ゼロ・ゼロ・イチ・ロク
湖上比恋乃
神秘
ガラス張りの大きな大きな温室は、鳥籠を模して作られている。そのなかで息をするのは鳥ではない。植物と虫と、ひとりの少女だ。
被験者ゼロ・ゼロ・イチ・ロクは正真正銘おれの姪である。水と空気と光のみで生きている、非常に稀な存在で、同時に食糧難が危惧される昨今においては貴重な存在ともなった。あらゆる研究機関がこぞって彼女を求めたなか、彼女がおれを選んでくれてホッとした。
姪にとっては母親が、おれにとっては姉がその配偶者とともに死んでしまったことが原因で、体質が変化したのだ。ショック、といえば容易いが、もたらしたものは大きい。傷を舐め合うように生きるなかで、彼女だけが変質した。自分よりも悲しみが深いのではないか。おれは本当はそれほど悲しんでいないんじゃないか。その考えを否定したくて、姪が生まれつき他の生命の摂取を必要としないのでは、と仮定した。今は逆に後天的だと仮定して研究を進めている。
「イロくん、むずかしいこと考えてる顔してるね」
仕事着に着替えたあと、まず温室を訪ねるのはいつものことだ。
「それが仕事だからね」
肩の力が抜けて、息をもらす。
「いいよ。仕事して?」
家にいるときは叔父と姪でも、温室に来てしまえば研究者と被験者になる。なる、というよりかは意識してそうしている。
「じゃあもう飽き飽きしてるとは思うけど、体の調子を確認していきますね」
ゼロ・ゼロ・イチ・ロクは足の生えた植物だ。しかも、より光があたる場所へ移動することができる。葉の位置をずらしたり、向きを調整したりするくらいしかできない植物よりも効率的に光合成が可能だ。
「イロくんとお話しするのに、飽きるなんてことないよ」
「それは光栄です」
午前いっぱいでひととおりの検査が終わる。あとは温室で過ごすも、帰るも自由だ。ここは彼女のために作られた。
「本日もご協力ありがとうございました」
「うん。じゃあ、待ってるね」
ほほえんで、返事の代わりに頭をなでた。太陽の熱でほかほかになっている。彼女のそばにいながら日陰を選んでいたおれは、髪どころか指先も冷えていた。
姪がいる日の昼休憩は温室で過ごすことにしている。昼食がのったトレーを持ったまま、モニターで現在地を確認する。太陽の位置にあわせて動くので、決まっているといえば決まっている。だからこれは単なる癖だ。
さっき確認したエリアにさしかかると、ガーデンチェアをずらしているところだった。光を浴びる姪を見ていると、この世のものではないように思えてくる。少なからず血をわけた間柄であるというのに。生きていくのに必要なものが水と空気と光だけで、それでも肉体は健康そのものだ。身長は伸びていかないが、年齢を考えるとおかしくもない。切りつけると血も流す。自然治癒の過程も特別な違いはない。
近くにあるテーブルにトレーを置いて腰掛けた。へんに距離があるけれど、テーブルを移動させるほどではない。持ってきておいた水を渡すと「ありがとう」と笑う。
姉さんが生きていて、違う家に住んでいた頃とは変わってしまったことがたくさんある。
「イロちゃん」
蝶がふわふわと近寄ってきて、イロちゃんの持つコップの縁にとまる。かと思えばすぐに飛び去って、それにあわせて視線が動くのを見ていた。
「ありがとうね」
君がまた笑ってくれてよかった。
ゼロ・ゼロ・イチ・ロク 湖上比恋乃 @hikonorgel
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