馬鹿正直なチョコレート

真朝 一

第1話 から揚げとフルーツオレ

 生臭い匂いがすると思ったら、お弁当のおかずの上に金魚の死体が乗っていた。

 黒かったはずの眼球は白く、全身がいったん膨らませて空気を抜いた風船のように縮んでいる。口は半開き。私は思わずお弁当箱の蓋をしめた。だけどそのままにするわけにもいかず、もういちどひらく。やっぱり金魚はそこにいた。

 お昼休みで騒がしい教室は、パンを持ち寄ったりお弁当の包みをひらいたり、食堂につれだって行こうとする生徒でにぎわっていた。母が作ってくれたほうれん草のごま和えのカップと、鶏のから揚げと、卵焼き。それぞれの上に金魚がいた。おそるおそる指でおかずをどかすと、お弁当箱の底に水がたまっている。おそらく水槽の水ごと入れられたのだろう。おかずは全滅だ。

 移動教室の間を狙われたのか……迂闊だった。私は息を止めて、ごはんが入った下の段もあけてみる。こっちには何もいなかった。真っ白なご飯と梅干しが待機している。私は箸を取り出し、梅干しを割りながらごはんだけ食べた。おかずの段には蓋をして、匂いをシャットアウトして。

 男子はみんな食堂や購買に行ったのか、教室に残っている生徒は八割がたが女子だった。どこからか自分に向けられた笑い声が聴こえる気がして、実際気のせいなんだろうけど、私はそれを振り払うようにごはんをひたすらに食べた。私は無意識に視線を泳がせた。楽しそうにお弁当を食べる他の女子たちは、だけど誰も私を見ていなかった。安心できない。呼吸を忘れそうになる。

 臓腑が焼ける。お弁当を台無しにされたことも、このために死んだ金魚のことも、宙に浮いたそれらを追いかけているのは私だけなのだ。朝、「忘れてるよ」と言ってお弁当を手渡してくれた母の笑顔にいきなり靴跡をつけられたようで、箸を持つ手に力が入った。

 この教室は巨大な水槽だ。おおきな魚がちいさな魚を食らう。私は、それなりに育って金魚すくいに駆り出されるぐらいだったら食われたほうがましだ、と思いながらお弁当箱に残ったごはん粒を集めた。コツコツという箸の音は、静かな部屋で響く時計の秒針の音に近い。

 ごはんだけをすべて食べきって、私はお弁当箱をナプキンで包んだ。今度ははっきりと「ぜんぶ食べたのかな、四季」「気持ち悪い」という嘲りの声が聴こえた。右方向、教室の後ろのドアから。誰が言ったかなんて別にどうでもいい。その声が私の脳髄に染みわたって、水の中にぼちゃりと音を立てて落ちる前に、私はお弁当箱をさっさと鞄にしまいこんだ。夏休み中、お祭りですくってきた金魚なのかな、かわいそうに、と存外冷静にかんがえながら、机の脇に鞄をかけた。ずしりと重い、皮製のスクールバッグ。

「このためにわざわざ金魚捕まえて死なせたんだね。手間のかかるいじめだなあ」

 ぼそっとつぶやくと、相手に聴こえてしまったのか、どこからか「うっわあいつマジキモい」というささやき声が聴こえた。……キモくてじゅうぶんです。あんたが清いと言うなら世間のとなえる正しさはぜんぶ偽善だよ。

 中学生にもなって、子どもみたい。

 ごはんをひと粒残さず食べたはずなのに、妙な空腹感に吐きそうになった。梅干しのさっぱりした味がまだ口の中に残っている。病人食を食べたあとみたいだ、と思った。


 軽音部の調子っぱずれなエレキギターの音がずいぶんと長い時間、私の双肩にのしかかっていた。私は覚えたてだろうコードがくりかえし響く三号館一階の廊下を横ぎった。外庭へつづく開けっぱなしのドアをきっちりしめて、用務員のおじさんが出入りしているちいさな門から外へ出る。この学校の周囲は狭い道路で囲まれていて、南側には道路ひとつを挟んで少し大きめの児童公園がある。私はそこへ、少し早足に入っていった。

