呪いか殺人か

南雲 皋

救いは、彼の声だった。

 お父さんは、わたしが幼い頃に死んだ。

 お母さんは、新しいお父さん候補を何人も家に連れ込み、をした。

 合格した男が新しいお父さんになった。


 その男はお母さんにとってはいい夫だったのかもしれない。

 けれど、わたしにとっていいお父さんにはならなかった。


 口ではお父さんと呼ばせるくせに、わたしの服を脱がせて足を開かせた。

 それがおかしいことだと、わたしはすぐに気が付いた。

 助けてほしくてお母さんにそのことを話すと、怒られたのはわたしの方だった。

 お前が誘惑したのだろうとなじられ、蹴られ、殴られた。


 わたしはどうしたらいいのか分からなかった。

 逃げ出したかったけれど、逃げ出すにはわたしは幼すぎたのだ。


 だからわたしは、長い時間を学校で過ごすようになった。

 図書室は放課後も開放されていたから、わたしは図書室に入り浸りになった。

 図書室に通うようになってどれくらい経った頃だっただろう。

 わたしは、隅の方の本棚にひっそりと置かれていた本を見付けた。

 埃を被ったその本は、呪いの本だった。


 小学校に置いてある本にしては、いささか問題のある本だっただろう。

 借りて帰ろうと思って本の裏表紙をめくっても、貸し出しカードはなかった。

 おそらく卒業生の置き土産か、もしくは家に置いていて捨てたりされないように避難させたとか、そういう類の本だったのではないだろうか。

 貸し出しカードがないのをいいことに、わたしはその本を黙って持ち出した。


 家に帰ると、男がいる。

 既に酒の匂いを漂わせ、どんなに静かに玄関を開けたってわたしに気付いて股を開かせるのだ。

 わたしは汚れた体を風呂場で清め、冷蔵庫の中の魚肉ソーセージを食べた。

 何も手を加えずとも食べられるゆで卵や、ハム、カットされた野菜とお茶のペットボトルを持って自分の部屋に行った。

 食料はある程度まとめて部屋に持ち込んでいたが、わたしの知らない間になくなるのが常だった。


 少しするとお母さんが帰ってくる。

 それからは二人の世界だ。


 わたしからの告白以来、お母さんはわたしに見せつけるように男と行為に及ぶようになった。

 わたしが男を誘惑しているわけではないのだから、わたしに何をしようと無駄なのだけれど。

 二人は常に裸体で家中を歩き回り、ことあるごとに大袈裟な音を立てて口付け、大きな声をあげて交わっていた。


 おかげでわたしは学校でもひどい扱いだった。

 色狂い、色情魔、アバズレ、おそらく家で自分たちの母親から聞かされたであろう単語を、たどたどしい発音でわたしに投げ付ける。

 わたしの図書室通いはますますひどくなっていった。

 最終的には図書室にもいられなくなり、逃げるようにホームレスさえも寄り付かないゴミ溜め同然の橋の下に隠れるようになったのだけれど。



 お母さんが家にいる間は、わたしは一人でいても大丈夫だった。

 男が部屋に入ってくることもなく、本を読むことができた。

 わたしは呪いの本を熱心に読んだ。


 自分の味方を生み出す術が載っていて、わたしは最初にそれを試すことにした。

 どこにも自分の味方がいなかったわたしにとって、その術は誰かを呪い殺すことよりも酷く魅力的だったのだ。


 必要なものを揃えるまで、かなりの時間がかかった。

 けれどなんとか成し遂げ、わたしは深夜、本を広げて術を実行した。

 部屋の中央には数本のろうそくが妖しく揺らめき、頭のない鶏を照らしていた。

 ほとんど暗記していた呪文を唱え、強く願う。 

 すると、どこからか声が聞こえてきたのだ。



『お前の心身の平穏のためには、あの男を殺さなくてはいけない』


「あ、あなたは、わたしのみかたなの?」


『ああ、もちろんだとも。お前の境遇には同情を禁じ得ない。大丈夫だ。その本に書かれている呪いを実行すれば、必ずやあの男は死に、お前に平穏が訪れる』


「おかあさんは……」


『あの男が呪い殺されることで、お前の母親は発狂し、お前に更に辛く当たるだろう。だが、堪えるのだ。堪えていれば、救いの手が差し伸べられるであろう』


「わ、わかった……」



