鬼夢

向日葵椎

一夜

 最近、悪夢を見る。

 近所の住宅街を走る俺は、誰かに追われている。そいつに追いつかれたらヤバいということがなぜかわかる。そして俺が振り返ると、十字路にそいつが立っている。相手の姿はなんだか黒っぽいということがわかる程度でぼんやりとしているが、手に包丁を持っていることはわかる。――頼む、動かないでくれ。しかしそんな俺の思いは案の定裏切られそいつは走り出す。俺は再び一目散に逃げる。


「――するとだな、景色はいつの間にか会社の屋上になっていて、もう俺はビルの屋上の端に立ってるんだよ。んで、振り返れば少し離れたところにヤツがいる。それからまたヤツが向かってくるもんだから、追い詰められた俺はそこから飛び降りて、地面にぶつかる直前目を閉じる!……で、目が覚めるんだよ」

 俺の暮らすワンルームのローテーブルで向かいに座る男、パーカー姿の前田は目を閉じて聞いていた。目の下に少しクマができているので眠そうに見えるが眠っているわけではない。前田は昔から俺が長話を始めると目を閉じるからだ。

 この前田とは同じ大学に入ってからの付き合いで、卒業後に俺は就職したが前田は漫画家を目指しながらアルバイトを続け、それから一年たった今では早くも小さな雑誌で連載を持つようになっていた。


 話は戻り、俺は最近悪夢を見るという話を前田にしていた。卒業後から俺は会社の愚痴をスマホで前田に送り付けていて、それはほぼ適当に流されていたのに、これには興味を持ってきて今晩は家までやってきた。

「夢の中のそいつは誰なんですか。殺人鬼なんですか?」

 前田は目を開いて言った。目を開くと前田の目はパッチリしていて、目からでも話を聞きもらさないようにしているのがわかる。前田が集中している証拠だ。

「わからない。姿は黒っぽいけどぼやけててな、とにかく追ってきて手に包丁を持ってることくらいしかわからん。だから俺を殺そうとしていることは想像つくけどそれ以外はサッパリなんだよな」

 本当のことだ。ここ数日はまったく同じ夢が続いている。

「えぇ、つまんないですよー! 嘘でも知り合いの誰かとかにしてくれればいいのに。今日はいいネタになるかと思って来たんですから、もうちょっと面白い話してくださいよー。これじゃいつもの愚痴と同じで取り合うだけ無駄じゃないですか」

 前田は眉根を寄せて不満そうな表情をする。

「ひっでぇ……てかいつもスタンプだけつけないで返事しろよな。それに愚痴だけ送ってるんじゃないだろ。たまに今日のお昼ごはんの報告とかもしてるだろ」

「僕は忙しいんです! なんですかお昼ご飯の報告って、写真付きで送られてきても反応に困るだけですよ。はぁ……今日だって時間作るために頑張ってきたのにー」

 ため息をつく前田。それを見ていると懐かしい気がしてくる。そういえば前田と会うのは卒業してから初めてで、こんな風に言い争いをするのも久しぶりだ。


「でもなあ……あの夢見るのけっこうしんどいんだぜ。見てるときは夢の中ってわかってないからめちゃくちゃ恐いしよ。それにもう何日もこんな夢見てるせいで寝る前も起きてからも憂鬱なんだぜ。……それでなくても日中は仕事が忙しいのを考えて憂鬱になる日々だってのに」

 俺が言い終えたあと、なぜか前田の表情が明るくなる。

「あぁ、それはいいですね! 悪夢のせいで憂鬱な日々を送る人っていうのはホラーの世界によくいるんです。ご存じの通り僕ホラーとか描いてるんですけど、そういう人はだいたい謎の手記を残して失踪するんですよ」

「何がいいんだか俺にはわからんな」

 眉間にしわを寄せて言う。前田が俺の話を真剣に聞いているのはわかるが、それはやっぱり自身の創作に関連しているかららしい。俺に寄り添って話を聞いて欲しいということではないが、俺のしんどさを軽く見られているように感じる。

