第2話 餃子とコーヒー牛乳

 いじめられている、なんて思っていない。あえて言うなら嫌がらせか、いびりか、単なる悪ふざけの行き過ぎた版。

 毒舌の私が極端ながらも選んだ道が、黙る、ということだったが、これが結構難しい。ようは何を言われようが挑発されようが馬鹿にされようが黙っていれば飽きてくれる、という作戦だ。よく言われているいじめ対処法のひとつ。

 よし、その作戦で行こう、うん。総員、戦闘配置につけ! そんなテンションで学校に来たはいいが、やっぱりギャル系の女子たちにいびられるのは変わらない。私のテンションごときで変わらない。あいかわらず机にゴミは入ってるわ、椅子に両面テープがついてるわ、体育の間に制服の中につぶれた虫を大量に入れられるわ、私の名前が書かれた生理用ナプキンが机の上に山と積まれるわ、鞄がないと思って窓からグラウンドをのぞきこんだら階下の植え込みに落っこちてるわ、その衝撃で電子辞書の画面が割れるわ、挙句の果てに私がトイレの個室に入っていたら上から大量の酢が投げこまれるわ、

 ――変わらない。

 酢まみれで、鼻と目が痛くなる。匂いに耐えながら、私はむしろ黙るのが駄目だったのかとぼんやり考えた。教室に戻ると、酢でずぶぬれの私に全員の視線が集中する。一瞬で消えた笑い声。その代わりにささやき声。恐れの声。もう何が何だか。雑音だ、どれもこれも。私は重油を持ってきて全員の頭にぶちまけてやりたい気分だった。泣きたくは、なぜかならない。ただ怒っていた。折れるほど歯を食いしばった。ここにいる全員を、かたっぱしからぶん殴ってやりたかった。そうすれば私の中にかろうじて残っていた良心や、世間の聖人君子からさしのべられる救いの手が、罪の前に淘汰される。どうせ傷つくなら徹底的に、心を失うほどがいい。下手に何かを願ったり求めたりする純粋さが残っていれば、暴虐の中にも希望を求めてずるずる生きてしまう。

 酢臭いままジャージと鞄を持って教室を出る。一瞬、こちらを振り向いている聡と目があった気がした。だけど、すぐにそらした。でっかい酢飯の塊に足が生えて歩いているような私を、なんとかして消してくれ、自称超能力者。

 不慣れすぎてすわりが悪い。逃げ腰の心と求める指先。自分の名前も忘れそうになる。



 ここで出て行けば面白いことになるのは、経験上知っているけれど。

「まあ、あんな程度で勘違いはしないでしょ。聡ってみんなに優しいし、四季って意外と鈍そうだし」

 でも、面白いのは一瞬だけで、あとはややこしい空気と事態の悪化が待っているのも、経験上知っている。

 下品な笑い声をあげて、甘いリップの匂いをただよわせて、洗面所を占領し悪口に花を咲かせる女子一同。私は個室から出るに出られず、蓋をおろした便器の上に座っていた。

 まだまだ延々と絶えることなくつづけられる悪口、陰口、罵倒の数々。正直飽きてきた。最初は自分の悪口をトイレで言われていることに傷つき、出ることを恐れた。かといっていつまでも便器に座ってそれを聴いていることも苦痛だった。だけど今はもう「分かった、分かったから」という気分だ。トイレで悪口をかます女子は、個室に当人がいる可能性を考えないのだろうか。

 酢ぶっかけ事件からしばらく経ったが、今でも個室に入るのは怖い。けれど入らざるを得ないのっぴきならない事情もあるもので。だけど以前、そのまま泣いて帰るものだと思われていたらしい私が酢まみれで教室に現れたことに、いじめの主犯グループたちは意表を突かれたらしい。クラス全員が、私がいじめの標的にされていることを知り、あるいは改めて痛感しただろう。今は誰もが黙っているが教職員への内部告発を恐れているのか、みんなに見えてしまう危険がある分かりやすい嫌がらせはなくなった。

