眠れない夜に

かなぶん

眠れない夜に

 草木も眠る丑三つ時。

 その言葉も忘れられて久しい騒々しさが、先程から男を悩ませていた。

 不慣れな出張で、身も心もへとへとになった男は、ホテルの部屋につくなり泥のように眠り、そして、ふと起きてしまった。

 季節は夏である。

 もしここが風流漂う老舗の旅館であれば、そちらの話に転びそうなものだ。

 だが、ここは都会のど真ん中。

 そしてなにより、何時の間に帰ってきたのか、両隣から聞こえる笑い声や手拍子。

 男はこの騒々しさのせいで起きたのだと思った。

 神経質な方ではないはずだが、さすがにこの五月蝿さの中、眠れる図太い神経も持ち合わせてはいない。

 仕方がないので、朝早く起きてからと考えていた書類を片付けることにした。

 両隣への罵詈雑言を口の中で呟きながら。

 その時だった。

 なんの脈絡もなく、死角にある扉がバンッと音を立てて開いたのだ。

「わ、やべっ」

 突然の音に反応できなかった男の耳に、そんな声が届く。

 若い男の声。

 立てつけが悪い扉だった、だけなら男も特別気にしなかったが、人の声が聞こえたと言うなら話しは別である。

 いくら周りが五月蝿かろうが、一人だけのはずの部屋に別の声。

 幽霊、とまで飛躍しなくとも、泥棒その類を想像するのは容易だった。

 男に緊張が走る。

 明日のニュースに自分がどうこうなっているなど、冗談ではない。

 少々考えを飛躍させながら意を決して扉を見ると、音のわりに五センチほどしか開いていない。

 扉の向こうでこちらの様子を伺っているのだろうか。

 両隣の五月蝿さが遠くに感じるほどの恐怖。

 その時、何かが開いた扉から勢いよく飛び出した。

 ビクッと反応してしまった男は、飛び出したものを見て絶句する。

 腕だった。

 男とも女ともつかない太さの、腕。

 ルームライトの明かりは弱々しいが、温かみのある色合いは男の肌を染めている。

 にも関わらず、扉から伸びるその腕は、青白さを保ったまま。

 まるで腕自体が発光しているかのようだ。

 凶器を持った暴漢が出てくると思っていた男は、しばし茫然と腕を見つめる。

 すると、急に腕が奇怪な動きをし始めた。

 くねくねと上下左右に必死に動いている。

 どうやら男の方へ手の先を向けたいらしい。

 しかし、五センチの隙間から肘近くまでの太さを持つ腕をこちらへ向けるのは、なかなか厳しいだろう。いっそ、もっと扉を開くか、長さを調節して手首だけ出せば良いものを、腕には腕の意地があるらしく、しばらくは進展もなくもがいていた。

 最終的に無理だと悟った腕は、大人しく扉の横へと手を向ける。

 そして、今度は激しく上下に振り出した。

 正直、意味が分からない。

 いや、もちろん最初から今に至るまで、腕の存在は男にとって訳が分からないものであったが、激しいヘッドバンギング然で振られる腕は、先ほどのもがきよりも目的が不明だった。

 腕の行動を予測できない男の耳に、また若い男の声が聞こえた。

 囁くような小ささで。

「来い! ほら、来いよ早く!」

 扉の向こうから確実に聞こえてくるその声の意味に、男はもしかしてこれは手招いているのでは? と思い当たった。

 が、腕のあまりの必死さに、そして手招いているという自身の発想に、男はただ首を捻るばかりである。

 それからどのくらい経った頃だろうか。

 不意に力なくしおれた腕が、扉の奥へと消えていった。

 諦めた、という言葉がしっくりくる引き様である。

 次いで、静かにパタンと男の目の前で閉められる扉。

「……なんだったんだ、今のは?」

 もっともなことを口にし、さらに首を捻り考えるが、やはり分からない。

 プルルルルル――――

 と、電話が控えめに鳴りだした。

 今見たことが現実だったのかどうか、判別できぬまま、男は電話に出る。

「はい、もしもし――――」

「なんで、来てくんねえんだよお!」

 ガチャンッ

 ツーツーツー――――

 親しい友人に約束をすっぽかされたような、悲壮に満ちた、十中八九、先程聞いた若い男の声と同じ声。

 非難がましい叫びと電話を叩きつける音に、男はしばし耳を押さえた。

 そして、ふと思う。

 扉から腕が消え、モノの数秒で、フロント経由でしか通せない電話を使えるものだろうか。

 一度使ったことのある男は、フロント係の手際の悪さを知っていた。

 それに、あの扉の先は確か――――

 腕が必死になって手招いていた扉の前に立ち、照明を点けてから開ける。

 迎えたのは、オレンジの光に照らされた、洋式トイレと浴槽。

 他には何もない。

 振り返れば、両隣がこれだけ騒々しい中で、囁き声など聞こえないはずだ。

(ああ、そうか)

 ここにきて男はようやく理解した。

 これがいわゆる、怪奇現象なのだと。

 しかし、

「……どうしろっていうんだ?」

 生まれて始めてのそちら関係の経験を終えた男は、少々途方に暮れてしまう。

 けれど、悩んだって仕方がない。

 全ては終わってしまったのだから。

 首を一振り書類を仕上げ、半ば自棄になりながら眠りについた。


 翌日、フロント係に泊まっていた部屋で以前何があったのかを聞くこともせず、男はホテルを後にした。

 妻子の待つ家へ、土産でも買って、のんびり帰るつもりだ。

 男はこの一夜のことを、生涯、誰にも話さないだろう。

 土産話にもなりはしまい。

 きっと、多分、いや絶対に、誰一人信用も、怖がりもしないことは、体験した自分がよく分かっていたのだから。

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眠れない夜に かなぶん @kana_bunbun

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