第3話 ラザニアとかぼちゃスープ
交渉は一瞬で成立した。料理が好きな友達が家で何か作ってくれるらしい、とざっくり説明すると諸手を挙げて歓迎してくれた。うちの母は胃袋をつつかれると単純である。
「じゃあ何かお礼も用意しなきゃいけないね。その子、ケーキとか好き?」
「あ、うん、食べると思う。あと、子じゃない。男子」
それを聴いて一瞬固まった母だったが、それでも話がとおったあたり、よっぽど私は色気のない娘だと思われているに違いない。
その週の金曜日、学校から一旦家に帰った聡は、四駅離れたところからわざわざやってきた。有名ケーキショップのプリンを片手に。甘苦いカラメルソースがおいしい、私も好きな一品だ。
最寄駅の改札から出てきた聡は、夏らしいプリントシャツとジーンズという格好だった。プレートのネックレスがおしゃれな男子に見せている。ふわふわのチュニックにショートパンツで来た自分が、デートに行く服装じみていて急に自殺したくなった。
「一旦家で冷蔵庫見せてもらってもいい? ある材料確認したいし、追加でスーパーに買いもの行くかどうか判断する」
「完全に主婦だね、男子中学生」
頭を人さし指で突かれた。おかしくって、声をあげて笑う。
駅から十分歩いたところにあるのが私の住むマンションだ。少し古いせいか見た目はアパートに近い。四年前まで兄がいたが大学進学と同時にひとり暮らしをはじめた。母子ふたりでは3LDKは広い。玄関をくぐると律儀に「お邪魔します」と言う彼を「誰もいないよ」と笑うことはできなかった。母はいつもどおり夕方に帰ってくる予定だ。
荷物をリヴィングに置いてもらい、麦茶を出して少し休憩する。だが聡は三十分もしないうちに、「食材の残り見せて」と言った。人の家で料理を振る舞うのがよほど楽しいのか、いつも無表情でいることが多いのに、今は優しい微笑を浮かべている。
冷蔵庫をふたりで確認していると、以前餃子を作ったときに余った餃子の皮がタッパーに入っていた。それを見て聡が「これって余ると肉なしワンタンにしかならないんだよなあ」とぶつくさ呟いた。
「肉なしワンタンって切なくないの」
「いや、実際、余って乾燥しちゃった餃子の皮をパキパキ割って野菜スープに入れたら、それっぽくなっておいしかったよ。でも、そうか、こんな中途半端な枚数だと、新たに餃子にするのもなあ」
「飽きてくるしね。餃子の皮、他に使い勝手があればいいんだけど」
聡は野菜室を見た。そして四分の一が余っていたかぼちゃ、キュウリ、レタス、プチトマト、ピザトースト用チーズ、食パン、牛乳パック、合挽き肉、そして野菜籠からタマネギとじゃがいもを出した。ホールトマトとホワイトソースの缶を見つけて、「ちょうどいいや」と聡が両方拝借する。どうやら残りものだけで作れる料理があるらしい。
手伝う、と私が宣言すると、聡はガスレンジの下からアルミ鍋を出しながら言う。
「これに水張って沸かす。そのあいだにジャガイモの皮を向いて適当な大きさに切って、やわらかくなるまで茹でる。できる?」
「皮むきぐらい」私は菜箸を入れている引き出しからピーラーを出した。「インコにもできるわい」
「できたら珍百景に投稿されてるよ……」
さすがに皮むきぐらいはすんなりできた。おっかなびっくりじゃがいもを切る私を、聡がタマネギを刻みつつ見ていてくれた。タタタタタ、と規則的に刻まれる包丁の音から彼の腕前がうかがえる。茹でたじゃがいもは説明された通りざるにあげ、熱いうちにフォークの背で荒く潰す。それを聡がフライパンで合挽き肉と一緒に炒め、そこにホールトマトを投入した。塩胡椒と少しのウスターソースを加え、木べらで優しく混ぜながら少しずつ潰していく。焼けたトマトの匂いが食欲をそそる。
「深めの耐熱皿出して。グラタンなんかに使うやつ」