 砂場に落ちていたスコップを拝借し、滑り台の裏側にある大きな桜の木の根元を掘りはじめた。靴に砂がかかったけれど、掘ることに集中した。鞄が肩からずり落ちるので、一旦それをおろして、また無心で掘った。そして深さ十センチほどまでの穴を作ると、鞄からお弁当箱を出した。金魚の死体が乗っているおかずの段を揺すって、中身を穴の中に落とした。

 目の濁りがさらにひどくなっている気がする金魚の死体を、ぐちゃぐちゃになったおかずの上に三匹並べた。彼らもこんな嫌がらせのためにわざわざ金魚すくいでもらわれてきたとは思うまい。身体は少し乾きはじめていて、身体はくの字に曲がって固まっている。母が酒の肴にしている煮干しに似ていた。私は色とりどりのおかずの上に並べた金魚を前に、そっと手をあわせた。なんだか申しわけなかった。無意識に自分を責めたくなる。怒りも悔しさも無力さも、ぜんぶを丸めて腕の中で潰してしまいたかった。

 そのとき。

「それ、弁当?」

 突然背後から声がして、心臓が凍りついた。あわててふりかえると、背の高い男子がこちらを見おろしていた。同じ学校の制服だ。逆光で表情はうかがえないけれど、女子生徒がお弁当の中身を土に埋めて合掌している光景にいささか戸惑っていることは分かった。

 彼は私の隣にしゃがみ、穴をのぞきこんだ。ようやく見えたその横顔は、嫌に端正で、だけど眉に皺が刻まれている……台無しだ。

「弁当のおかずと金魚のお墓か……」

 そう言ったあと、なんでまた、と彼がつぶやく。私はふいと顔をそらした。

「痛んでたんだ。持って帰ったら……お母さんに怒られると思って」

「……金魚がいる理由が抜けてる」

 ほっといてくれればいいのに、と心の中で悪態をついた。単なるもの好きか、からかいのネタ探しなのか。

 ふと見やった彼の横顔は、少し無表情で、だけど無表情だと断言できるほどには無表情ではなかった。細められた切れ長の目。じっと金魚の死体を見つめ、そして私と同じように静かに手をあわせた。目を閉じて、二秒ほど。そして私を見て、「死んじゃったことは事実だね」と言う。

 彼の、カラスの羽根のような黒い髪が、風でふわりと揺れる。

「俺も、ちいさいころに金魚すくいの金魚を死なせちゃって、庭に埋めたことあるよ」

 私は、きちんと合掌していた彼の横顔がなんとなく頭から振り払えなくて、ふーん、と淡白にかえしながらも邪険にできなかった。掘りかえした土を黙っておかずと金魚の上にかける。彼も手伝ってくれた。最後にしっかり土を叩いて固める。まあ、人間の食べ物だけどこれをおなかいっぱい食べて元気出してね。私の大好物のから揚げなんだから心して残さず食べてよ。――そう心の中でつぶやいた。

 最後にもう一度手をあわせていると、彼は鞄を手に立ちあがった。

「ちょっと待ってて」

 え、何? と言うより早く彼が「そこでちゃんと待ってて」と念を押した。私の鼻先に指をつきつけて。そのまま公園から走って出て行ってしまった彼の背中を、私はじっと見つめた。

 なんだったんだろうあの人、とつぶやくと、まだ生ぬるい風が横ぎった。食べ損ねたお弁当の匂いも、金魚の魂も、ぜんぶをさらって空に巻きあげてしまうような風。その生ぬるさに救われ、だけど私は、やっぱり泣くことをやめた。

 待てと二度も言われたが律儀に待つ理由はない。ぼけっとしてそうに見えたがその実、見透かされているような気がした。放課後にお弁当のおかずと金魚の死体を木の下に埋める女子。いじめられているなんて言いたくない。同情されたのかも、と思えばすこし寒気がする。