「聡はさ、ぼーっとしてるから、自分のやってることもよく分かってないままなんだと思うよ。だって、そうでもなきゃあの四季に話しかけようと思わなくない?」

「てか、四季キモい。優たちにあんだけのことされて平気でいるの、逆に凄い。酢ぶっかけられたとき、クラスで見せびらかして、黙って早退したじゃん。根性すわってるわ」

「神経図太いんだよ。反論しないでいじめられる側に徹するのって、単に有利な被害者立場を崩したくないだけじゃないの」

「そんなのと一緒にいて、聡も嫌にならないのかな」

「まあいつか飽きるでしょ。もし本気で聡に近づいたら、優がその前にボコるし」

 優、とは私に嫌がらせをしている主犯格の佳山優のことだろう。派手で明るく、目立ち、頭もよく、美人だ。見た目がギャル系なので同じギャルしか周りにいない。友達には信頼されいつも一緒にいるが、地味な女子からは触れぬ祟り神扱い。ようはどこにでもいる、弱い者を見下して自己満足に浸る、卑屈な、しかし下手に頭のいい十代だ。

 しばらくしてチャイムが鳴り、女子たちが教室へ戻る。耳をすませて誰もいないことを確認し、そっとトイレを出た。無意識にため息をつく。

 騒々しい教室へ戻ると、先生はまだ来ていなかった。席につくまでの数秒間に、佳山優と、自称超能力者の大塚聡、それぞれの視線を感じた。胡乱なことが起こる気配は、していた。だから黙っていようと思ったのに。

 昼休みになると、聡を含めた五人ほどの男子グループが購買のパンを求め、騒ぎながら一斉に席を立った。走って教室を出て行こうとする中、聡だけがふと気づいたようにこちらを見る。そして、お弁当をひろげんとしていた私の横をさりげなく通るふりをして、膝に何かを落としていった。

 それは、ちいさくちいさくたたまれたルーズリーフの切れ端だった。

 総員、チキンタツタパンを購買より救出せよ! そんなことを叫んで駆けだしてゆく男子たちの背中を追いかける聡。この紙の正体をたずねる間もなく。呼び止めようとしたが、やめた。何がしたいのか分からない自称エスパーからの手紙を、机の下でそっとひらく。

 トメハネハライがきちんとしているけれど、綺麗すぎずやわらかい字。

『十分後、美術準備室に来てください』


 抗議のつもりで十五分後にドアをあけた。

「先食べちゃうとこだったよ」

 長身で黒髪の自称超能力少年は、はたして美術準備室の汚れた椅子に座っていた。戦利品らしいチキンタツタパンとサンドイッチと焼きおにぎりとコーヒー牛乳のパックをテーブルの上に並べている。

「なんでここに入れるの」

「美術部員。幽霊だけどね。疑いの目を向けられることなく鍵を借りられる」

 積みあがったイーゼル、カラフルなガラス瓶、乱雑に立てられたパレット、石膏像。そして独特の油絵の具の匂い。私は、あんまりごはんを食べるところじゃないな、と思いながら聡の正面に座った。机にお弁当を置く。

「あと三十分で昼休みが終わる」

「うん、まずは、いただきますしようか」

 そう言って彼はぱちんと手を合わせた。私もつられて同じことをする。目線だけで合図をし、揃って「いただきます」と言った。ぴったりだった。それが少し嬉しくて、聡と面向かって笑いあった。

 お弁当をひろげながら、ここに呼んだ理由をたずねる。

「なんでまた十分後に」

「中野さん、佳山さんたちに嫌がらせされてるでしょ」

 言葉に詰まった。箸が止まる。酢まみれ事件ですっかり知れ渡ったことは分かっていたが、いざ本人の口から聴くと複雑な気分だ。

「朝、佳山さんとしゃべってたんだ。そしたら『最近四季によく話しかけるよね、話題ある?』って冗談みたいに言われて。冗談かなって思ったんだけど、彼女が中野さんの机に落書きしてるの見かけちゃって、ああ彼女は中野さんが嫌いなんだな、俺は牽制されてるんだなあって思って」

