Disk 01 Track 03 うるさい!
翌朝の気分は最悪だった。
履修お試し期間の分割講義なので学習は進行しないのが気楽だけど松澤に顔を合わせなきゃならない。苦手……ってか寧ろ嫌い。無理。怖い。キモい。あの顔思い出しただけで怖気立つ。
去年必修単位の講義から逃げまくった所為で今年は主任教授たる松澤の必修を受けなきゃならない。今年はニャコの当てが外れた。グループワークや共同作業が無いのは救いだけど。九〇分みっちり松澤のねっとりした視線に耐えなければならない。
脱サラして書いた小説がいきなり大賞とって大ベストセラー。その後書いた物はどれもヒットするので時代の寵児だと持て囃されている。常に眉間に皺を寄せてるから偉い大先生なんだろうけど私にだけフランク過ぎるってか矢鱈と絡む。始めは教材運び等仕事を手伝わされるくらいだったけどプリント提出する時に手を触ってきたり誰もいない研究室に呼び出ししたり何かと用を付けて休日も拘束しようとしたり……。気持ち悪い。怖い。苦しい。悲しい。嫌い。
嫌だけど……あの時よりはマシだし、思い出す度に気持ち悪くて怖くて恥ずかしくて誰にも相談出来ない。落とす訳にいかない単位だから我慢してとらなきゃいけない。……学びたくて大学に進んだのに毎日が憂鬱。辛い。
前半の講義が終わって教室から出る学生達を見送る。しかし後半目当ての学生はなかなか来ない。最悪。一限の前半は人の集まりが悪いだろうからって後半選んだのに。このままだと松澤と二人きりじゃん。
……分割講義だし履修登録まだだし出席に影響しないからサボろうかな……。でもこの調子じゃ受講すら出来ない。学べない……卒業出来ない。好きで進んだ道なのに。理不尽過ぎる。
歯の根が合わない。唇が震える。胸がきゅうきゅう痛い。足の力が抜けそう。苦しい。ショッキングピンクのバッグのハンドルを握りしめていると間延びした声を掛けられた。
「ハナちゃんだー」
顔を上げるとコタローがコンビニのレジ袋を片手に下げていた。
「大丈夫?」
「う、うん。腫れは引いたから大丈夫。昨日はありがとう」
バッグからハンカチを取り出すとコタローに差し出す。
「これ、ありがとう」
一瞬言葉に迷ったらしいが『わ。アイロン当ててくれたんだ? とても綺麗。ありがとう』とコタローはフニャッと笑った。
「パパも『本当にありがとう』って」
礼を述べるがコタローの注意は既に違う所にある。私のバッグをまじまじ眺めている。
「可愛いバッグだね。しっかりしていっぱい入りそう」
「そ、そう? 気に入ってるの」
ハイブランドのバッグを使う女の子達とは比べ物にならないけど……大切なバッグ。入学が決まってからお祝いにって、ツキがファッションビルで買ってくれた。あの後家族で外食したんだよね。仕事で忙しいユキちゃんまで来てくれて……楽しかったな。
『これもいっぱい入って便利だよ。俺のお気に入り』とコタローはレジ袋を掲げた。……ウケる。
「お兄さんってばバッグはお下がりにくれないんだね」
「車移動だから使わないだろうねー。男って荷物少ないからさ。それに荷物はマネージャーさんが管理してるだろうし。……ハナちゃん『古典を読むA』取るの? 後半聞きにきたの?」
「う、うん」
「わ。一緒に聞こうよ。この講義、単位習得難しいって聞いたから。先輩がいると心強い」
ヘラっと笑うコタローに胸を撫で下ろす。良かった。来期は分からないけど今期はコタローのお陰で救われそう。
背中を押され教室に入ると教壇で資料を整理していた松澤が顔を上げる。私に気付くと神経質な表情が一転し、目を細めてなめら筋のようにねっとりした視線を送る。私を呼ぼうと松澤の口が開きかけるが、後から入室したコタローに気付くと口を閉じた。
コタローはヘラっと笑うと『松澤先生おはよう御座います。シラバス貰いますね』とプリントを二枚取り上げた。一枚を私に差し出すと『後ろ行こうよ後ろ。不良学生な気分を味わいたいな』と私を促す。