私はよく母が使っている、幅十五センチほどの丸い皿を出した。じゃがいもと挽き肉のミートソースを、まず皿の底にとろっと流す。その上に缶のホワイトソースをスプーンでかけ、餃子の皮で蓋をするように乗せる。
「これをくりかえす。三人分ね」
「なんだかミルフィーユみたい。料理作ってる感じがしない」
「本当はホワイトソースもいちから作ったほうがいいんだろうけど、薄力粉とか牛乳とか材料混ぜるのめんどいし、失敗しやすくてさ」
そうして何層にも重ねてできた上にピザ用チーズを敷く。まだ、ただ餃子の皮を重ねたミートソースにしか見えないのに、おいしそうに見えてきた。完成図が予想できない。
聡は百七十度に余熱したオーブンに皿を放りこむ。焼けるのを待っている間にサラダを作ることになった。
「これは簡単だから四季に任せよう」
「え、じゃがいもの皮むきと切るだけでいっぱいいっぱいなのに」
「大丈夫、一瞬でできるし火も使わない。まずはトースターで食パン焼いて。あとレタスをもりもりちぎって、皿の底に敷きつめる。大きなサラダ皿ない?」
あるよ、と言って大きめのガラス皿を出してきた。言われた通り食パンをトースターにかけ、ちいさくちぎったレタスを皿にひたすら入れていく。その間に聡は切ったかぼちゃとタマネギを鍋で炒め、水とコンソメを加える。手際がよすぎて何がなんだか。
「レタスが終わりましたであります大佐!」私はびしっ、と敬礼する。
「うむ、ならばキュウリを薄めの輪切り、プチトマトを四等分し、レタスの上に盛れ」
「ま、ままま待って、具体的にどうやるの」
「ほんとに初心者なんだなあ」聡が今日はじめて、声をあげて笑った。「ちょっとずつでいいから、洗ったキュウリを薄く斜めに切るだけ。トマトは十字に切れば失敗しない。見てるから、やってみ?」
そう言いながら手元はスープをぐるぐるかき混ぜている。先生が見てるから大丈夫、と思いおそるおそる、四秒に一回の割合でキュウリを切った。最初こそそんなペースだったが、慣れてくると一秒に一回になった。そうして時間をかけて切った、大きさも厚さもまばらなキュウリをまな板の隅によけ、プチトマトを切る。こちらは簡単だった。その間に聡はスープを網で裏ごしし、塩コショウをして火を止め、牛乳を加える。小皿に少しとって味見をすると、彼は満足したように軽くうなずいた。口元がうっすら微笑んでいた。
切ったキュウリとプチトマトをレタスの山へ放りこむと、食パンが焼けた。ここからは手があいた聡がやることになった。パンを耳ごとちいさい四角形に切る。それもサラダの上に散らした。どうやらクルトンの代わりのようだ。その上から黒コショウをふる。
粗熱が取れたかぼちゃスープは、氷を浮かべたボウルに鍋ごと浸けて急速に冷やす。
「とりあえず、オーブンが終わるまで待つ」
「うわ、一時間以内に終わっちゃった」私は時計を見た。六時を過ぎている。
「四季が手伝ってくれたから早かったよ」
「なんだかんだ言いながら料理できるんじゃん、聡って」
「それは食べてから言ってよ。味も問題なくて『料理ができる』って言えるんだから。今日のラインナップは俺が好きなものってだけでジャンルに統一性ないし、自己流アレンジしてるから、気にいってもらえるかどうか」
「クラスメイトに作ってもらった料理なんて、おいしいに決まってるよ」
聡は笑って、私の頭を小突く。「早く食べたくてしょうがないってのが見えるよ」
子どもみたい。そう自覚すると急に自分が情けなく思えてきて、それを隠すために彼の脇腹にパンチを入れた。「いって」とうめく聡。
家庭科の実習みたいな雰囲気だった。友達と一緒に料理をするなんて考えもしなかったが、楽しいもんだな、と思う。
「四季、思ってた以上に料理の素質あるのかもね。初めてなのに上手だった」
「そう? ありがとー。ちょっと色々やってみようかな。お味噌汁からでも」
聡がククッと喉だけで笑った。