 私は水飲み場で手を洗い、彼が戻ってくる前にさっさと帰ろうとした。

 だが、一歩遅かった。彼は大きなビニール袋をさげて、走って戻ってきた。息があがっている。立ちつくす私の胸元に「ほら」と言ってその袋を押しつける。

「いや、ほらって言われても……」

 彼は笑った。そして、強引に私の手を取り、ビニール袋を持たせた。

 少し重いその袋からは、身体に悪そうな揚げ物の香ばしい匂いがした。……やばい、おいしそう。

「いいから、食べな」

 背中を軽く押された。公園のベンチにふたり並んで座る。彼は一緒に買ってきたらしいお茶のペットボトルをパキッとあけて、どうぞ、と手のひらでビニール袋をすすめた。

 中をのぞくと、プラスチックトレーに詰めこまれた熱々のお弁当が入っていた。真っ白な日の丸ごはんと、コーンときゅうりのポテトサラダ、その下に敷いたレタス、漬物、それに大きめサイズのから揚げがごろんとみっつ、入っていた。

 せりあがってくる揚げ物の匂いに、私はお昼に白ごはんと梅干ししか入れなかった胃袋が疼くのが分かった。生唾が出る。やっぱり、あれだけじゃおなかがすく。隣でペットボトルをラッパ飲みする彼を見た。

「私にくれるの?」

「食べきれないなら俺も手伝うから」キャップを閉めながら言う男子生徒。「今日の昼ごはんのおかず、ぜんぶ土の下でしょ。金魚のごはんに。コンビニ弁当って嫌いだから弁当屋のものにした」

「そんなの、悪いよ。お金は……」

「いらない。これでお金請求したら俺のほうが悪人だし」

 彼は袋の中から割り箸を出して、ふたつに割った。それを受けとって、だけど私は彼から目が離せなかった。優しく笑っている。

 ――もう何年も、誰もが忘れて、忘れたことも忘れてしまったような笑顔を目の前に見せつけられて、何も言えなかった。妙な既視感をおぼえたのは、自分の中に同じ要素が少しでもあったからだろうか……もう忘れたけど。

 ビニール袋からトレイを出し、お手拭きで手を拭いた。箸をトレーに突っこもうとすると、突然「こら」と隣から叱咤される。

「いただきますは?」

 ……そんなことを言われたのは小学校以来だ。

 アナタは私のお母さんですか、と思いながらも仕方なく、いただきます、と手を合わせる。そして真っ先にから揚げにかぶりついた。

 野球ボールほどある大きなから揚げは、揚げたてで熱く、噛むとじゅわりと油が染みだした。カリカリとした表面と、やわらかい鶏モモの内側。レモンも塩もかけなかったが、おいしかった。ふたくち、みくちと食べているうちに、なんだか泣きたくなってきた。

 私のお弁当に入っていたのは、母が作ったから揚げだった。子どものころから親しんできた大好きな味だ。週に何度かは必ずお弁当に入れてくれる。思い出すと、右の目からひと粒、涙がこぼれた。かじりついたから揚げの上に落ちる。隣に座る男子生徒は、空を見あげてお茶を飲んでいた。気づかないふりをしているのか本当に気づいていないのか。私は手早くから揚げを食べた。鼻をすする音を、衣をかじる音でごまかした。

 悲しいときや打ちひしがれている時、食べるものの味が分からないとよく言われるけど。このとき食べたお弁当はそれぞれが自慢の味を最大限主張しているようだった。量産される弁当屋のから揚げが、これまでで上位に入るほどおいしかった。でも、悔しかった。香ばしい揚げたてのから揚げを、やけどしそうになりながら、何度も何度も奥歯で噛んだ。

 さすがにぜんぶは食べきれなくて、半分残したごはんとポテトサラダは彼に食べてもらった。ごちそうさまを言わずにいると、彼が横からトレーを奪って、自分の弁当箱から箸を出した。そして、いただきます、と手を合わせた。金魚の墓にした合掌とよく似た横顔だった。そして彼は残りを、ものすごい速さで平らげていく。さすが男子。

「おいしい!」

 彼はごはんを飲みこんで、しあわせそうに笑った。控えめに、優しく。その笑顔を見て、私は透きとおった暗闇の中に閉じこめられたような気分がした。思い出せずに、頭を抱えてしまいそうになる。

 彼が、ごちそうさま、と言って食べ終わるのを待ち、私は挨拶もそこそこに逃げるように走り去った。背後から「どうしたの?」と叫ぶ声が聴こえたが、無視した。いつまでも彼の隣にいたら、たぶん、日が暮れるどころか朝になる。



