮面の男が通り過ぎるのを待った。だが、男は俺の隣にぴったりと貼りつくように立つと、無遠慮に顔を近づけてくる。

 恐ろしくて声が出ない。なんなん、こいつ。きもい。パニックになりかけている俺をよそに、男は無言のまま俺の顔をじろじろ覗き込んでくる。

「なんですか、あっち行ってください」

 勇気を振り絞って俺は言った。だが、男はまったく反応を見せない。ガタンゴトンという電車の走行音と周囲の他人からの視線が体に刺さるようだった。ポーンと間の抜けた音に続き、車内アナウンスがまもなく次の駅に停車することを告げる。そのときの俺にはそのなんでもないアナウンスがまるで一筋の光ように感じられた。

 駅に着いて電車の自動ドアが開く寸前、俺の隣の不気味な奴が口を利いた。

「あなた、私と同じですね」

 さっきまで貝のように口を閉じてたくせに、最後になんだそのセリフは。気持ち悪い奴。

 俺は無事に電車を降りることができた。仮面の男がついてきたらどうしようかと不安になっていたが、それは杞憂に終わった。

 ホッとしたからか急に尿意がやってきた。駅のトイレを借りて用を済ませた後、手を洗うついでに顔も洗う。これで少しは気分がスッキリした。鏡を見ながらハンカチで顔を拭いていると肌に奇妙な白いシミのようなものができていることに気がついた。ちょうど左の頬骨の辺り、小指の爪の先ほどの白くて細い線。これはなんだろう。最近、肌になにか塗ったか。あ、そういえば姉に余った日焼け止めを消費したいからと言われて、少しだけ使ったんだった。あれが肌に合わなかったんだろうか。使ってから時間が経っているのだが今頃、症状が出るのか。今度からあの日焼け止めは使わないようにしよう。

 翌日になって電車に乗るまで俺は昨日仮面の男に遭遇したことを忘れていた。いや、忘れるというよりも記憶の隅っこに追いやっていた感じなのだが、電車に乗った途端、思い出さざるを得なかった。それは俺がビビりだからではない。電車に今日も仮面の男が乗っていたからだ。しかも、一車両に三人。

 増えてる。あの仮面は俺が知らないだけで、もしかして流行っているのか。しかし、周囲の反応を見る限り俺と同じで困惑しているように見受けられる。昨日と同じように仮面の男を中心に円を描くようにぽっかりと空間ができている。朝の通勤通学の時間帯なのだが、見えないバリアがあるかのように人が避けていくのを見ていると、意外とラッシュ時間帯を快適に過ごすためのライフハックなのでは、と思えてきた。

 けど、あんなダッセェ仮面つけるくらいなら人に揉まれた方がマシじゃね。職質とかされそうだし、俺は絶対ヤダね。

 いつもの習慣でスマホをポケットから取り出し、電源をつけようとしたところで真っ暗の画面に俺のすぐ後ろに居たらしい白い仮面が映り込んだ。驚いてスマホを落としてしまう。

「あなた、私と同じですね」

 昨日と同じ白い仮面に、同じ文言。しかし、それを言った奴は昨日とは別人で、声や服装、体格からして女のようだった。

「気持ち悪い仮面してるあんたと俺のどこが同じなわけ?」

 昨日と違って今日は仮面と相対するのが二回目だからか、相手が明らかに自分よりも小さくて弱そうだからか、強気に出ることができた。

「あなた、私と同じですね」

「うざ。それしか言えないなら話しかけないでもらえます?」

 落としたスマホを拾い上げて、さっさと隣の車両へと移動する。仮面の女はついてこなかった。

 電車から降りて、くさくさした気持ちで大学へ向かう。どうして俺ばかりがあんな変な連中に絡まれなくてはいけないのか。そもそもあいつらはなんだ。テレビの企画かなにかだろうか。テレビよりユーチューバーの線の方が高いか。“怪しい仮面つけてラッシュ時の電車に乗ってみた!” 企画としてありそうではある。待てよ、じゃあ昨日も今日も俺は撮られてたかもしれないってことか。プライバシーの侵害ってやつじゃねぇの、それ。