「いいじゃないですか。失踪する前には取材したいのでちゃんと教えてくださいね」

「それじゃ失踪にならんだろう」

 もはや呆れながら言う。大学生の頃ならここでそれについて長々と説明してやりたいところだが、もう社会人のいい大人だ。まだ一年しかたっていないが、言いたいことをのみ込んで済ませるのには慣れてきている。

「そうなれば今まで付き合ってきたかいがあるというものです」

 たまらず俺は大きくため息をついた。

「お前相変わらずネタのことしか考えてないな……」

 大学生の頃に出会ったときには既に前田は漫画家を目指していて、ほとんど毎日のように俺との会話でネタについて話していた。それでもこんなに無神経ではなかったように思う。

 前田は気にした様子もなく、パッチリした瞳を俺に向けて口を開く。

「そのおかげでいろいろ知ることは多いんですよ。では、失踪してしまう前に悪夢についてもう少し聞いておきましょう。山下さんトラウマはありますか?」

 俺と前田は同い年だが、前田は俺のことをさん付けで呼ぶ。

「トラウマ? うーん、思い当たらないな」

 誰にでも嫌な思い出の一つや二つはあるだろうけれど、トラウマと呼べるようなものは俺にはない。

 前田は笑みを浮かべる。

「ですよね。山下さんにそんなのないですよね」

「この野郎……」机を叩きたい気持ちをぐっと抑える。

 前田は一度うなずいてから口を開いた。

「ということはただの夢ですね。悪夢っていうのはトラウマなどの過去の強烈な記憶からくるものと、単なる普通の夢っていうパターンがあるんです。それで普通の夢っていうのがなんなのかというと、その人の脳が記憶の整理をしている影響で見るものらしいんです」

 言葉の中に「ただの」とか「単なる」とかメンタルへのジャブが多い。やはり今日の前田には違和感があるが、このくらいは誤差としてのみ込める。

「ふーん、記憶の整理ね……何それ」

「のんびり山下さんの脳でも寝てるうちにちゃんと仕事しているということです」

「へえ、俺の脳、偉いじゃん。いや誰がのんびり山下だよ。前田、お前ちょいちょい俺のこと馬鹿にしてるよな」

 俺は怒っていない。ノリツッコミをする余裕ができるほど呆れているのもあるが、夢というものがなんなのか今まで考えたことがなかったので、前田の説明に少しだけ感心したからだ。

「馬鹿になんて」前田は首を振る。そして続けて言った。

「それよりたぶんなんとかなりますよ、それ」

「マジで」

 思ってもみない言葉が前田の口から飛び出して、俺は驚きの表情のまま固まる。そのまま次の言葉を待っていると、前田はうなずきながら口を開いた。

「はい。悪夢をクリエイトするんです」

「は……?」

 言葉の意味がわからず俺は口を開けたまま再び固まった。悪夢とクリエイトという言葉がそれぞれなんだかはわかるが、全体として何を言っているのかわからない。

「まずですね」と前田は一呼吸置き、「悪夢って言葉が僕は嫌いなんですよ!」と俺へ視線を向けながら声を上げ両手で机を叩いた。まだ俺も叩いたことないのに。それからまた続けて言う。

「悪ってなんですか? 漠然としてて僕は腹が立ってきます。相手は誰なんですか? ちゃんと説明してください!」

「うわめんどくさ。うわ、めんどくさ。だからわかんないんだって。さっきも言ったように相手は包丁っぽいエモノ持った黒っぽいやつってことしかわかんないんだ」

 前田は漫画の設定を決める話でもしているのだろうか。しかしそんなことを言われてもわからないものはわからない。

 俺の答えを聞いた前田は今度は穏やかな表情で言う。

「じゃあ鬼ですね。殺人鬼です」

「なんでさ」聞いてみる。

 俺にはわからないが前田には何か考えがあるのだろう。

「イメージしやすいでしょう。例外はありますが昔話でもよく鬼は悪として登場しますし、節分と言ったら鬼は外でしょう――これは悪というより厄ですが。とにかく、まずはより具体的にしていくのがコツなんです」

 やはり漫画の設定を決めているように思える。

 俺の釈然としない表情と視線の先で、前田は続けた。

「それにまあ、鬼っていうのはプラスのイメージに変換しやすいんです。鬼がつく言葉は悪い意味のものばかりではありません。例えば鬼才。とんでもない天才。まあ僕のことですね」