「牽制って言うんですかそれ」

「少女漫画の読み過ぎだよ、あの子たち」

 でも実際にあるもんなんだなあ、と言いながら聡はチキンタツタパンの封をあけた。スパイシーな香りがツンと鼻を刺激し、食欲がそそられる。

「だから、もし俺と中野さんが昼休みに一緒に教室出るような構図を彼女たちに見せたら、いちばん迷惑かかるのは俺より君かなと思って。少女漫画的な展開にするならね」

「ちょっと、大塚くん」

「違う、別に同情とかじゃない。ただ、いじめられてなお金魚の死体をわざわざ木の下に埋めるような子、あまり現代社会にいないでしょ。珍しいし貴重だからさ、そういうの」

 私は驚いて腰を浮かせた。

「気づいてたの?」

「気づいてなかったよ、今想像で言ってる。あの金魚、お弁当の中に入れられたんでしょ、佳山さんたちに。保健室に行くとき、鞄も持ってたからおかしいと思ったんだ」

「当たってるからなんか腹立つ……」

「立たないで。大事なことだから二度言うけど、同情じゃないから、これは」

「自覚あるのかどうか知らないから口に出して言うけど、大塚くん、女子からそこそこ人気だよ。佳山さんもさ、嫌いな私が大塚くんみたいなちょっとしたイケメンとつるんでるから、何が中野の分際でって思ってるんだと思う。だから、こうして時間差で合流するのは正直ありがたいけど、私とかかわって、それで大塚くんに面倒なことさせたくないんだって……」

 なんか悲劇の主人公みたいなこと言ってるなあ、という自覚はあったが、あくまで本心だ。自分から助けを求めるならともかく、誰かが自分を助けようとしてくれるのはありがたい以上に申しわけない。それでその誰かが不必要な痛手を背負ったら、それを償うのは私だ、というエゴも混ざっている。大ごとになって下手に騒がれて、父兄や他クラスも巻きこむようなことになったらきっと今以上に環境が悪くなる。そこで残り二年半をすごすなんて毎日が葬式同然だ……。

「――まあ、深い意味はないんだけど」

 聡がコーヒー牛乳をすすって言った。「単に、一緒にごはん食べた仲だから、中野さんとは仲良くしたいっていうそれだけの話。みんなが嫌いな子だから俺も嫌いになろう、なんていう幼稚な理由で友達関係を取捨選択してる人間じゃないんだ」

「それで佳山さんにまた牽制されたら」

「それとこれとは別の話だよ。俺と中野さんが仲良くして、彼女の内部事情に意図的に踏みこんだわけでもないのに、どうして佳山さんが外野から牽制球投げて来るの」

 なんだかうまいこと屁理屈ではぐらかされているような気がするが、反論できない。

 諦めて私は浮かせた腰を椅子に落とした。そしてまた黙ってお弁当をつつく。今日のお弁当にから揚げはない。代わりに餃子が入っていた。これは昨日の夕飯の残りだ。中華料理が大好きな私は、それを最後に残して先に野菜をぱくぱく食べてゆく。

「そんなところまで分かっちゃうのも超能力?」

 少し小馬鹿にしたような言い方をしてしまったが、聡は気にした様子もなく、パンをくわえたままふるふると首をふる。

「信じてないでしょ、絶対」

「いくらSF小説を読んでるからって、百パーセントはちょっとね」

「数パーセントは信じてくれてるんだ」聡は笑ってコーヒー牛乳を飲んだ。「でも、人の心なんか読めないよ」

「超能力少年の話って、だいたい人の心が読めたり、ものを浮かせたり、死期が分かったり、似顔絵見ただけで犯人の居場所を当てたり、っていうものじゃないの?」

「だろうね。他の超能力者に会ったことがないから、分からないけど」

 どうやら本気で否定するつもりはないらしい。私はたった数パーセント残っていた、超能力を信じる気持ちが、私の中にある赤くてちいさな興奮をつついていることが分かった。それは確かに生き物のように躍動し、熱を孕み、身をよじる。ふるいたたせる。

