Disk 01 Track 10 STAND AGAIN!


 五月も目前の所為か春の夜は生温くしっとりしていた。


 空気の所為か怒りの所為か恥ずかしさの所為か鼓動が速い。


 フェンスに胸を凭れて夜景を眺める。……六本木のお洒落ビルからの夜景でも函館や長崎の夜景でもないけど、このバルコニーから眺める夜景が好き。足許ではコンビニの看板が煌々と光り住宅地の細々した明かりが人々の生活を証明する。遠方では新宿のビル街が赤いランプを光らせ、時折流れる電車の音は心を落ち着かせる。


 ユキちゃんってば酷いよ。面白いからって妹とお客さんを揶揄わないでよ。


 頭冷やそうとバルコニーに出たはいいけど、決まりが悪くて中に入れないじゃん。


 長い溜息を吐くと背後から窓を開ける音が聞こえた。


 また揶揄いに来たの? 横暴弁護士め。セクハラで訴えるぞ。


 鼻を鳴らして警戒すると『ハナちゃん、ごめんねー』と間延びした声が聞こえた。


「コタローは悪くないよ。私こそ……お客さんに姉妹喧嘩見せてごめん」


「いやいや。レモンミルク派の懐柔を企むユキの女王には参ったなー」アビエイターを掛けていないコタローはフェンスに凭れる。


「それで……何?」


「んー、ワンパク達とお暇しようかなと思ってね。挨拶も兼ねてバルコニーにお邪魔しました」


「泊まってって? ユキちゃんも今日泊まるし、もう遅いし」


「やー。流石にそれはね。マコトさんも心配してユキの女王遣わした訳だから」


「やっぱりバレてたんだ」


「軍曹氏とハカセ君は分かってないだろうけどね」コタローはヘラっと笑う。


「確かに。本能の赴くまま生きてるから気にしなさそう」


「若いっていいなぁ」


「コタローはそろそろ三〇だから糖尿気にしてよ?」


「この世からレモンミルクが無くなったらね」


「飲み尽くす気?」


「うん。工場に住みたいくらい」


 肩を並べて微笑み合うと気持ちが軽くなった。


 夏空色の瞳が綺麗だな。


 遠くで電車が走る音が聞こえる。生温くしっとり重い空気も気持ちがいい。偶には子守歌みたいな夜も悪くはない。


「……やっと二人きりになれた」


 いつもよりも少し凛としたコタローの声が静寂を裂く。空気の色や温度が急に変わったようで甘い息苦しさを覚える。な、何? 何で急にマジな感じになるの?


「な……何、急に?」フェンスに胸を押さえつけ速まる鼓動を誤魔化す。頬も急に火照る。ヤだ。……なんだかコタローを意識してるみたいじゃん。ユキちゃんが揶揄ったから変な心地になるじゃん。


「ハナちゃんと二人で話したいと思ってた」


 またそーゆー事をさらっと言う。いつもなら平気だけど今そんな事言わないで。甘くて苦しい。


「……な、んの話?」


 やっとの想いで問うた私をコタローは見つめた。


「俺、ハナちゃんの味方になりたい」


 想い描いたシーンとは異なり胸を撫で下ろす。


「味方って……? 友達でしょ?」


「そうだよ。大切な友達だ。でも友達は事情を知らないと味方になれないでしょ? ……俺が見る限りハナちゃんは嘘を吐けないし、優しくて心が澄んだ女性だ。そして何より調和を重んじる。自分を犠牲にしてまで他者を思い遣るから辛いんだ。分割講義から訝しんでいたけどあの日が決定打だった。類が及ばないようにってハナちゃんが俺を突き離したの……ショックだった」


 あの昼を思い出すと胸が締め付けられる。


「……松澤の事?」


 コタローは頷く。


「正直見ていられない」


「……軍曹君やハカセ君は知ってるの?」


「大丈夫。言ってないし気付いてないよ」


「そう……良かった」


「俺、ハナちゃんの力になりたい」


 また手を差し伸べてくれるの? あの時振り払ったのに。目頭がじんわり熱くなって鼻の頭もキューッとする。ヤだ。夜景が滲んで見える。


「……ダメだよ。コタローに迷惑掛ける。意地悪されまくって卒業出来なくなっちゃうかもしれないよ?」目を両手で押さえつけて堤防が決壊を止める。


「構わない。大切な友達を見捨てるなんて事出来ない」


「でも……私、無理。知られたくない。松澤に抗ったら知られる。パパにもママにもユキちゃんにもツキにもこんな事知られたくない。軍曹君やハカセ君、ニャコにだって……。知ったらみんなも苦しむ。悲しむ。そんなの嫌」


「うん。分かってる」


「コタローにも知られたくなかった」


「分かってる。ハナちゃんの気持ちは分かってる」


「汚れた女なのに」


「汚れてないよ。ハナちゃんはハナちゃんだ。俺の大事な友達だ」


 ダメだ。そんな事言われると涙が止まらない。後から幾筋となく涙が頬を伝う。こんな顔見せたくないのに。


 そっぽを向いて溢れ出る涙を拭っているとコタローに引き寄せられ軽く抱きしめられた。


「……こうすれば涙は見えない。嫌なら突いて。解くから」


 松澤に手首を掴まれた時は吐き気がする程に嫌だったのに……コタローの胸に頬を寄せて穏やかな鼓動を聴いてるとスッと楽になった。幼い頃、怖い夢を見た晩にパパとママに一緒のベッドに入れて貰った時と同じだ。


「悪いようにはしないから。味方にならせて。力にならせて」


「……でもコタローを傷つける」


「俺はハナちゃんが傷つく方が耐えられない」


 コタローの大きな手が私の頭を恐る恐る撫でた。しかし私が抱きしめ返すと優しく撫でる。


「俺は三〇に手が届くおじさんなんだ。ハナちゃんが気にする程柔じゃない。俺がハナちゃんを守るから」


「パパとかママとか、弁護士さんとか……誰にも……言わない?」


「誓うよ」


「辛くなったら味方辞めてくれる?」


「それは無理」


「じゃあダメ」


「ハナちゃん、お願いだ。俺が辛いのは大切な友達が傷ついているのに力になれない事。ハナちゃんが友達を大切するのと同じで俺も友達を大切にしたい。ベクトルはちょっと違うけど……気持ちは一緒なんだ。だから……お願いだ」


「……うん」


 コタローは強く私を抱きしめた。

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