「とんでもないうぬぼれだな」

 しかし自信があるとも言える。そこまでの自信があったから前田は漫画家への目標を目指していけたのかもしれない。

 そんなことを考えていると、前田は表情を急にムッとさせて口を開く。

「それに鬼嫁! 世間の既婚男性は自分の嫁をよく鬼だと言いますが、まあ自慢ですよ。恐い恐いといいながら大好きなんです。いやあ僕は悪の次にこういう自虐風自慢が大嫌いなんです!」

 そしてまた机を叩いた。

「お前相変わらず歪んでんなぁ……」

 大学生時代から前田は好き嫌いがハッキリしていて、流行りのものでも「好きでないものは嫌い」といった感じでどんどん分別していた。そしてさっきもそうだが、嫌いなものを語るときの前田は怒りを隠さず態度に出す。反対にそれ以外では漫画のネタの話でも落ち着いている。

「現代アートはだいたい歪んでるんですよ」

「はいはい」よくわからないけど相づちを打つ。

「ということで僕を見てください――」

 前田はテーブルの下から何かを取り出して顔の前に掲げた。

 全体的に白くて角が二本生えた――

「ッ! 般若の面じゃねえか! どっから出した!」

「いつも持ってるんですよ」

 前田は仮面を顔にかけて話す。今まで持ってたから出したのはわかるが、俺はそれをどっから出したのかが疑問なのだ。前田のカバンは俺の傍にある。

 そのとき、浮かんだ疑問は俺の記憶の底から懐かしさも引き上げた。

「……あ、そういやお前いつもヘンテコな仮面持ってたよな」

 大学生時代から前田は何かしらの仮面を持っていて、時間があるときにそれを絵に描いたり頭にかけたりしていた。気になって聞いたことはあるが、ざっくり言うと「好きなんです」のような答えが返ってきたので、それ以上詮索したことはない。

 そこまで思い出したところでデジャヴに近い感覚があった。

「ヘンテコとは失礼な! 人は誰でも仮面を持っているものです。般若というのは恨みを持った女が化けた鬼である鬼女なんです。鬼嫁とは違って愛されないゆえの孤独から生まれた強さがあって僕は好きです」

 思い出した。あのときもそういう感じの答えだった。

「はいはい。で、俺はそれを見てたらいいの?」

 前田は自分の顔を指さしながら答える。

「はい。この状態の僕を見ながら寝てください」

「は!? 今日一緒に寝んの?」

「そうですよ! 僕がなんのために時間作ってきたと思ってるんですか! 山下さんが面白い話聞かせてくれなかったから僕は退屈なんですよ!」

「それはすまんが……マジで?」

「はい」般若が答える。前田の表情がわからない。が、この際前田の表情より気になることがある。

「ていうかなんでそうなるんだよ」

「寝る前に深く考えたりしたことってよく夢に出るんですよ。寝る前に学習したことが記憶に定着しやすいっていう話は聞いたことあると思うんですけど、その記憶が整理されたときに夢として現れるんでしょうね」

「なるほどな、それで寝る前にお前を――というか仮面を見るわけか」

 そう言って仮面へ視線を送っていると、前田は顔をうつむかせた。

「僕も……締め切り前になると描かなくちゃいけないものが夢に出てきて……ある意味追われる夢を見るんです」

 締め切りに追われるということだろう。前田が普段どのくらい忙しい生活をしているのかがうかがえる。

「お前も大変だな……。まあ、明日休みだし、やってみるか」


 夜も更けそうな時間だったので、俺と山下は軽く晩酌したあと同じ部屋にあるベッドに入った。懐かしい感じがする。大学生の時も酒を飲んだ帰りにどちらかの家に泊まることがあった。だが今回は俺がこの部屋に引っ越してから初めてのことになるし、目の前の前田が異様な雰囲気を放っている。