「謙遜しないね」
「して欲しい?」
「ぜんぜん。そのほうがいいぐらい」
私はわざとらしく胸を反らす。
「私ね、ぜんぶじゃないけど、基本的に褒められたら謙遜しないことにしてるの。人の短所を探して馬鹿にして笑う人ばかりの世の中で、せっかく私の長所を見つけてくれたんだから、『そんなことないよ』って連呼してると逆に失礼じゃない? 謙遜しすぎるとむしろ嫌味っぽい」
「でも、ぜんぶじゃないんだ?」
「そりゃそうだ。私が褒められて『そんなことないよ』って言うときは、本当にそう思ってないの。そのときはちゃんと理由を説明して、『褒めてくれて嬉しいけど、実際はそうじゃないんだ、ごめんね』って言うよ。それで納得してくれるし」
「なるほど、俺も今すごい勢いで納得した。そういう考えかた、俺も取り入れようかな」
聡はうなずいたが、実際、分かってもらえない人が多い。褒められて、腹の中で『当たり前じゃん』と思っていても口では笑って謙遜する、そんな女子のやりとりに心底嫌気がさしていた。同調して彼女らと同じスタイルでいればもう少し友達も多かったかも知れないが、まさかできるはずもなく、今のいじめられるポジションにおさまっている。
まさしく「自己中で調子こいてる中野四季」ってか……反論できない。
レンジの残り時間表示をじっと見つめながら、チーズの匂いにそそられるまま今か今かと待っていると、母が帰ってきた。「ただいまー」という間延びした声にびくりと反応したのは私だけで、聡は落ちついて「お邪魔してます」と律儀に頭をさげてリヴィングで母を出迎えた。どんなイメージをしていたのか、そんな礼儀正しくてそこそこイケメンな彼を見て「わあわあうちの娘がお世話になって、ありがとうね」とはしゃぐ母。どうせ地味な草食系男子でも想像していたのだろう。
「台所のもの、いろいろ使わせてもらいました。あと五分ぐらいでぜんぶできるので」
「何それ、ちょっと、執事さんみたい。お金払ってもいいと思うんだけど。ジャニーズみたいな見た目してて、実はコスプレした男装のおばちゃんじゃないの。宝塚みたいな」
母はいつでもこんなテンションである。
レンジから出てきたのは、グラタンのような何かだった。トマトとチーズの匂いがありったけの生唾を絞り出す。ごはんと、冷やしたかぼちゃスープと、オリーブオイルと塩胡椒をかけたサラダを食卓に並べると、男子中学生が用意した夕食には見えない。
「グラタンじゃないの、これ」
私は焼けたチーズが挑発しつづける皿を指さす。
「違う、ラザニア。餃子の皮が余ったときのうちの定番」
「あ、そっか、余らせてたもんね」母がうきうきでお客さん用の箸を準備しながら言う。「凄いなあ、餃子の皮、そんな使い方あるんだ。ネットで調べればよかったな」
「あと、デザートにプリン買ってきたので」
「あららら、あたしもケーキ買ってきちゃった。ごめんねえ、今度は手ぶらできてね」
もう今度が約束されている。聡はすっかり気に入られてしまったらしい。主婦同士のような母と聡の会話を横目に私は麦茶をついだコップをランチョンマットの脇に置いた。
聡に言われたわけでもないのに、普段言わないいただきますを今日はきちんと手を合わせて言っている母。私と聡もつづける。もう習慣になってしまった。
「へえ、あれがこんな味になるんだ……」
ラザニアをひとくち食べて、私は感嘆の声を漏らした。見た目のイメージはグラタンに近いが、味はむしろピザだ。チーズがにゅーっと伸びて、おもしろいし、おいしい。
「けっこうガッツリ系だね」
「チーズだから腹もちいいし、体育あった日とかはじゅうぶん満足する」
「おばちゃんはコレステロールが気になるわ」母はそう言いながらもビールを片手にどんどん食べている。駄目な大人だ。
「でもたまにはいいね、お酒のあてに」