 わたしは呪いを実行することにした。

 呪いたい相手の体毛はすぐに手に入る。

 口の中に男の陰毛が残ることなどしょっちゅうだったから。

 体液も簡単だ。

 あの頃のわたしにはまだ生理が来ていなかったから、男は何も心配せずに毎回わたしのナカに全てを放出していた。


 味方を得るための術の準備より、呪いの準備の方が素早く終わった。

 味方がいてくれたことが大きかったかも知れない。

 彼は度々わたしに励ましの言葉をかけてくれた。

 わたしの術が不完全だったからなのか、術を行なったわたしの部屋にいる時しか存在できないようであったが。


 わたしは彼の言葉に力をもらいながら、準備を整えた。

 金曜日の夜。

 酒を浴びるほど飲んで獣のように交わっていた二人は、今はもう眠っているらしい。

 家の中は静まりかえっている。 

 わたしは夜が明けるまで、ただひたすらあの男への憎悪を込めて呪いの言葉を吐き続けた。

 朝日が差し込むと、呪いの儀式は終わる。

 少しでも寝ておいた方がいいと彼に言われ、わたしは布団に入った。


 お母さんの悲鳴で起こされるまで、わたしは気絶するように眠っていた。

 部屋の中に広げっぱなしにしていたはずの儀式で使ったものは全て綺麗になくなっていて不思議に思ったが、半狂乱のお母さんが部屋の扉を強引に開け放ったので、きっと彼が助けてくれたのだと思った。

 お母さんは相変わらず全裸だったが、その肌にはどす黒い赤が飛び散っていた。



「あ、あ、あ、あんたがやったの!?」


「なんのこと?」


「しらばっくれんじゃないわよ!」



 お母さんはわたしの首根っこを掴み、寝室まで引き摺った。

 突き飛ばされて転がり込んだ寝室はむせ返るほどの臭いだった。

 男は、ベッドの上で絶命していた。

 喉を切られ、大きく開いた口の中には男のイチモツが詰め込まれている。

 何もなくなった股間から、真っ直ぐ胸に向かって切り開かれた腹部からは腸がごっそり取り除かれ、代わりにマヨネーズの容器が置かれていた。

 床には腸で"呪"の文字が書かれていて、わたしは呪いが成就したのだと内心で大いに喜んだ。


 喜びを顔に出さぬようにしていたつもりだったが、お母さんはわたしがそれほど悲しんでいないことを察したようで、金切声を上げながらわたしを折檻した。

 血の味が口中に広がり、息が上手くできない。

 足の骨が折れた音もした気がした。

 自分も殺されるかもしれないと思ったが、彼の言葉を信じて堪えていた。


 すると、誰かが警察に通報していたのだろうか、数人の警官がお母さんを取り押さえ、わたしを助けてくれた。

 わたしは病院に搬送され、そこからもう、お母さんに会うことはなかった。


 鍵のかかった一軒家で起きた猟奇殺人事件。

 わたしの呪いが引き起こした出来事は、世間を賑わせた。

 夫婦の狂ったような生活も、わたしへの虐待も、何もかもが興味の的だった。

 わたしはどうしたらいいのか分からずに彼に助けを求めたけれど、あの部屋ではないから返事はなかったし、あの部屋にはもう戻れなかった。


 親戚もいなかったわたしは施設に入れられ、似たような境遇の子どもたちと一緒に数年間を過ごした。

 彼を再び生み出そうと思ったけれど、施設は何かと厳しく、必要なものを用意することができなかった。


 施設の大人たちや子どもたちは、わたしに普通に接してくれた。

 そのため、彼がいなくても一応は大丈夫だった。

 ただ、心細くなった時は、呪いの本を抱いて眠っていた。


 中学を卒業し、わたしは働くことにした。

 施設を出て、一人で生きようと。

 あんな家庭で暮らしていたおかげで、わたしのココロも壊れていたに違いない。

 性行為に対する忌避感がゼロだったわたしは、なんの迷いもなく夜の店への面接へと向かった。


 派手派手しい店へと入る直前、腕を掴まれて振り返る。

 見たことのない男性だった。



「遅くなった。まだ、助けは必要か」



 そうしてわたしは、共犯者になったのだった。



【了】

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