「中野さん、好きな食べものは最後にとっておく派でしょ」

 聡は左手で私のお弁当箱を指さした。

「その餃子が食べたいけれど、最後の楽しみにしてるって感じ」

「それは人の心が読めるのとは違うの?」

 私はふてくされて顔をそらし、水筒のお茶をひとくち飲んだ。なんだか適当なことを言われている気がした。

「ちょっと違う」聡は無表情だった。「俺が分かるのは、その人の食べたいものだけ」

 嫌な静けさが美術準備室を覆った。外ではしゃぐ男子生徒の声がことさらに大きく聴こえたが、それは単に私と聡が何も言わないからだった。黙ってチキンタツタパンを食べている聡と、数秒固まり、思い出したようにごはんをちょっとだけ食べる私。聡はパンのビニールを丸めると、私を正面から大真面目な顔で見た。

「信じる要素はあるでしょ」

 なんだか試されている気がした。

「俺がから揚げ弁当を買いに行ったのは、中野さんがおなかをすかせて、から揚げを惜しんでたから。フルーツオレも、そのとき中野さんが選んでたやつだったから」

 そうだ、それは、ただの偶然にしてはちょっと都合がよすぎる。

 私は何種類かおかずが残っているお弁当を指さした。

「この中で私が餃子をいちばん最後にとっておくつもりだったっていうのも、分かるんだ」

「そこまではっきりしてたら、結構ピンポイントで分かるよ。はっきりしてない、例えば『甘いものが食べたいなあ』っていうのも分かるんだけど、中野さんは具体的に餃子が食べたいって分かるし、それに一度も手をつけていないから、最後まで残す派かと」

「実際間違ってないんだけど」

「それはよかった」

 平然とコーヒー牛乳を飲む聡に、私は完全な懐疑の目を向けられなかった。

 超常現象、と無理に名前がついた捏造映像を垂れ流すばかりのテレビ番組は見ない。しかし現実として、テレビのこちら側で起こる人知を超えた現象を、私は全否定しない。だから宇宙人も呪いも幽霊も、多少は信じている。

 目の前の同級生に「これは超能力だ」と言われても、数パーセントは信じ、納得していた。それでから揚げ弁当だったのか、と。

 そして彼がそれを買ってきたことは、超能力でもなんでもない、純粋な、ただの彼が持っている優しさなんだと分かった。

「……ありがとう」

 反射的に言葉が出てきた。今度は聡が驚く番だ。切れ長の目が少し見ひらかれる。

「から揚げ弁当とフルーツオレ、くれたから」

「ああ、じゃあ信じてくれるんだね」

 やっぱり中野さんはそうだと思った、と聡は笑って言う。安心したように、笑う。

「ちょうど食べたいものや飲みたいものが目の前に出てきたら、嬉しいでしょ。そういうのが俺は好きなだけなんだ」

「じゃあ、お金を絶対に受けとらない『そうじゃないんだ』の内訳も」

「おなかが満足した人は、おなかが減ってる人よりも表情とか雰囲気が違う。それを見てるだけで嬉しいから」

 聡がチュゴゴと音を立ててコーヒー牛乳を飲みきる。そしてまたそのパックを馬鹿丁寧に折りたたみながら言った。

「空腹は、つらいよ。おなかが痛くなって、指に力が入らなくなるし、無意識に自分の好物を思い浮かべたりする。日本は飽食国家だから餓死者がそこらじゅうにいるわけじゃない。けど、おいしいものを食べる喜びを普段はあまり感じられなくても、おなかが減ってるときに料理を出されたら喜んでいいと思うんだ。きちんといただきますして、食べものにお礼を言って、残さず平らげる。それは絶対にいいことだし、人の心を優しくする」