「お母さん、友達の前で堂々と普段の素、晒さないでよ恥ずかしい」
「逆に娘の友達の前で小綺麗なお母さんやってるあたし、見たい?」
……それは見たくない。
聡はサラダを小皿にとって食べると、「うん」とうなずいた。
「おいしい。ちゃんとキュウリ切れてる。食べれるものになってる」
「なんか言いましたか大塚氏」
「あ、これ、四季が作ったの?」母はサラダをシャクシャク食べながら言った。「おいしい。ドレッシングよりオリーブオイルがいいね。野菜そのものの味が生きてる」
サラダは確かにおいしかった。レタスのシャキッとした触感にトマトが絡み、そこに食パンの優しい風合いが加わって絶品だった。
「けっこう手伝ってもらいましたよ。気合い十分だったし、指も切ることなく」
「四季、男の子に料理でボロクソに負けて、あんた女子としてのプライドはないの」
「娘をボロクソにけなして、あんた母親としてのプライドはないのか」
「どっちが嫁だか分からないわね。夫婦漫才やったら? コンビ名はサトシキで」
「うわ、サトシキて! 微妙にセンスいいのが腹立つ!」
食卓に笑いが起こる。テレビで見る「温かな家族の風景」っぽくて、なんだか楽しい。
母は聡を聞き苦しいぐらいにほめちぎった。だけどそれが少し誇らしくて、私はごはんを食べながら少しずつ、聡といつも一緒にお昼を食べていることや、寄り道をしていることなどを話していた。今の中学で嫌がらせをされていることは母には話していない。だけど、聡が友達だということは、とにかく誇らしいことだった。
ケーキを食べて、プリンも食べて。がっつり膨れたお腹と甘いデザートの猛追。しあわせだった。聡がいなかったらリヴィングの床にごろんと転がっていた。
おなかがふわふわしてあたたかい。誰かと一緒に料理をしてできたおいしいものをおなかいっぱい食べると、身体があたたまる。ずっと欲しかった服を買ってベッドの上にひろげたりするときと、同じような気分だった。
自分が震える手で包丁を持って、やりなれない料理をしたことをひとつひとつ思い出して、その結集体があのおいしいラザニアやサラダだったのだと思えば、いただきますやごちそうさまは自然と口をついて出る。
あれだけのことを毎日文句も言わずにしている母に敬意を表したくなる。母って偉大だ、と思った。ああ見えても。
部屋で少し遊んで行こうと誘ったが、聡は九時になると家を出た。母からもらったお菓子の詰め合わせを手にさげて。
駅まで送ると、聡は「どうだった?」と訊いた。
「おいしかった。あんなに料理したの初めてだったし」
「料理って楽しいでしょ。自分の手でちょっとずつ出来あがっていくのってさ」
「食べたいときに好物が作れるようになったらいいだろうね。ちょっと勉強しなきゃ」
「うん、よかった」聡は羽のように笑った。かつては珍しかったけど、今はもう慣れてしまった笑顔。「おなかいっぱいで幸せそうなのが、分かるよ」
「それも超能力?」
「ううん、顔を見れば分かる」
とっさに頬に手をやった私を指さして笑う聡。そんなに私、ニヤけてたかな。
彼は紙袋を持っていないほうの手をふって「おばさんによろしく」と言う。改札を抜けたあと、もう一度ふりかえって手をふる彼に、私はちいさくバイバイをかえした。おなかいっぱいで幸せそうに笑う人。包丁を強くにぎりすぎて疲れた手の痛みなど吹っ飛んだ。
明日から晩御飯作りを手伝おう。恥ずかしながら私はようやくそう思った。
あんなにおいしいものが作れるなら。
* * *
佳山たちの幼稚な嫌がらせからお弁当を死守しなければならないのはいつものことだけど、警備の状況が少し変わった。