 この世に、特に学校社会にはびこる正義らしい正義が、大抵は確かに「悪意ある正義」だということを私は知っている。

 だからこれを「いじめ」と言っていいのかどうか、私には分からない。どう考えても、私だって彼女たちを怒らせるだけのことをしてるんだ。最初こそ気にしなかったけれど、スルーできないほどひどいいじめになってからは、さすがにちょっと焦ってきた。

 私の欠点が格好の標的だったことは自覚している。強気、毒舌、気丈、ずばっとものを言う。表面で相手の言うことにうんうんうなずきながら影で文句を言うほうが面倒だと思っていたから、自分が完全に間違っているとは思わない。だから百パーセント悪だと呼ばわられることが苦痛だった。理不尽さにおびえる女子になりきれず、真っ向から正論をぶつけて反対する私はさぞかし鬱陶しかっただろう。それは当然ながら、静かな火種を生む。気がつけばクラスの女子からは避けられ、無視され、それでも私が黙らないと分かるとちいさな嫌がらせがはじまり、おおきな嫌がらせになり、そして金魚の死体になる。

 さすがにこたえた。あの金魚たちを死なせたのは私だ、と思った。

 今後はもう少し落ちつこう……。

 ベッドの中でそう考える。あけはなした窓からは涼しい風が吹きこんでくる。少し欠けた月が、室内を青白く照らす。

 強気な性格は、学校社会では生きづらいことなど重々承知だ。いつだったか、教室で誰かが「四季って高飛車っぽい」と言っていた。その言葉を口に含み、舌で転がし、噛みちぎる。腐った牛乳の味。私は寝がえりを打った。カーテンが揺れて、風が部屋の空気を入れ替える。



 朝の時間が、九月のカレンダーをやぶる音で目を覚ましたように少しずつ涼しくなってゆく。空や植物や空気や光が、朝と夕方にだけ秋色に染まる。陽が高くなるとまだまだ真夏で、夏と秋がケンカ中かな、と思いながら私はカーディガンを羽織った。

 いつもより少し早い時間に朝ごはんを食べる。スライスしてバターを塗ったバゲットに、塩をかけた目玉焼き、ヨーグルト、カフェオレ。最近、どうにもお弁当を狙われがちなので、念のため朝にきちんと食べようと思った。早起きしておなかいっぱい食べる朝ごはんは、やっぱりおいしかった。おなかが微妙にあたたかい気がする。そのまま家を出ると、朝の涼しい風が心地良かった。

 ずっとこのままの気分でいられたらいいのに、と叶わないことを思う。頭の中でざっと今日のことを考えた。しばらくは大人しくしよう、と。いっそ黙っていよう、こちらも無視していれば、きっといつか飽きて、また別のターゲットにいじめの矛先が向くはずだ。それでいい。そうさせて欲しい。私はさくさくと通学路を歩きながら、誰かの「高飛車っぽい」という言葉を鼻で笑った。

 ――弱気よりマシだよ。

 靴を履き替えて教室に入ると、女子の視線がさりげなく私をとらえる。そのカンマ数秒の静寂が、私には脅威だった。黙って教室を横ぎり、自分の席に座る。窓際、後ろから二番目。どこからかちいさなささやき声と笑い声が聴こえた。

 鞄を机の横にかけたとき、私は気づいた。机の上には下手くそな女の裸体がペンで描いてあった。顔だけがなぜか魚。私は絵を指先でこすった。線はあっけなくにじむ。物的証拠として残らないようにすぐ消せる水彩ペンにしたのだろう。

 この机を職員室まで持っていって、朝来たらこんなのがありました、と言うのは容易だ。だけどそんなことをして何になる。さらに嫌がらせがひどくなるに決まってる。自分の命まで危険にさらしたくない。本当に怖いのはいじめに耐えられなくなった生徒の自殺ではなく、エスカレートして加減が分からなくなり相手を殺してしまういじめだ。この娯楽が自分の今後をどれだけ揺るがすかを分かっていない人に、私がわざわざ説教する必要はない。そんな時間、ない。