「ものを浮かせるよりは便利そう……」

「自分の近しい人が、あれ食べたいなあって思ってるとき、それを食べに行こう買いに行こうって誘うぐらい。楽しいよ」

 纏う雰囲気なのか、人間性なのか、超能力などという現実離れしたを信じさせるだけの空気が今ここにあった。

 私は今、自分が彼を疑っていないことに気づく。疑って笑い飛ばすことは決して不可能ではないが、その末に残るものを私は直感的に知っている。それならば、信じていたい、と思う。聡ならその声にこたえてくれるかも知れない、と直感で思っていた。

 ――そこまでするほど私は飢えていたのか。

 この優しい空気が、そんなにも、空腹を思い出させるのか。

 冷たい杭を胸にスッと刺しこまれたようだった。俯いてお弁当を片づけ、立ちあがろうとすると、聡が言う。

「ごちそうさまは」

 だからあなたはお母さんですか。しかし聡はあの、男らしくないふわっとした微笑を浮かべているので、文句が言えなくなった。仕方なくふたりで手を合わせ、「ごちそうさまでした」と言う。まるで小学校の給食の時間だ。

 なんとなく、またすぐ立ちあがる気分になれずにいると、聡が話を総括した。

「俺が分かるのはその人が今食べたいものだけ。さっきも言ったように漠然とした内容から、具体的な料理名まで分かる。その人がおなかを減らしているのかそうじゃないのかも。他の人が同じことしてるのを見たことないから、これは超能力だと思ってる」

「じゃあ、私が今餃子も、お弁当のぜんぶを食べちゃったら」

「今の中野さんはおなかいっぱい。それしか分からない」

「どうやって見えるの。頭の上にポンッと吹きだしが出てくるみたいな感じ?」

「それは漫画の中の超能力者。目に見えるんじゃなくて……なんていうんだろ、俺の頭でイメージできるみたいな。正直、人の気持ちを頭の中で考えるのと同じだと思う」

 そういうもんなのか、と思った。漠然とした言い口を疑わず、そっかー超能力ってテレビでやってるみたいにド派手なわけじゃないんだねー、と考えていた。

 美術準備室のドアに手をかけようとした聡を、「ねえ」と呼びとめる。上半身だけでふりかえった彼の目に、長い前髪がかかっていた。

「やっぱり中野さんはそうだと思った、っていうのは、私が読書好きで、SFとかを真っ向から否定しなさそうな人だから?」

 聡は少し考え、それもあるけど、とちいさな声で言った。

「少なくとも、食べものを粗末にする佳山さんたちよりは、から揚げで嬉し涙流す子のほうがいいかなって」

 それを聴いて、自分の顔がかっと上気するのが分かった。あのとき、彼はずっとお茶を飲んで空ばかり見ていたから、てっきりばれてないものだと。

「見てたの?」

「見てない。でも、鼻すする音が聴こえたから」

 うわー恥ずかしい。子どもか私。

 ひとりでぐるぐる悶絶する私を見て、聡が声をあげて笑う。二度目だ、この声。私はその笑顔をにらみつけた。馬鹿にされているとは思わなかったが、単に恥ずかしかった。だけど、こんなふうに何度も楽しげに笑う彼を見るのは、初めてだった。それが嬉しくて、ついこちらも吹きだしてしまう。

