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鵠矢一臣
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都内某所のワンルーム。
男は、パソコンデスクに据えられたモニターの前で、ロング缶のビール片手にぐびりとやると、マウスを動かす。
スクリーンセーバーが解除されると、画面には既にかの有名なマップソフトが起動されていた。
白い線やオレンジの線、青い線が血管のように這っている。種々の道路と河川を表している。所々にしゃもじの頭みたいなアイコンが立ち並ぶ。地が灰色の部分は陸地、青色が海。両者の境目をなぞっていくと、人工的な凹凸に行き当たる。特有の輪郭。港に違いない。
男の右手が動き、画面上を矢印型のポインターが右下へ。向かう端にはオレンジ色した丸っこい輪郭だけの小さな人間が気をつけをして立っている。
矢印が棒人間に重なると、ポインターは白い手の形に変わった。
男がカチリとボタンを押し込む。同時にポインターはグーに握られた形に変わり、小人は片手でそのグーにぶら下がった。画面上の道路がたちまち水色ぶちの群青色に染まる。
ぶらぶらと揺れる小人を宙吊りにしたまま、海からわずかに離れた道路の上まで連れて行く。ちょうど青くなった線の上で、男はマウスから指を離した。
すぐに画面が簡略化された地図から現実の写真へと切り替わる。
映し出されたのはチラホラと商店の並んだ通り。
マウスをドラッグして周囲の状況を見回す。
どの店舗も塗装が剥げたり、トタンが錆びついたり、まるで昭和の遺物のようだ。とはいえまだ現役らしく、ガラス引き戸が開いていたり、腰に手を当てた老人が入口辺りに立っていたりする。道路の先には走行中らしき軽トラックの後ろ姿もあった。半死半生に見えなくもないが、それでもどうにか生き残っている。そんな街の風景。
男はこの街で生まれ育った。
東北の、海に近い、ある漁村。
実のところ、画面上に映し出されている街はすでに現存していない。あの日に、すべて流されてしまった。過去の在りし日に写された画像がデータとして残っているだけである。
男はたまたま、その時、その場に居合せなかったのだった。
目的地があるようだ。男は何度も画面をクリックする。
画像がシフトして風景が先へ進んでいく。
なつかしい街並みを歩いているかのようだと、感慨深げに缶ビールに口をつける。
やがて、二股に別れた道に挟まれるようにして建っている、古めかしい造りの日本家屋に行き当たった。
白壁の塀に囲まれた家。視点の中心となっているY字の頂点からは蔵の側面が大写しになっており、その向こうに母屋の上階が見えている。
男が遠い目をする。
そこは男の生家。とりわけ、滅多に人が立ち入らないその蔵が、男の大のお気に入りであった。小さい頃は採ってきた虫やカニ、あるいは空き缶のプルタブなどといった自分だけの宝物をこっそり隠した。そうして時々コレクションを眺めてはひとり悦に浸っていたのだった。
大人になってからは、逢瀬を重ねるのに絶好な場所でもあった。カビ臭い密閉空間の非日常性を、大抵の相手は喜んでくれたものである。
マウスから手を離し、蔵の映った画面のままにしておく。
ハイバックの椅子を傾け、その中に収まっていた沢山の思い出に耽った。
大学生の頃、海辺で出会ったミユキは小麦色の肌が眩しかった。
写真を撮りに来たのだというナミは筋肉質で、そのストイックさに惹かれた。
街コンで出会って、大きな相続資産がこちらにあると知るやすり寄ってきたあの女の名前はなんだったか。忘れてしまったが、常に清潔感があって、柔らかい曲線を描いた艶々のネイルだけは忘れられない。
十四人のどの女の美点もありありと思い出せる。
だがそれらの思い出は、蔵とともにすべて消えてしまった。
寂しさを感じた男は、ビールの缶をデスクの脇に置くと、おもむろに椅子から立ち上がった。振り向いて、ガラス天板のローテーブルの前に膝をついて座る。
机上には食べ終えて汁だけになったカップ麺、スマートフォン、小分けのサラミ。それから、男が持ち歩いていたために唯一消えずに残ったコレクション。
男はその大事な戦利品を手に取ると、縋るように頬ずりをする。