「では山下さん、おやすみなさい」

 窓から入る薄明りに照らされた般若がこちらを見ながら横になっているのだ。そういう話になっていたのはわかるが、いざその時になると気になる。

「暗いとめちゃくちゃ恐いな……てか前田お前寝づらくねえの?」

「…………」般若は黙ってこちらを見ている。

「ん? 前田?」

 様子をうかがうと小さく「ぐぅ」といびきが聞こえた。耳を澄ますと寝息を立てていることがわかる。

「はや。鬼が先に寝ちまったよ……まあいいか」

 前田も仕事で疲れていたんだろう。目の下にクマもあったし寝不足だったのかもしれない。そこに酒が入れば仕方のないことだ。

 俺は仮面を――前田を見ることにした。寝る直前までしっかり見ておけば悪夢が、前田の言うところの鬼の夢にクリエイトされる……らしいからだ。

 前田を見ながら、さっき晩酌で話したことを思い出す。

「別に僕、嫌じゃないんですよ、山下さんの愚痴」

 卒業してから前田が漫画家になるまでの話をしていたときに、前田が言った。俺が適当に相づちを打っていると、頭の横に仮面をかけている前田は続ける。

「いやぁーほら、山下さんもね……」

 このあたりからなんだか声音が不安定だった。俺が「うんうん」と聞き流していると案の定、「頑張ってるんだなあって思ってですね!」と今にも泣きだしそうな表情で声を震わせた。そして前田はすわった目を俺に向けて続けた。

「僕も頑張れたところがあって、感謝をしているです」

 これは知らなかった。前田は自信家だから、自分が目標に向かうときに他人のことを気にしないものだと思っていた。俺が日々の不満からなんとなく送っていたメッセージが違う形で受け取られていて、力にまでなっていた。

 語気を和らげながら前田がポツリと言う。

「だから、今日はそのお礼ということです」

 それから俺たちはまた、たわいのない話をしてから寝ることになって今に至る。

 言われた通り、眠るまで前田をじっと見ている。

 今日俺の部屋に来たのはお礼、と前田は言っていた。どうやら俺を心配していたらしい。さっきやけに無神経だったのも、元気のなさそうな俺を前田なりに励まそうとしてくれていたのかもしれない。俺の夢がどうなるのかはわからないが、そう考えを改めれば礼を言うべき気がする。しかし素直じゃないのはお互い様だ。

「おやすみ」

 俺も目を閉じて眠った。


 *


 その夜、夢を見た。

 近所の住宅街を走る俺は、誰かに追われている。そいつに追いつかれたらヤバいということがわかる。そして俺は振り返ると、十字路にそいつが立っている。姿はなんだか鬼っぽい。というか般若の面? そして手に包丁を持っている。――頼む、動かないでくれ。しかし思い通りにはならず、そいつは走り出す。俺は逃げる。


「――するとだな、景色はいつの間にか会社の屋上になっていて、とうとうそいつに追い詰められた俺はそこから飛び降りて、地面にぶつかる直前目を閉じる!……で、目が覚めたんだ」

「へえ、そうなりましたか」

 前田は食パンをかじる。

 朝になって目覚めた俺と前田はローテーブルで朝食をとっていた。

 テーブルにのった般若の面に見られながら。

「いや、変わってねえじゃねえか、夢」

 俺も食パンをかじりながら言うと、前田は眉根を寄せて不満そうに口を動かす。

「変わったじゃないですか。相手は鬼です。より具体的になったじゃないですか。結果としてはまずまずのところかと思いますよ」

「肝心の追われるところが一緒なの。まったくどうしたもんかねぇ……」

 ため息を鼻から吐くと、小麦の香ばしいのが通っていった。

 前田は「あっ」と言って俺にたずねる。

「恐かったですか? 僕」

 夢に現れた相手が鬼なら、それは寝る前に見ていた前田ということになる。その理屈から前田の疑問が生まれたのだろう。

「そりゃ恐かったわ。夢ン中で相手が誰とか考えられなかったんだからよ」

 ここまでは結果今まで通りだ。俺は続ける。

「でも目覚めたときの気持ちは変わってたな」

「すごい、やりましたね。クリエイトです!」と誇らしげに言う。

「目覚めてから思ったんだよ――あとで覚えてやがれって」

 俺は般若の面をとって顔の前に掲げた。

「……あれ?」前田は首を傾げる。

「クリエイトされたな。恨みが」

 視線の先で前田は微笑みながらパンをかじって言う。

「ま、いいじゃないですか。殺される夢は吉夢らしいですよ。これからきっといいことがあるってことです」

 もちろんさっきのは冗談で、恨んでなどいない。それどころか感謝している。昨日前田が、鬼はイメージを良い意味に変換しやすいと言っていたように、これからよくなっていくような直感が俺の中に芽生えていたからだ。理由はある。

