にんじん

本編


 ごり、ごり、と音がする。

 ―――まただ。

 このアパートに越してきて一週間、この音が途切れたことはない。

 昼間は聞こえないのだが、夜になると鳴り出す。具体的に何時からかはわからない。夜が更け、周囲が寝静まって俺もテレビを消し、寝床に入ると耳につくという感じだ。


  ごり、ごり、ごり、ごり。


 俺は舌打ちをして寝返りを打った。一度気になってしまうともう駄目だ。

 明日は休みだからまいいが、慣れない環境と、この音とで、ここ一週間は寝不足気味だ。明日はまだ片付かない段ボールをどうにかしようと思っていたのに、この分では昼まで寝ることになりそうだ。


 ごり、ごり、ごり、ごり。


 音は隣の部屋、202号室から聞こえている。

 前に住んでいた部屋は一階で、二階に入った男子学生が隣近所の迷惑を顧みず明け方まで騒ぐバカだったため、次の部屋は上階にしようと、この203号室―――二階の角部屋に決めた。まさか再び煩わされないだろうと思っていたのに、これだ。俺は騒音に呪われてでもいるのだろうか。

 下の階は小さい子供のいる三人家族だというのに、子供の騒ぐ声すら殆ど聞こえずよほど静かだ。隣人がどんな奴か知らないが、子供を見習えと思う。

 

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 

 明日、耳栓を買ってきて、不動産屋に苦情を入れよう。逆隣の201号室や、下の部屋から苦情が出たことがないのだろうか。この音が響いているのは俺の部屋だけではないと思うのだが。

 

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 

 ああ、煩い。

 耳障りな音を追い出すために、俺は頭から布団をすっぽり被った。


     *     *     *


「あら、こんにちは」

 夕方にゴミ捨て場に段ボールを置きに行くと、背後から声をかけられた。振り返れば、顔見知りの老婦人が歩み寄ってくる。騒音部屋の逆隣、201号室の住人だ。

「こんにちは」

 俺が軽く挨拶すると、老婦人はにこにこと話しかけてきた。

「お部屋は片付いたかしら」

 これは応じるべきなのだろうか。今まであまり近所付き合いというものをしたことがなかったので、距離の取り方がよくわからない。

「ええ、とりあえずは」

「それならよかったわ。明日がリサイクル紙の収集日で丁度よかったわね。段ボールを出してしまうといいわ」

「はい」

「ああ、でも最近、紙の束を出しておくと持って行かれることがあるのよねえ。ゴミ捨て場の扉はちゃんと閉めてね」

「わかりました」

「そうそう、町内会のことなんだけど―――」

 どうやらこの老婦人はかなりの話し好きらしい。周辺の説明から徐々に世間話へシフトしていくのを適当に聞き流し、話の切れ目に俺は202号室の住人について尋ねてみることにした。

「あの、すみません」

「何かしら?」

「202号室ってどんな人が住んでるんですか? 挨拶に行ったんですけど留守で、まだ一度も会えていなくて」

 老婦人は一瞬迷うような様子を見せた。

「……男の人の一人暮らしだったはずよ。気になるのかしら」

「いえ、気になるというわけでは……ただ、毎晩音がするなあと思って」

 俺の言葉を聞いた老婦人は、何故かぴたりと動きを止めた。彼女は束の間、真顔で俺の顔をまじまじと見て、口元だけを笑ませる。

「202号室の人ね、にんじんがお好きなんですって」

「……はあ」

 そんな情報を貰っても、というのが正直なところだが、俺はとりあえず礼を言ってその場を離れようとした。しかし、視界の老婦人のスカートのポケットから落ちかかっている紙片に気付き、思わず指差す。

「それ、落ちそうですよ」

「それ?」

 老婦人は己を見下ろし、ぱっとポケットを押さえた。そして、大切そうに紙切れを取り出す。

「ありがとう。落としてなくしでもしていたら、一生後悔するところだったわ」

「一生、ですか」

「孫の写真なの。私の孫はこの子一人なのよ」

 大袈裟だと思って呟けば、老婦人は折りたたまれた紙片を広げて見せた。

 今時珍しい、紙に焼かれたL版の写真は古ぼけていて、折り目のところが白く禿げてしまっていた。何かの記念日なのか、かっちりした服装の七歳くらいの男の子が写っている。写真の古さからして、今はもう成人しているかも知れない。右の頬に赤ん坊の拳くらいの痣があるのが印象的だった。