 だからせいいっぱいの抵抗として「幼稚だね」とつぶやいた。「子どもっぽい」じゃ甘い。ポケットティッシュを出して、絵をぜんぶ消した。

 でも、たぶん、こういう考えがさらにガソリンを注ぐんだろうなあ、とは思う。

 私は鞄を持って立ちあがり、教室を出た。背後から少しの笑い声と疑問の声が聴こえた。そのまま階段で一階に降り、保健室に行く。ドアに手をかけんとしたとき。

「金魚の子だ」

 癖のない低い声がすぐ後ろで響いた。私は昨日と同じ俊敏さでふりかえった。公園で、お弁当のおかずと金魚の墓を前に合掌していた男子生徒が、同じ制服でそこに立っていた。予鈴が鳴ったが、彼は気にせず不思議そうに保健室のドアと私とを見比べた。

「どこか悪いの、来て早々」

「あの、頭が……」

 痛くて、と言うと同時に彼が私の鞄を指さす。

「保健室に鞄持ち込む人、初めて見た」

 そんなところを指摘する人も初めて見た。

「……携帯とか入ってるから、誰かに見られたら嫌だし」

「そこまでするならいっそ早退したほうがいいんじゃないの」

「あんまり欠席日数増やしたくない」

「ああ、そうか、ちまちま休んでるもんな」

 そこまで話して違和感に気がついた。なぜ私の出席状況を知っているのだろう。確かに学校に行くのが嫌で休んだことは何度かあったけど。それを素直にたずねると、彼は困ったように笑った。少し大人びた笑顔だった。

「同じクラスじゃん、何を今さら」

 嘘、と声をあげる。中野さんでしょ、と名前を当てられた。こんなぼーっとした人いたっけ、と首をかしげるが、そもそも同級生の顔や名前を覚えようとしたことなどなかった。だけど、なんで彼が私なんかの名前を。

 悶々とかんがえていると、彼は自分の顔を指さした。

「大塚聡。気が向いたら覚えて」

「気が向かなかったら?」

「から揚げ弁当の人、とでも」

 私はつい吹きだした。それを見て、大塚も優しく頬笑んだ。空気全体がふざけているような、この雰囲気が好きだった。中学で誰かとこんなふうに笑うなんて初めてだ。

 いつだったか、かつて、確かに感じたこの感触を、私はふいに与えられて戸惑っていた。生まれたばかりのひよこを手渡されたように。扱いかたを知っているはずなのに、忘れている。どうすればいいのか分からなくなる。

 そのとき、二度目のチャイムが鳴った。「やばい本鈴」と叫んで大塚聡は駆けだした。廊下を八メートルほど進んだところで急ブレーキをかけ、私を振りかえると早口に言う。

「早く! 先生来るよ」

「いや、私は保健室に……」

「ホームルーム出れるぐらいには軽症でしょ?」

「あの、本当におなか痛いから」

「さっき頭って言ってなかったっけ? はい仮病確定。行くよ!」

 彼は走って戻ってきて、私の背中をとんと叩いた。

 しかたなく、ふたたび走りだした彼の背中を走って追いかけた。おかげで死ぬほど疲れた。騒がしい教室にふたり並んで滑りこむ。

「どうも、遅くなりましたーぁ!」

 大塚の間延びした声に、教壇にいた担任の先生が肩をすくめる。「許すから早く席につきなさいほれ」と言い、点呼をはじめる。

 大塚は私の背中をまた軽く叩いた。彼の目が、席に戻りな、と語っている。

 私は呼吸をぜいぜい荒げながら机に戻り、鞄を直接床に置いた。女子たちの悪意がこもったひそひそ声が、いっそう多く聴こえた。大塚は遠く離れた席で、別の男子にからかわれて楽しそうに笑っている。この差。

 席についた大塚を改めて見ると、そういえばこんなのいたな、と彼の存在を漠然と思いだす。無表情で、ぼんやりしていて言葉数は多くなく、しかし友達はそれなりにいて、休み時間にはいつも誰かと談笑している。顔もそれなりなので、女子がよく噂をしていた。

 嫌がらせを悪化させないようにしよう、と決めた矢先だ。余計な問題を自ら増やすよりはこれ以上、大塚聡とも関わらないほうがいい。から揚げ弁当を奢ってもらった、なんてうっかり口に出せばおそらく、もっとひどいいじめがはじまる。お金をかえしたら、それで終わりにしよう。面倒すぎる。ややこしい。「中野四季」と呼ぶ先生の声に素直にハイと答えた。もう一度、大塚聡を見る。彼は私になど目もくれず、笑っていた。


