H先生の黒い金庫

寿 丸

黒い金庫の中身

 私が大学を卒業してから五年後に、H先生という恩師が亡くなられた。


 まだ五十代という若さで。名誉教授になれるかもしれないという噂が流れた矢先で。


 卒業してからもちょくちょくH先生に会いに行っていたのに、私は彼の異変に気づけなかった。ただ、H先生の奥さん曰く「突然のことだった」らしい。それまでなんの兆候もなかったのに、ぽっくりと亡くなったという。


 私は自ら彼の研究室の片づけに手を挙げた。彼を慕う、かつてのゼミのメンバーと共に。


 彼の部屋の中には金庫があった。黒い、ダイヤル式の金庫。


 私が在学していた時からあったものだ。「何が入っているんですか?」とH先生に聞くと、「つまらないものですよ」とはぐらかされた。なんとか彼の目を盗んでメンバーと共に彼の金庫を開けてみようと試みたことがあったが、そういう時に限って先生が研究室に戻ってくるのである。

 

 そもそも金庫開けのやり方など誰も知らないから、先生が長らく研究室を不在にしていたとしても開けられないだろう。


 そういうわけでH先生亡き研究室で私たちゼミメンバー一同は、黒の金庫を前にどうしたものかと思いあぐねていた。このまま先生の奥さんに引き渡すべきか、あるいはなんとか手がかりを見つけて開けてみるべきか。


 ある一人がぽつりとつぶやく。


「勝手に開けてもいいのかなぁ」


 また、別の人が言う。


「先生、もう亡くなっちゃったし。ある意味時効というか……気にしなくてもいいんじゃない?」

「でも、なんだか悪い気がするよ」

「といってもさ、そもそも開けられるのコレ?」

「わかんねーけど、やってみる価値はあるんじゃね? みんな、コレの中身気になっているだろ?」


 この言葉には私含め全員が同意した。


 興味半分、怖いもの見たさ半分。


 そんなわけで私たちはH先生の研究室を片っ端から捜索した。どこかに金庫の番号のメモはないか、壁やロッカーなどに書かれてないか。デスクやキャビネットの裏も確認したし、なんならわざわざ電灯を消して、スマホのライトで捜索してみたりもした。


 だが、どこにもそれらしき番号はなかった。捜索を始めて一時間のことだ。


「やっぱり、あるわけないか」

「先生の頭の中に入っているんだろうね」

「ってことは、そんなに難しくない番号じゃないか?」

「どうだろう。先生が思いつく番号なんて私たちに思いつく?」


 みんな、無言になってしまった。


 H先生は物腰の柔らかいお方だったが、私たち学生に無理難題を吹っかけてくるというなんとも難儀な人だった。青年心理学という学問を教え、ゼミでは私たちに「心理学とはどうあるべきか」みたいなテーマを放り投げて後は後ろで見ているだけ、というのもしょっちゅうあった。