 老婦人はにこにこと俺を見ている。―――これは、感想を待たれているのだろうか。

「……可愛い子ですね」

「そうでしょう、可愛いでしょう。自慢の孫なのよ、運動も勉強も良くできて、好き嫌いもなくて―――」

 しまった。このままでは間違いなく長い孫自慢が始まる。

「すみません、俺、この後、買い物に行かなきゃならなくて」

 強引に遮ると、老婦人は気を悪くした風でもなく頷いた。

「そうなの、気を付けてね。野菜はスーパーより駅前の八百屋さんの方が安いし新鮮だし、小分けで売ってくれるわよ」

「はい、ありがとうございます」

 思いの外あっさり解放してくれた老婦人から離れ、俺は財布を取りに一旦部屋へ戻った。今日の内に一週間の食材を買い出しにいかなければ。ついでに人参を買ってきて、隣人に押しつけてやろうか。それであの「ごりごり」がなくなるのなら安いものだ。


     *     *     *



 残業のせいで日付が変わる頃に仕事から帰ってきた俺は、部屋の前に呆然と立ち尽くした。

「なん、だ、これ……」

 俺の部屋の前、廊下の床からドアにかけて赤っぽい謎の液体がぶちまけられていた。

 撒かれてからそう経っていないのだろう、無機質な蛍光灯に照らされてどろりと光っている。よく見ると液体の中に何やらすり潰したような固形物も混ざっていて、手摺りに飛び散っているそれに恐る恐る顔を近付けて液体の正体を探り、俺は眉を顰めた。

 ―――人参。

 すり下ろされた人参が撒かれているのだ。

「……嘘だろ、おい」

 俺は昨日、冗談半分に、夜中は静かにして欲しい旨を書いたメモを一袋九八円の人参に着けて隣の部屋のドアノブにぶら下げておいた。特にリアクションはなく、夜中の騒音も止むことはなかったので、無駄だったと思っていたのだが、まさか。

 正体がわかると、安堵すると同時に腹が立ってきた。十中八九202号室の仕業だろうが、証拠はない。くそ。嫌がらせに手間暇かけやがって。

 通報するにしても不動産屋に言うにしても現場の画像は必要だろうと、とりあえずスマホで写真を撮った。

「ふざけんなよ、まったく……」

 悪態をつきつつ部屋に入ろうとドアノブに手をかけ―――幸い、ドアノブは汚れていなかった―――なまぐさい臭いが鼻を突いて俺は動きを止めた。思わず後退る。

 血だ。

 撒かれているのは人参だけではない。何かの血液も混ざっている。あるいは、血液に人参が混ぜられているのかも知れない。いや、そもそもこれは本当に人参か? もしかすると、生き物の一部が―――

「……っ」

 ぞわりと肌が粟立ち、俺は考える前にドアを開けていた。すると、

 

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。


 隣からするはずの音が、俺の部屋から聞こえているのは何故だ。奥に誰か、もしくは何かいるのか。いや、それよりも、


 今、俺は鍵を開けたか?


「ひ―――」

 声を上げようと吸い込んだ息が音に変わる前に、後頭部に強い衝撃を受けて俺は玄関に倒れ込んだ。

「な……?」

 頭が割れるように痛む。生ぬるいものが耳の横を伝い、床に落ちる。起き上がろうと伸ばした手は、力なく床板を掻いただけだった。

 いつのまにか音が止まっている。闇に沈んだ部屋の奥で、ごそりと何かが動く気配がした。頭が痛い。割れるようだ。液体が目に入る。汗ではない。痛い。痛い。痛い。視界が歪む。赤く染まる。

 うっそりと出て来たのは見知らぬ男だった。俺を殴ったのは誰だ。背後にもう一人いる。逃げなければ。

 男は床に膝をつくと、俺の頭を押さえつけた。痛い。男が手に持っているものを見て、スライサー、おろし金、そんな言葉が頭に浮かぶ。

 ぼやけた視界の中で見た男の右頬には、赤ん坊の拳くらいの痣があった。

 ―――そういうことか、くそ。

 耳の上あたりにひやりと金属の感触があって、激痛と共に聞き覚えのある音がする。

 

 ごり。

 

 そして背後から、

「今日のにんじんも残さず食べるのよ」

 

 ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり。

 ごり、ごり、ごり、ごり。




 了

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にんじん 楸 茉夕 @nell_nell

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