 その日のお昼休み。私はひとり、自分の席でお弁当の包みをひろげた。今日は移動教室がなく、トイレも行かず、一度も席を離れなかったので中身は無事だった。甘辛きんぴらにじっくり焼いたソーセージ、ブロッコリー、チーズ入りの炒り卵などなど。いつもどおり箸を手にして食べようとすると。

「おいしそうな匂いがする」

 財布を片手に持った大塚聡が、少し離れた場所から私を指さして言った。その声に他の生徒の何人かがこちらを見る。私と大塚を見比べる。これがいちばん嫌なのに。私は彼を無視し、しかめっつらのままブロッコリーを食べた。がしゅがしゅと噛むと口の中でばらける。黙って食べる私の前に、大塚が立った。

「俺も弁当、自分で作ってみようかな。弁当男子ってモテるでしょ」

 元からモテるくせに何を言いますか。嫌味にしか聴こえなかった。ドアの向こうから「聡、先行くぞ!」という声とどたばたあわただしい足音が聴こえた。彼はふりかえって「おう!」と答え、また私に向きなおった。

 私は目線をお弁当箱から離さなず、無心におかずを食べ続ける。大塚はカップに入った炒り卵を、行儀悪く指さした。

「卵にチーズを入れたんだね。俺も好き。胡椒かけるともっとおいしくなるよ」

 私は何も言わず、口の中でソーセージをもぐもぐ言わせながら鞄の中を漁った。八百円が入った封筒を取り出し、大塚の腹に押しつけた。「おっと」慌てて封筒を手にした彼は、小銭の音がするそれを不思議そうに見た。

「何これ」

「昨日のお金」

「いらないって言ったのに……」

「そういう意味じゃない。わざわざ売られなくても大塚くんにちゃんと恩は感じてるから。ありがとう。だけど貸し借りは早く無くしたい。だから受けとって」

 まるで手切れ金だ。私と聡とをつなぐ関係を、これ以上無駄にアクセスしっぱなしにしたくなかった。ずる賢い大人みたいで、嫌な気分だった。それでも私は断固としてゆずらなかった。右手でひたすらにおかずを口に運び、左手はお弁当箱をしっかり持って。

 大塚は数秒逡巡し、封筒をチャリチャリと振って見せたが。

「そうじゃないんだって」

 ……あと、俺のことは聡でいいよ。

 そうつぶやいて封筒をそっと私の机の上に置き、反論を許さず早足に教室を出て行った。残された私は箸を止め、かえってきた封筒を見つめた。彼がいじったぶん少し皺がついている。教室にいた数人の女子が、何度も何度もふりかえって私を見る。何かを話している。

 私はそっと封筒に手を添えた。そしてそれをつかみ、乱暴に鞄の中に放りこむ。お弁当箱を手に持ち、ごはんを多めにとって無理やり口に押しこんだ。


 授業が終わり、ホームルームも終わる。一日のあらゆることが終わる。私は誰よりも早く教室を飛び出し、走って下駄箱へ向かった。一年二組、大塚聡の出席番号の下駄箱をあけて、中にお金の封筒を放りこんだ。自分の靴を履き替え、まだ誰もいない昇降口を横ぎる。気分が晴れた。重くない。軽やかな足取りで正門へ向かった。

 これで終わった。ぜんぶだ。大塚聡との関係は断たれたのだ。もうつなぐものは何もない。イケメンでモテる男子に話しかけられた主人公が他の女子から嫉妬の嵐を食らう、なんていう少女漫画みたいな展開は鼻で笑えるほどフィクションじゃないんだ。現実でも数多くある。そんなことで、誰より自分がいちばん傷つきたくない。大塚聡だって迷惑だ。彼に悪意がないからこそ、よけいにそう思う。