 聡はまた優しい微笑に戻って、「大塚くんってのは」と言う。

「やめよう。俺の連れ、みんな聡って言うから。大塚くんとか、他人行儀っぽい」

「え、でも」私は照れを隠すように、首の後ろを掻いた。「女子が男子を名前呼びって」

「俺が名字は嫌って言ってるんだから、いいんじゃない。名前のほうが親近感あるから」

 それを聴いて、私は「じゃあ」と自分を指さした。

「私のことも四季で。春夏秋冬の四季だよ」

「四季。和風っぽいね、いい名前」

 そんなこと初めて言われた。名乗ると改めて変な名前だと思ったが、和風だと言われたのは彼が最初だった。

 戻ろうか、と言われて彼のあとにつづく。美術準備室を出ると、遠くから、現実に引き戻しにかかってくる他の生徒の騒ぎ声が聴こえた。ああ、またうるさい日常がはじまる。水が逆流するように、明るかった気分をまた暗い水底に叩き落とされる。私は背後の美術準備室をふりかえった。もう少し、あそこでごはんを食べていたかったな。いつまでも食べてるわけにはいかないけど……。

 私はくだんの、自称じゃなく、そこそこ信頼に足る超能力者の背中を、小走りに追いかけていった。突然ふり向いてこちらを見る聡に、少し驚く。彼は笑って、「ジュース買いに行こう」と言った。ふたたび歩きだした彼の歩く速さは、私と同じだった。


   * * *


 その日以来、私たちは急速に仲良くなった。

 時間差で美術準備室に入り、絵の具の匂いに囲まれて一緒に昼食をとる。最初は、いつもひとりでお弁当を食べていた私への同情かと思ったが、聡が毎日何かしら話題を持ってきて、私に意見を求め、楽しげに笑うところを見ると、そんな疑問を投げることはは自然と憚られた。「いつも一緒にいる友達はいいの」と訊くと、「誰かのひとり行動を気にするようなやつらじゃない」とかえってきた。

 数日後にはいつの間にか、一緒に下校するようになってしまった。駅前のショッピングビルに寄り道し、おいしいものを食べる。服を見る。映画にも行った。佳山さんたちのことを気にしてか、聡は教室ではあまり絡んでこない。私も、予防線として自分からは聡に話しかけない。しかし学校外ではメールも、電話もする。まだ、休日に会うことはなかったけど。

 人の食べたいものが分かるという聡の超能力の信頼性は、そんな交友関係の中で徐々に厚みが加わった。何度か「今焼き肉食べたいって思ったでしょ」などと言われ、さすがに信じざるを得なくなった。私が頭の中でハンバーグのことを考えながら「当ててみて」と胸を張ると、「あえて考えていることは分からない」と言われた。無意識が食欲としてハンバーグを求めているなら読めるが、心が読めるわけではないと。意識が自覚しているか否かは関係ないので、例え具体的なメニューが頭に浮かんでいなかったとしても無意識が求めている食べものが分かるらしい。

「なんか、で? っていう感じだね……」

 同じ実用性のなさで言ってもスプーン曲げたりするほうが超能力者としてもインパクトあるよ……。そう言うと聡は笑って「俺もそう思う」と言った。

「服もブラも透けて見える超能力だったらどんなによかったか……」

「おい貴様」

「冗談だよ。でも、前も言ったけど、相手が食べたいものが分かると、それを一緒に食べに行こうって言うだけで楽しくなるから」

 でもさ、と私は眉をひそめて言った。

「人の笑顔見てると嬉しいって言ってるけどさ、本質的にはそれ見てる自分がいい気分になるからやってるんじゃないの」

 言い終わって、あ、と思った。少し言いすぎた。仲良くなった友達相手にまで毒舌振るうか、私。謝ろうと思ったが、聡がきょとんとして「まあそうだけど」と言ったので椅子の上で尻がずずず、とすべる。

「認めやがった」

「認めるよ。だって実際そうでしょ。むしろ誰かを喜ばせて自分は無感動って人、珍しくない? まあ実際、から揚げ弁当の件は、おなかすかせてる四季さんを見てて自分がしんどいからああしたんだけど、基本的に『おいしい、嬉しい』って気持ちをひろげたいだけ」