まず、鞄にお弁当箱を直接入れず、ランチトートを持つことにした。ファッション雑誌の付録についていた、花柄のかわいいトートバッグだ。そしてそれを移動教室のとき、教科書や筆記用具と一緒に持ち歩く。移動教室用のちいさなトートバッグを持っている女子は何人かいて、それに便乗することにした。中身の正体はしばらくして佳山にも知られたようだけど、おかげでお弁当への直接攻撃はいっさいなくなった。他のこまごまとした嫌がらせは減らないけど、お弁当をやられる打撃よりずっとマシだ。体育などどうしても手放さなきゃいけないときは、聡が自分の鞄にトートを入れさせてくれた。
ちなみに、発案者は聡である。
「ちょっと面倒だけど、金魚みたいなことがまたあったら俺も嫌だし」
しかし、おかげで中身を心配することなくお昼休憩に挑むことができるので、その安心感が得られただけでもかなり心に余裕ができる。ピリピリして落ちつきがない生活は、冷静な考えも、ちいさな幸せを感じられる隙間も奪ってしまう。
私と聡は、変わらなかった。あれから何度か、聡は父親がいない日にうちに遊びにきて、料理をふるまってくれた。悪いよと親子で言ったが、ひとりで作って食べるより楽しいから、と、ひとりぶんの料理を作るのは意外と難しい、とふたつの理由を並べた。本人がけっこう楽しそうなのでそれ以来、遠慮していない。
二度目に作ったのは、以前聡が話していた鶏肉のケチャップソース焼きだった。そのほかに粉チーズをたっぷりかけたナポリタンや、マヨネーズとヨーグルトと酢で野菜を和えたロシア風サラダ、厚揚げと大根の優しい味がする煮物、きゅうりとわかめとちりめんじゃこの酢の物。それに、辛く味つけしたマッシュドポテトを生地で包んで油で揚げたサモサなど、見たこともない料理も作ってくれた。味も見た目も想像できなかった、炊飯器のシンガポール・チキンライスも作った。
いちばんおいしかったのは、ごはんに乗せたハンバーグにマスタードが効いたグレイビーソースをかけ、さらに目玉焼きを乗せたロコモコだった。好きなお菓子を好きなだけグラスに詰めこみ、湯煎で溶かしたチョコを上からかけるというなんとも豪快なデザートも食べた。
手伝いを拒否されなかったことが嬉しかった。できることからはじめ、包丁の持ちかたを習い、少しずつ難しいことを教えてくれる。そうして上達してゆくなかで、聡はひとつひとつ褒めてくれた。
母も「ようやく女子になったか」と遠回しに褒めてくれるので、憎さあまって嬉しさ何倍か。母の手伝いもするようになったので、以前よりはずっと料理ができるようになった気がする。昨日も晩御飯の肉じゃがを手伝った。野菜を切ったり、鍋を見はったりという程度だったけれど、それでも楽しかった。家族の食べるものを一緒に作ることは、みんなの「おいしい」の言葉を作り、共有することなんだ。
佳山はあいかわらず、私たちふたりが話をしているのが気に食わないらしく、影で文句を言っている。料理なんてしたことがないと、以前彼女は友達に笑って話していた。それ自体は恥ずかしいことじゃないけど、そのくせ男子の前では「お料理大好き!」とうそぶいているので女は怖い。そんな彼女に、お母さんの料理を潰されたくない。
「正直、自分も悪いとこあったなって思うけど、無理して佳山さんみたいな子に好かれようとは思わないし、ああいう人は自分でも好きになれない」
聡と一緒にいるときにぼそっと漏らしたことがあった。聡は「毒舌だけど正直だなあ」と言った。眉間に皺が寄っている。私は見ないふりをした。
昼休みになると、いつものように時間差で教室を出る。先に出て行った聡は今ごろ、美術準備室で待っているはずだ。お弁当のトートをかかえて、ひと気のない第二教室棟の階段をゆっくりとあがってゆく。まだ寒くはないが、ひんやりとした空気の予兆は、古い石造りの階段をコツコツとあがるあいだに感じられた。秋が近いかな、とぼんやり思いながら、踊り場をまわり、階段を五段ほどあがったときだった。