 そこまで考えて、から揚げ弁当ごときで餌付けされたか私、と思った。確かに感極まるところはあった。大いなる不本意ながらうっかり泣いたし、おいしかった。

 だが、だ。それとこれとはまったく違うし、そこを一緒にするから事態がややこしくなるんだ。お礼は言った。だからもう大丈夫。

 帰って本を読もう。お風呂あがりにカルピスを飲もう。そんなことをぼんやり思っているといきなり上半身をぐん、と後ろに引かれた。足だけが前に進んでころびそうになる。右手を強くつかんでいたのは、やはり、よせばいいのに、大塚聡だった。

「そろそろ観念しようよ、諦めの早い平成の若者のくせに」

 そう言ってそのまま手のひらに封筒をにぎらせる。あちこちを冒険したそれは皺くちゃになっていた。

 私はため息をついて、それを性懲りもなく聡のズボンのポケットに押しこんだ。聡は怒ったような顔でむっと唇を突きだし、ポケットからひっぱりだした封筒を今度は私の服の胸元に押しこもうとして、それは手のひらで全力阻止した。チャリチャリとお金の音がするので、とおりすがりの生徒がいちいちふり向く。

「あと、先生が呼んでる」

 私はえっ、と声をあげた。なぜそれを先に言わない!

「やばい、職員室行かなきゃ!」

「嘘だよ」

「嘘かよ!」全力ツッコミを入れる。

 な、なんなんだこいつ……一緒にいると疲れるってばよ。

 立ち去ろうとした私を、聡が「ジュースおごる」と言って呼びとめた。またおごりか。せいいっぱいうんざりしたような表情を作ると、私のことなど気にせず聡はほこほこと歩いていった。彼は肩越しにふりかえり、中庭を指さす。面倒事とか世話焼きとか好きそうな人だな、と思った。

 だけど疲れ果てていたのは事実なので、何か甘いものを飲みたかった。中庭の連絡通路側にあるジュースの自動販売機の前に立ち、聡がまず自分用らしいアイスティーを買った。私は並んだパッケージを見て、甘そうなものを探した。そうして目がいったのはフルーツオレだった。カラフルな色合いがかわいい、女子生徒向けの一品だ。

 小銭を追加する聡の背後に注文しようとすると、彼は私を一瞬ふりかえり、そして躊躇なく何かのボタンを押した。あっ、と短く声をあげる。選択権なしですか……と思っていると、聡が買ったのがまさしくフルーツオレであることに気づいて固まった。冷たいパックを「ほい」と手渡されても、まだ硬直していた。

 なんで、私が飲もうとしてたのがフルーツオレだって分かったんだろう……?

 ふたり並んで中庭のベンチに座り、アイスティーとフルーツオレをすする。遠くから野球部とサッカー部の掛け声と吹奏楽部の演奏が聴こえてくる。本館の壁にかけられた時計を見ると、もう夕方の四時半だった。

 ちゅるん、とストローから口を離して、聡がおもむろに言った。

「別にさ、金で中野さんをどうにかしようとか、恩を売ろうとか、そんなのは考えてないんだってば」

 むしろから揚げ弁当とジュースごときでどうにかされる自分が嫌だ……。

 私はただ、関係をなくしたいだけなんだ。「分かってるよ」となかばひらきなおったように言い、ジュースをちゅるると吸う。甘い。疲れた頭に糖分がゆきわたる。

「おいしいもの食べると、マイナスな気分が八割がた吹っ飛ばない?」

「あ、それはちょっと分かる」

「俺、喧嘩してる男子中学生の前にでーんとカレー鍋置いたら絶対みんな休戦するって思うし、食べきっておなかいっぱいになったらもう喧嘩する気にならないよ」

「カレーが嫌いな人って見たことないよ」

 私が言うと、聡がすっと目を細めた。静かに笑う人だ、と思った。

「うん、俺もカレー大好き」

 そう言った彼の笑顔は、やっぱ大人びていた。

「あと、焼き肉嫌いも見たことない」

「住宅街歩いてて、カレーとか、煮込んだトマトっぽいのとか、醤油とみりんとかの匂いがしたら本気でおなかすいてくるよね」私は苦笑しながら言った。「パン屋さんの前なんて、もう、ダム同然」