「君達しか受講者いないので前に来なさい」松澤はわざわざマイクをオンにして咎める。嫌なヤツ。
「大ベストセラー作家の松澤先生が眩しくて眩しくて。これ以上近づくと目が潰れちゃいます。すみません。それにあとから何人か友達来ますので前を占拠したら先生のファンが悲しんじゃいます」
褒め倒されれば松澤もこれ以上は何も言えない。資料に視線を戻した。
壁際の席に着くと『ここでいい?』とコタローは聞いた。
こっくり頷くと『良かった』とアビエイターのサングラスを外し、メガネを掛けた。
「視力悪いの? コンビニでも掛けてた」
「いやいや。伊達メガネ。頭良さそうでしょ? 出来る男アピールです」コタローは人差し指で弦を上げる。プラスチックのレンズの奥で青い瞳が煌々と笑う。夏空色の瞳が眩しい。
「ウケる。昨日は大ドジ踏んでたのに」
「サングラスって評判悪いからさ。俺も掛けたくて掛けてる訳じゃ無いんだけどね」コタローはレジ袋からペンケースと目薬を取り出す。
「……もしかして光に弱いとかドライアイだとか?」
「ご明察。流石はハナ刑事」
「大変だね。……でも夏空みたいに綺麗な瞳。セミの鳴き声が聞こえそう」
「わ。綺麗な人に詩的に褒められちゃった。ありがとう。嬉しいな。きっとおばあちゃんも喜ぶ」コタローは首から下げている赤いガラスのペンダントを一撫でした。今日もそれ付けてるんだね。お気に入りなんだ?
それにしてもイケメンのこーゆー所が苦手。さらっと褒めるし気軽にありがとうって言うから。気持ちいい人だけど調子が狂う。
こちらを睨む松澤を無視しコタローのおばあさんの話を聞いていると『おっす、ジュニア』『よっす、ジュニア』とコタローは声を掛けられた。
「めっす。軍曹殿にハカセ氏。先輩も一緒なんだけどいい?」顔を上げたコタローはヘラっと笑う。視線を上げると出涸らし色の軍服(サイズ感がおかしい。大きすぎる)を着た男の子とメガネにネルシャツに楽器バッグを背負った男の子がいた。ニャコとはベクトル違うけど我が道を突っ走るマニアックな男の子達だ。コタローも付き合う人、濃いね。
「お友達?」コタローに問うと『うん。同じ学科で色んな事を教えてくれる人生の先輩。待ち合わせてたんだ』と微笑んだ。友達の友達なら失礼のないように挨拶しなきゃ……ってか待ち合わせしてたのに私が勝手に入っていいのかな。ごめん。
「軍曹君とハカセ君、はじめまして。ハナです。お邪魔してごめんね?」お辞儀をすると二人の男の子はこそこそ耳打ちする。え……何か不味い事言った私?
「女子が口聞いてくれた! すげっ! 陰キャの俺に! しかも美女が!」
「おねえ様に渾名呼ばれた! ジュニアマジック! マジ感激!」
女子中学生のようにはしゃぐ二人を松澤はマイクでビッと咎めた。
「……大先生ご機嫌が悪い」
「……締め切り近いのかな」
ごめん。大方私の所為です。でもしょんぼりする二人は何処となく可愛かった。元気付けに声かけてみようっと。
「なんでジュニアなの?」
「何処かのバンドのボーカルに激似らしくて皆んな『ゼロックス』とか『ゼロ』とか呼んでるんすがコタロー君良い奴だからそんなんじゃ味気なくて。んで、ハカセと一緒にぴったりな渾名考えたんす。コタロー君、アニキがタローさん言うらしいんすよ」軍曹君はコタローを見遣る。
「弟がコタロー。故に『ジュニア』っす」ハカセ君もコタローを突つく。
「タローのジュニアとか男性器みたいだよね」コタローはヘラっと笑う。笑ってる場合か?
彼らのやりとりがあまりにも愉快で失笑する。軍曹君もハカセ君もツボったようで声を抑えて笑う。
「ハナさん意外と下ネタ平気っすね?」軍曹君が顔を覗く。ちゃんとご飯食べてるのかな? 頬がこけてる。
「うん。程度が過ぎるとダメだけどね。あ。敬語使わないで。寂しくなる。私、軍曹君とハカセ君とも友達になりたい」
軍曹君とハカセ君は互いを見合わせると大きく頷き私を『ハナちゃん』と呼んでくれた。
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