突然、背後から服を強くひっぱられた。両手にお弁当のトートを持っていた私はそのまま後ろにひっくり返る。階段で背中を強く打ち、そのまま滑り落ちて踊り場の床に頭をぶつけた。床の上で二回転した身体はあちこちを打ち、激痛が走る。トートのお弁当箱がガランと高い音を立てて落ちた。階段を駆け上がる複数の足音とちいさな笑い声が遠ざかり、ああ、やられた、と思った。背骨を打ったのか、身体がうまく曲がらない。踊り場にうつぶせになったまま、私は痛みがひくのを待った。
最上段から落とせば命にかかわる。警察沙汰になる。それを回避するために低い場所から落としたのだ。だから血が出るほど怪我はしていないし、意識もある。足音と笑い声がいつまでも頭の中でリフレインする。
ふいに泣きたくなった。冷たい床に頬をつけて、誰も見ていないからいいやと、涙をこぼした。しゃくりあげると、背中が痛んだ。いっそ、もっと高いところから落としてくれ、と思った。死んだらみじめじゃなくなるから。
ああ、でもそれは駄目だ、とすぐに考えなおす。聡が待ってるから。
私は痛みを我慢して上半身を起こし、トートから飛び出して転がったお弁当箱を拾い上げた。トートにそれをしまいなおすと、手すりにつかみながら立ちあがり、また階段をあがっていった。今度は背後を確認しながら。
準備室に入る前、私は目元をこすって涙の跡を消した。ドアをあけると、椅子に座って文学少年然として文庫本を読んでいた聡が顔をあげた。
「遅かったね」学校ではあいかわらず無表情だ。「あと二十五分しかないよ、食べよう」
うん、と曖昧に答えて私はいつもどおり彼の正面に座った。トートからお弁当を出す。中身は漏れていない。大丈夫かな、と思いながらふたり揃って「いただきます」を言う。
だけど、嫌な予感というものに限って当たるものだ、と先人が言った。
お弁当箱をあけると、どろっとしたものが蓋の裏側を伝った。私はすぐに蓋をしめた。
聡が購買のパンにかぶりつこうとしてあけた口を閉じ、どうしたの、と言った。
「ううん、なんでもない」
笑うでもなく、機械がしゃべるようにそう言うと、聡が眉をひそめて「嘘」と言う。
「何かあったんだろ。また、弁当に何かされたのか」
「ち、違うのっ。お弁当じゃなくて……」
聡は立ちあがって私の手を剥がし、お弁当箱をあけた。昨日の晩御飯で余った肉じゃがに卵を入れてリメイクした、お母さんの、いつもの手作り弁当。カップに入ったそれがはみ出し、他の野菜やソーセージにかかっていた。ぐちゃぐちゃだ。
私は肩をこわばらせた。呆然と料理を見ている聡の目が、徐々に細められていく。無表情で無口で、比較的冷静な聡が、かかえきれない怒りを孕んでいることが分かる。
「誰がやったの」
冷たく鋭い声。それは独り言のようにも聴こえた。私はふるふると首を振った。
「四季、お弁当箱は絶対水平にして持ってくるよね」
大事そうに、と最後につぶやく聡。
呆れたような彼の声。私はうつむいたまま、箸箱をあけた。
「違うの」
きちんと箸を持って、ぐちゃぐちゃになったお弁当箱を左手でつかむ。
「落とされたの」
「弁当箱を?」
「違う、私が」
――階段から。
逃れられない気がして、ほんの少しすがりつきたくて、そう言った。ほとんどささやくような声だった。いたずらをした子どもが言いわけをするように。
しかし、言葉足らずだった。聡はぎりっと歯ぎしりをした。
「先に食べてて」
そう言って走りだそうとする聡の腕を、私は彼が倒れるほど強くつかんだ。
「だめだよ、誰がやったのかも分からないし!」
「佳山さんか、彼女と一緒にいる子の誰かだろ。傍観者の女子たちがそんな危険なことするとは思えないし、直接話をしてくる。別に殴りこみに行かないから」
「もうそれがすでに殴りこみと同等のことしてる、か、らっ……」
言葉は途中で途切れ、私はその場に固まった。聡を止めようと浮かせた腰に激痛が走る。力を入れると、全身の血管の中を鉄球が巡っているみたいに痛い。痛みが増す。目尻に涙を溜めて痛みに耐える私の前に、聡がしゃがみこんだ。