それは細く、白く、すっかり乾いて節の目立った、女の手であった。
男は気に入った女を蔵に集めていた。
もちろん、全身を。
持ち歩くために手首だけは切り落として。
あまりかさばって変な目で見られてはかなわないので、あの日はお気に入りのトモコの手だけを鞄に潜ませて都内へ出かけていったのだった。
トモコは他の男と結婚を控えている幼馴染の女だった。
結婚生活への不安を漏らしたので励ましてやると、これまで出会った女の中でも一等幸せそうな笑顔を見せた。
その顔があまりに希望に満ち満ちていて、どうしても自分のものにしたくなってしまい、その日の内に首を締めて持ち帰ったのだった。
いまはもう蔵がない。
男は収集をしないよう自重していた。
もはや全てを知っているのはこの白い手だけ。
男は自らを諭すように、頭の中に言葉を並べる。
もう充分満足した。せっかく完全な証拠隠滅が出来たのだ。あとは蔵で息を吹き返したトモコの最期の、あの苦悶に満ちた表情だけ思い出しながら生きていこう。あれほどの昂りを味わうことなどきっともうないに違いない。それに、そうだ――
男は立ち上がり、マウスの上にトモコの手を乗せ、その上から自分の手を重ねた。
「ほら、懐かしいだろう? 君たちとの思い出は、こうして電子の海に残ってるんだ。あの蔵と一緒。誰にも邪魔されず、安全に、浸っていられる。だから、何の心配もいらない。僕はこうして、幸せに暮らしていける」
男は椅子に腰を沈めると支柱を回転させた。背もたれに体を預けると座面も一緒に傾く。全身を脱力させ「ふぅ」と一つ息を吐くと、恍惚の表情を浮かべた。
画面を横目に缶ビールへ手を伸ばす。
缶の飲み口を唇に当て、傾けようとする。しかし中の液体は口内に流れ込んでこない。腕が動かせなかったのだ。
何かに手首を掴まれている感触。それはトモコの白い手であった。
「なっ!」
驚いたのも束の間、白い手は男の体を宙に引っ張り上げた。
有無も言わさない強い力。引っ張られた男の手は天井近くまで達し、体は宙ぶらりんに揺れた。
「な、なんだ。なんだぁ!」
男は振りほどこうと猛烈に暴れるが、白い手はガッチリと掴んで放さない。
手が部屋の中をめちゃくちゃに移動しだした。その度に男はあちこちに打ち付けられてしまう。
「やめろ! やめてくれ!」
突如、ピタリと止まった。だがすぐに動き出し、ゆっくりとパソコンデスクに向かっていく。
なにか底知れない恐怖を感じ、男はデスクの反対方向へ踏ん張ろうとする。しかし足は爪先ほどしか地についておらず、なんの抵抗にもならない。
白い手が加速し、モニターへ向かって突進していく。
画面に衝突するかと思われた手は、しかしその中へ飛び込んでいってしまう。
引っ張られている男の手も一緒に引きずり込まれていく。
「う、うあ、あああああああ!」
肘まで画面に飲み込まれ、次に肩、すぐに顔の一部まで埋もれていく。
男は空いている手でモニターの枠を掴んで抵抗するが、いかんせん引っ張り込む力が強い。
ずぶずぶと画面の中へ引き込まれてしまう。
抵抗むなしく、ついに頭が飲み込まれてしまうと、急に風景が変わった。
それはあの街の上空。下は観覧車のてっぺんから眺めたような景色。男の体は空中に四角く開いた穴から上半身を乗り出していた。
白い手が地面側に男を引っ張ったなら、まだ自室にある足と腰をデスクに引っ掛けて堪えられたかも知れない。しかし手は上空側へとベクトルを変える。
焼いた栄螺から身を取り出すときのように、上半身に引きずられて腰、脚と引っ張り込まれてしまった。
残っているのはモニターの枠を掴んでいる片手だけ。
男は絶対に放すまいと必死に力を込めている。
不思議なことに、白い手はその状態で止まった。
痺れてくる自らの手に懸命に力を込め、どうにか這い上がろうともがきながらも、何事だろうかと考えていた。
「あっ!」
――ひっそりと静まり返った男の自室。
何かが暴れまわった後のように物が散乱している。
デスク上で倒れて仰向けになったパソコンのモニター。その上には、切断された男の手首。画面には血溜まりが。
血液に覆われなかった液晶部分にはスクリーンセーバーの黒背景。
時折、青色の幾何学模様が這っては消えている。
(了)
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