 俺は仮面をテーブルに置き、カップのコーヒーで口を濡らしてから言う。

「悪夢を見るようになった原因に思い当たるところがある」

 前田は食パンを持つ手を止めて俺へ視線を向けた。俺は続ける。

「寝る前に深く考えてたことが夢に出やすいって話してただろ。それでここ最近はどうだったか考えてみたんだ。まあすぐには思い出せなかったんだけどな、そういえばずっと仕事のこと考えてたんだよ。それにな……」

 言い出すのに少し躊躇してカップから昇る湯気へ視線を落とす。牛乳をパックから少しだけカップに入れて、再び口を開いた。

「たぶん焦ってたんだろうな、俺は」

 あまり言いたくなかったことなので、前田に何か言われる前に急いで自分で言葉をつなげる。

「お前こないだ連載持つようになっただろ。でも俺はまだこれっぽっちも大きな仕事を任されたことなかったからな。そりゃあどの仕事も大事とか、一年の新人が何言ってんだとかいうのはわかるけど、たぶん焦ってたんだ。まあ死ぬ理由はわからんが焦った末のプチ絶望みたいなもんがあったのかもな。かわいいだろ」

 言い終えて自然な風を装ってカップを口へ運ぶ。一息ついて前田へ視線を向けると、前田もちょうどカップを口へ運んでいた。そして一口飲んでから口を開く。

「たぶんわからなかったから相手が黒いモヤみたいなぼやけたものだったり、死へとたどり着く手段が包丁とか飛び降りるとかいう単純なものになったんですよ。つまり悪夢の原因は山下さんの乏しい想像力にあるということです」

 そう言って笑みを浮かべた。

 やっぱり無神経だなあ、と思いながら俺はパンをかじった。


「さて、今日は僕忙しいのでそろそろ失礼しますね。ごちそうさまです」

 朝食をとり終えた前田が言った。

「ああ、忙しいなか悪かったな」

「いいですよ。これから鬼の夢がどうなったか教えてくださいね」

 俺は返事をして、前田が支度を済ませて部屋から出ていくのを見送った。

 振り返ると、あの仮面がテーブルに載せられたままになっていた。前田が忘れていったのだ。存在感が異質だから部屋には飾れないな、と思いながらテーブルの前に腰を下ろす。

 仮面の額を指でつんと突いて夢でのささやかな仕返しをしながら、さっきの前田との会話を思い出す。

 俺の焦りについて、「今はどうなんですか?」とは聞かれなかった。俺が昨夜も同じような夢を見たから、まだそう感じていると思ったのかもしれないし、あるいは経過良好とみられたのかもしれない。

「――あ、違うか」

 気づいたことがあり、俺は手を止めてから般若の面を手に持って立ち上がる。そのまま部屋中を見回して、壁についているハンガーフックを見つけるとそこへ向かう。

 壁に面をかけた。少し離れてそれを眺める。

 何の変哲もないワンルームではやはり異質な雰囲気があった。でも、インテリアにはならないかもしれないが、これは飾るべきだろう。良いイメージを持つ今ならなおさらだが、鬼は厄除けにもなると昔聞いたことがある。それと前田が好きらしい。

「災い転じて福となす」

 そう言ってなんとなく手を合わせて拝んでみた。言葉の意味は災難を活用するというものだが、昨夜この部屋に――俺の夢にやってきた鬼はそもそも悪いものではなかった。だからそうしていこうという決意表明だ。

 これからも拝むとすれば、前田には申し訳ないが返すわけにはいかない。そんなことを考えながら俺は目を開けて、テーブルの上を片付け始めた。

 俺が現状をどう感じているかについては、これから鬼の夢がどうなるかでわかる。ただ今は、前田の役に立つ報告ができそうもない予感が、眠るまで続きそうだ。

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鬼夢 向日葵椎 @hima_see

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