「微妙に分かるような分からんような……」

「よく言うよね、親切にするのは結局自分が感謝されたいだけの自己満足だって。でもそれって違うよ。誰かに親切にされたから自分も親切にしてあげたい、のラリーがぐるぐる続くんだよ。その一部分の往復だけ切り取って『この優しさは一方的で偽善だ』ってのは違うと思う。誰かに優しくされて嬉しかったからその人は同じことをして、そしてその人に優しくされた人も同じようにする。これが延々と続く。だから俺は友達にごはんをおごったりしてあげたい。相手がそのお礼にって購買のパンをおごってくれたら嬉しいから、ありがとうって言ってまたごはんをおごる。だいたい、大事な人との関係ってこれの繰りかえしじゃない? 俺の場合、この超能力がそれをやりやすくしてるだけの話だよ」

 そういう意味では、普通の人間とは少し違うものや人の見方ができるのかも知れない。見かけが同じだとしても。

 いつのまにか「さん」「くん」も取れて、名前で呼びあう友達になった。友達と言うより……もう親友かも知れない。


 日常では。――そう、あくまで日々のささやかなできごととして。

 六時間目の最中、お弁当を消化しきって「なんか甘いもの食べたいなあ」と無意識に考えているところに飛んでくる聡からの「放課後にクレープを食べに行こう」というメールが、ひとつのきっかけだった。そのときに感じる自分の頬の熱もそうだった。

 友達と言える友達が聡ぐらいしかいなかった。小学校でもいじめられ、同じ公立校に全員で持ちあがりになるぐらいならとあえて大学付属の進学校を選んだが、結果は同じだった。心機一転、中学では目立って明るいグループに入るのだと思っていた矢先、クラウチング・スタートの瞬間にいきなり靴紐を踏んでころんだような気分は拭えない。

 だから、入学して半年、聡がこの葬式会場のような学校で私に友達として接してくれているのが、むずがゆくもあり、新鮮であり、同時に申しわけなかった。だからあるとき、お昼ごはんを一緒に食べながら、「私は聡の友達?」とたずねた。

 聡は購買の大きな焼きそばパンをもさもさ食べて言う。

「知人?」

「それは変だ」

 私は笑った。聡は「じゃあ友達だ」と言って、同じように笑った。

 今のうちは、それが何もかもの全てだった。余計な言葉であれこれと飾って青春っぽくすることはいくらでもできたが、それどころじゃないし、今は必要なかった。

 学校で、誰も来ない美術準備室で、友達と食べるお弁当。それは料亭で出るものに負けないほどおいしかった。聡は「いっこちょーだい」と言うが早いか私のお弁当からウィンナーをかっぱらって口に入れる。私は「じゃあそのコーヒー牛乳ひとくちちょーだい」と言って彼のパックからふたくちぶん飲む。私と聡は普通の中学生で、普通の少年少女でいられた。



「まあ、だいたいの基本的な料理なら作れないことはない。作るのは好きだし」

 うすらぼけーっとした回答がかえってきた。

 聡の得意料理は、ケチャップや醤油や酢やすりおろしたタマネギなどで作ったソースと、ぶつ切りにした鶏モモ肉をからめて焼く、彼いわく「鶏のケチャップソース焼き」らしい。なんだそれ! 聴いているだけで口に唾があふれてくるんだけど!