「どうしたの、痛む? 保健室行こうか?」
「大丈夫……落とされたって言っても、すごく低い場所からだから。背中を打っただけ。平気。だから……そんなに強く責めないで。大げさに騒ぎたくない……お願い」
この美術準備室から二度と出られなくなってしまうから。
痛みが治まるまでじっと耐え、やがて机に手をついて上半身を起こす私の腰を、聡が支えてくれた。背骨に体重がかかりにくくなったぶん、かなり楽だった。
「とりあえず、椅子に座ろう」
聡がちいさな声で言った。「ごはんを食べたら椅子を並べるから、そこに寝て。できるだけ横になったほうがいい。もしそれでも痛みがひかなかったら、保健室でベッドを借りよう」
そう言って聡はお弁当を風呂敷の上に並べなおした。箸をとって持たせてくれる。聡は購買のパンをひきよせ、私の隣に座った。そして、静かな昼食が再開された。
油絵の具の匂いにつつまれて食べる、ぐちゃぐちゃのお弁当。朝起きたら母が作ってくれていた。寝坊したからごめんね、と言って、昨日の肉じゃがをリメイクしてくれた。きっと、朝の時点ではとても綺麗に並べられていたのだろう。
やわらかい卵があふれて混ざったおかずの上に、ぼたぼたと涙が落ちた。
それでも私は食べた。ぜんぶ、食べた。ひとくちずつ、いつくしむように。昨日、お母さんと一緒に作った肉じゃが。かわいくなっちゃって、と笑われた。小皿にお玉で出汁をすくい、味見してみて、と手渡された。醤油と砂糖が優しい対比で合わさった、中野家の味。私のお母さんが、おばあちゃんから教えてもらった味。
守りたいものって、どうしてこんなにちいさくて、耐えられないほどいとおしいんだろう……。
聡に直接涙を見せるのはこれが初めてだった。から揚げ弁当のときは感づかれただけに終わったが、今はぜんぶ見られた。みっともなくしゃくりあげて、その拍子に背中が痛んで。聡は私の腰をさすったり、手を伸ばして涙を拭ったりしてくれた。
食べきったお弁当箱をとじて、ていねいに風呂敷に包む。手を合わせて、ふたりそろって「ごちそうさま」と言う。例えどんなに嫌悪されたって、見えないことになったって、このお弁当はごちそうだった。そう思わせる挨拶の言葉だった。
私は大丈夫。痛みの中で何度でもこのぬくもりを思い出すなら大丈夫じゃないかと、証左もないのに信じきっていた。そのときになってまた涙するのだとしても。
聡は「ちょっと待ってて」と言って出て行った。五分ほどで戻ってきた彼の手には、中庭の自動販売機で売られているフルーツオレがにぎられていた。それは確かに、私が泣きながら、また飲みたいと思っていたものだった。聡の超能力の前ではその漠然とした私の想いも筒抜けだったらしい。
聡はまた、お金を断固として受けとらなかった。この調子だと卒業までにいくら奢ってもらうことになるのだろう。だが延々と攻防をくりかえすのもレジ前のおばちゃんのようだったので、しかたなく私はパックにストローを差して飲んだ。でろ甘で、だけど優しく染みわたる甘さで、その味に驚き、そして恐れた。
……甘いものって、人を落ちつかせるんだなあ。
自分用のコーヒー牛乳のパックをあけながら、聡が「四季」と言う。
「うちにおいでよ」
「え?」
私は捨て猫か。
「あ、ごめん、言葉が足りなすぎた。うちに、ごはんを食べにおいで。一緒に作ろう。レシピを調べてあげるから、食べたいものを考えといて。俺の家で、食べたいものを」
聡はそう言って、優しく笑った。私のよく知っているその頬笑みが、私の中で絵の具のように溶けてあざやかに広がる。あたたかい風が、あけはなした窓から入ってきた。
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