 仮面の奴らのことだけでも不快度マックスだというのに、嫌なことは連続して起こるもので、学校につくとサークル仲間に目ざとく肌の白いシミのことを指摘された。病院に行った方がいいとアドバイスもされたが、そこまですることか。不服そうな俺に女子の一人が、絶対にヤバいって、と言いながら手鏡を差し出してくる。頬の辺りがちょこっと白くなってるだけだろ。軽い気持ちで鏡を覗き込むと予想外の光景に俺は悲鳴を上げる羽目になった。鏡が映し出した俺の顔は上半分が真っ白になっていた。白が広がっている。それも急激なスピードで。しかも俺はその白色にとても見覚えがあった。これは、今朝の仮面の色と一緒だ。

 駅に向かいたくない。俺はサークルルームで途方に暮れていた。

 今日一日、顔の上半分が白いままで過ごした。女子たちがファンデーションを貸してくれたが、塗ってもいつの間にか白に戻っている。終いには俺が勝手に落としてるんじゃないかと疑われた。誰が好き好んでこんな顔になるか。ため息が出る。さっきからサークルルームに入ってくる奴らが俺を見てはギョッとしていく。いちいち説明するのも面倒だから、気にすんな、の一言で済ましているが正直なところ、とてもいづらい。しかし、電車でまた仮面の奴らと遭遇してしまったらと思うとなかなか帰る踏ん切りがつかない。ねばってルームを閉める時間までいたが金もないので結局、腹をくくって帰ることしか俺には選択肢がなかった。

 重たい足取りで駅の改札を通り抜けた。なるべく下を向いてホームまで行く。どうか仮面に遭いませんように。俺の願いは、神には届かなかったようでホームには仮面の奴らがいた。数は今朝と同じで三人。だが、奴らと同じ電車に乗らなければ鉢合わせることもない。

 電車がホームに入ってくる。白仮面集団が乗車したのをしっかり見送り、俺は次に来た電車に乗った。これで一安心だ。この電車には仮面の奴らはいない。と思ったら大間違いであった。仮面が、いる。俺と同じ車両に乗っている。電車はもう発車している。少なくとも次の停車駅までは降りられない。俺はそそくさと隣の車両へ向かった。しかし、ここにもまた白い仮面がいた。俺は考えに考え。連結部に屈んで隠れることにした。

 順調に電車は進み、次が俺の降車駅となったとき、後ろからバンッ、と音がした。振り向くと貫通扉のガラス部分にへばりつくようにして白仮面が俺を見ていた。

「ひっ……」

 慌てて白仮面とは反対方向のドアを開けて連結部から車両に飛び出し、誰かとぶつかる。

「すみませっ……」

 目に入ったのは白い仮面。

「あなた、私と」

「ウワァアアアアアア!!!!」

 すべてを言い終わる前に白仮面を突き飛ばし、車両中央に逃げる。腕を誰かに掴まれる。また、白仮面だ。振り払う。電車が駅に着いた。一目散にドアから出る。ホームに降り立つと、目の前には白仮面、白仮面、白仮面。白仮面がうじゃうじゃしている。

「あなた、私と同じっ、ぎゃあ!」

 話しかけてこようとした白仮面を殴った。白仮面たちが一斉に迫ってくる。

 あなたあなたあなた私と私と私と私と同じ同じ同じ同じ同じ……。

「黙れ、黙れ!!」

 拳を振り回しながら、改札に走る。駅を出た後もひたすら走る。息も切れてきた頃、後ろを振り返ると誰も追っては来ていなかった。周囲を警戒しながら、スマホを取り出す。誰かと連絡を取って安心したかった。

 スマホの暗い画面に白仮面が映っていた。ギャッと叫ぶが、よくよく見ればそれは自分の顔である。自分の顔に白仮面がひっついていたのだ。なんで、と疑問を口にしたはずが声は出なかった。代わりに俺の口が紡いだ言葉は


「あなた、私と同じですね」

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