 学校帰りの喫茶店、私と聡は差し向かいで紅茶を飲みながら、このときはじめて料理談義をしていた。気がつけば九月も下旬に差しかかり、登下校中はワイシャツの上からニットを着るようになった。

 人の食べたいものが分かるからって料理ができるとは限らない。そんな私の思惑はものの二秒ほどで打ち破られた。料理男子、という言葉が頭に浮かぶ。

「うち、親が仕事で不在がちだから俺が料理すること多いよ。鶏モモなんて安いときはガツンと安いし、買い溜めすれば何にでも使える。安定いいよ」

「私、さっきのケチャップソースと焼くやつ、すっごく食べたい」

 うん、分かる、と言って聡は微笑んだ。それは同意するという意味ではなく、彼の場合、私が今それを食べたがっていることが分かるのだ。なんだか恥ずかしい超能力だな、とは思う。裸にされている気分だ。

「あと、定番だけどだし汁で野菜と煮込んで、卵でとじてごはんにかければ親子丼だし、コンソメとごはんと一緒に炊飯器で炊けばシンガポール・チキンライスになる」

「シンガポール? 炊飯器に入れるの?」

「超おいしいよ、中華風のタレをかけて食べるんだ。この時期、甘辛しょっぱい系の料理って骨身に沁みるよね」

「分かる分かる。シンプルにポン酢だけかけた生野菜とかでも、シャキシャキしてておいしい。これが冬になると、がっつり豚骨系とかのスープであったまりたいんだけど」

「まだ暑いから煮物でも汗かくし、冷うどんや焼きそばで一食すませちまうんだけどな」

「でも、たまにホクホクのカレーとかお好み焼きが食べたくなるんだよね、夏って」

 もうすぐ涼しくなるから冷たい系料理もギリギリかな、とつぶやくと、聡が目だけで私を見た。そして「じゃあ」と言った。

「ごはん、作ろうよ」

「え、いきなりどうしたの」

「四季、料理あんまりしないって前言ってたじゃん」

 確かにそうだ。うちは母子家庭で、夕方六時半ごろに仕事から帰ってくる母がそれからすぐ台所に入って料理をしているが、親不孝ながら一度も手伝ったことがない。中学生になったら、母の帰宅前に仕込みぐらいはできるようになりたいと思っていたが、その決意は半年経った今も決意のままだ。器具や食材がずらりと並んでいる台所が要塞か何かに見える。味噌汁の作りかたすら、正直細かいところがよく分かっていない。

「でも、私、ごはんしか炊けない」

 それを聴いて聡が笑った。「なんか簡単なもの考えとくから」

「でも、でも、どこで作るの?」

 そこまで言うとさすがに沈黙した。ひとり暮らしならまだしも、お互いにまだ中学生だ。俺の家に、と聡が言ったがさすがに抵抗があった。彼の親が不在がちならなおさらだ。

 だけど、料理はしたい。聡の作る料理を見たいし、食べたい。そう思っているとそれすら超能力の前には筒抜けだったのか、聡がくくっとおかしそうに笑う。

「もしよかったら」

 私は思いきって言った。「お母さんに話してみる」

 どうせ母子家庭だ。それに、料理のうまい友達が料理を作ってくれる、などと言えば大助かりだと喜ぶかも知れない。

 それを提案すると聡が「四季のお母さんが納得すれば」と言った。できるかも知れない。実現するかも知れない。そう考えると一気に気分が高まった。

 うっわー、何作ってもらおう。やっぱりハンバーグ? でもカレーもいいな。ナポリタンも食べたい。いや、さっきのケチャップソースの鶏肉のやつもおいしそう。麻婆豆腐とかの中華料理は作れるかな。小鉢がいっぱいあるようなあっさり和風はどうだろう。

 あれこれ考えていると、聡が耐えきれなかったように吹きだした。

「なんで笑うかな君ぃー」

「いや、だって、考えすぎ」

「わ、もしかしてぜんぶ見えてた?」

「すごいよ、パラパラ漫画みたいにぐるんぐるん色んな料理が出てきてたし。ハンバーグでしょ、カレーに、ナポリタンに……」

「うわやめてー! 私そんな大食いキャラじゃない!」

 ジタバタと悶絶すると、聡が珍しく目尻に涙を溜めるほど笑っていた。無口に見えて、楽しいことがあると素直に笑う人なんだなと思った。

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