 そんな彼が思いつく番号。


 例えば印象深い日など。


「卒業式の日とかは?」

「俺たちのか?」

「でも、先生毎年違うメンバーを受け持っているし。私たちの卒業の日なんてわざわざ番号にするかなぁ?」

「まぁまぁ、試しにやってみようぜ。いつだっけ?」

「えーっと、三月の……二十二日だっけ?」

「ゼロ、三、二、二っと。……ダメか」

「まぁ、一発で開くとは思えないし。じゃあ、先生と奥さんの結婚記念日とかは?」

「知っている奴、いんの?」


 全員が押し黙った。それはそうだろう。


「でも、ここにあるってことは大学に関係していることなんじゃない?」

「じゃあ、先生がここで勤めることになった日とかは?」


「それだ!」と全員が声を上げた。そして段ボールの山からH先生の資料をひっくり返し、彼のプロフィールを洗い出しす。


「ゼロ、六、一、二……これもダメだ」

「一、二、三、一……違うか」

「先生の誕生日……これも違う」


 ああでもないこうでもないとダイヤルをいじり回していると、すっかり日が暮れてしまった。私たちはため息をつき、誰かがもう諦めようかと言い出したところだった。


 しかし――


「俺たちの誕生日は?」

「はぁ? 何を言ってんの?」

「いや、万が一だよ。試してみる価値はあるだろ」

「それで万が一開いたらどうすんの。男子でも女子でもちょっと怖い話になるよ」

「…………」


 男子の提案はものの見事に却下された――かに見えた。


 私は彼らの目を盗み、とりあえず自分の誕生日を入れてみた。


 一、ゼロ、二、三……開いた。


 開いてしまった。


「え、開いたの!?」

「ウソ、なんで!?」

「ちょっとKさん、どんな番号を入れたの!?」


 私はとても言えなかった。まさか私の誕生日の番号だなんて。


 とにもかくにも金庫は開いた。ゼミのメンバーは私の動揺はとりあえず横に置いて、先生の金庫の中身を確かめた。


 中には大量の手紙があった。


 私たちはちょっとがっかりした。何かしら貴重なものがあるかもしれないと思っていたから。


 しかし――もっと驚くことがあった。


「これ、Kさん宛てじゃない?」


 え、と私は目を丸くした。ある一通の手紙の中身を確認したメンバーから手渡され、私も急いで読んでみる。


 先生の直筆の手紙は以下の通りだった。


〈君がこの手紙を読んでいるということは、すでに私はこの世にいないかもしれません。


 すみません。この一文、ちょっと書いてみたかったんです。


 この金庫は毎年番号を変えてあります。なぜそうしているのかといえばまぁ、せいぜいお気に入りの学生の番号を入れているのだとでも思っていて下さい。


 さて、この金庫を開けられたあなた、おめでとうございます。


 特に何かしらプレゼントがあるわけではないのですが、ひとつだけネタ晴らしをしておきます。


 君の卒論ですが、非常に刺激的かつ面白かった。推薦して見事に賞を獲得したのは当然のことだと思っていました。


 君はその場では驚いていました。私はそんな君の反応を見て、にやにやとしていたのです。君を驚かせることができたので。


 普段、君はあまり感情をあらわにすることがなかった。そんな君を驚かせるにはこれしかないだろうなと思っていたのです。もし、不快に感じたりしたら申し訳ありません。


 ネタ晴らしといっても、この程度だったりします。


 さて、繰り返しになりますが、この金庫を開ける時に私はすでにいないでしょう。


 往々にしてヒトというものは閉ざされたものに対して興味を抱くものです。予想通り君は――いえ、君たちはというべきでしょうか――ものの見事にこの金庫を開けてくれました。たいへん満足です。


 つまり、この金庫と手紙はただの自己満足です。がっかりさせてしまったら申し訳ない。


 遊びで書いたものなので、深く考えないで下さいね。

                              Hより〉


 私たちはすっかり言葉を失っていた。


 そして――誰かがつぶやいた。


「片づけに戻ろっか……」


 うん、と全員が同意した。


     〇


 ひと段落ついたところで、私たちは先生の研究室を後にした。


「それにしてもさぁ」とメンバーの一人が声を上げる。

「先生もマメというか、なんというか……」

「うん。お茶目っていうか……」

「まっ、うん。底の知れないお方というか。大学にいた時からそういうところはあったけどさ。なんかな、うん……」

「ちょっと怖いよね」

「ま、ちょっとだけな」


 私は自分の誕生日が金庫を開ける番号になっていたことは、言わなかった。メンバーの言葉通り、私は先生に少なからず畏怖を覚えていた。


 先生はどこまで予測していたのだろう。


 今も私たちの反応を見て、面白がっているのかもしれない。


 あるいは――と思ったが、私は考えないことにした。


 もしもそうだとしたら、本当に怖いから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

H先生の黒い金庫 寿 丸 @kotobuki222

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