「分かる。絶対足止める!」

「夏祭りの出店でも、真っ先に目が行くのはソースの匂い垂れ流しの焼きそば屋とか」

「焼き鳥とかホットドッグとかも、つい視線が行くわー、俺」

 なんだかおなかがすいてきた。

 それをごまかすように一気にフルーツオレを飲む。聡は「でもマクドの不健康っぽい匂いも食欲そそられるんだよなあ」と追い打ちをかける。

 アイスティーをちまちま飲みながら、彼は楽しそうだった。心底、楽しんでいるようだった。クラスで仲のいい男子と話している時と、あまり変わらない笑顔だった。大口をあけて爆笑したりすることはなかったが、とても上品に笑う。下ネタを言うところなんて想像できない。

「で、なんの話だっけ」

 私は今にも鳴きそうな腹をさしあたりジュースで満たして言った。

「そうそう、おいしいものを食べると嫌な気分がなくなるっていうの」

「それ。確かに。今こうして話してるだけでも、結構楽しい」

「おなか減ってくるよね」

「言わないで、今本当にカレーが食べたくなってきてるから」

 お母さんにメールしたい、と笑う私。同じように笑う聡。

 こんな雰囲気、いったいどれぐらいぶりだろう。濁りのない朝の空気に似ている。つい昨日はじめて会話をした仲なのに、もう私は楽しく笑えている。友達を作るのがずいぶんと怖いはずなのに。この、ちょっとかっこよくてぼんやりした少年を前に、もっと早く仲良くなればよかった、と思った。

 暗闇は、透きとおっていた。私が手を伸ばせば済んだことだったのだ。

 聡は飲みきったアイスティーのパックをていねいに折りたたむ。

「お弁当のおかずと金魚を木の下に埋めてる中野さんが」

 膝に肘をついて、ひとつため息をつく聡。

「おなかを減らしてるみたいだったから」

 キン、という金属バットの音が聴こえた。 回れ回れ回れ! センターもっとバック!

 鋭さを増した太陽の光が、連絡通路に隠れて一瞬見えなくなる。影になったベンチ周辺。聡は折りたたんだパックのストローを噛んだ。私は残り少なくなったフルーツオレをすする。詰まった排水管のような音がした。そして「うん」と言った。

「食べたかった」

 お母さんの作ったお弁当が。

 毎朝、仕事に行く前に作ってくれる、私の大好きなお母さんの料理が。

 だけど、聡が揚げ弁当をくれたことが、あのときはどうしようもなく嬉しかった。味が分かることが。聡が、泣いていた私を見なかったことが。

「でも」

 どうしてから揚げって分かったの、と言おうとすると聡はベンチから立ちあがり、自動販売機の横に備えつけられたゴミ箱めがけてパックを投げた。狙いははずれて、地面に転がるそれを拾ってまた入れる。私もフルーツオレのパックを捨てようとして少し考え、聡のように四隅をひらいてつぶしてから放りこむ。

 太陽の光が、連絡通路の下部から差しこんだ。すっかり赤みをおびたそれが、町を夜に誘いこもうとする。人々をいざなう。感傷的な気分にさせる。中庭の、ところどころに雑草が生えた地面の上に、私と聡の影が並んで伸びる。

 鞄を肩にかけ、帰ろうか、と言った聡の背に、私は叫んだ。

「どうして」 

 震える声でつづける。

「から揚げ弁当にしたの」

 さらにつづける。ほとんどヤケだ。

「あと、フルーツオレをどうして選んだの」

 あざあっしたー、という野球部の声がひときわ大きく響いた。その中で、聡は初めて会ったときのように夕日を背に、目を見開いてきょとんとしている。徐々に悲しそうに歪む、逆光になった彼の表情を、私はじっと見ていた。

 ずいぶんと長く感じたのに、時間にして十秒にも満たなかったと思う。聡は私から視線をはずし、片鼻をすすった。前髪をかきあげて後頭部を掻く。そして、いまだ目を離せずにいる私に、どことなく弱々しい声で「中野さんはさ」と言った。

「教室で本、よく読んでるよね」

「あ、うん、読書は好きだから」

 はぐらかされたかな、と思った。

「じゃあ、SF小説とかも読んでるよね」

 そう言って彼は微笑んだ。たぶん、彼は以前にも、きっとどこかで、誰かに向かって、同じ表情をしていたはずだ。

 私は昨日、彼が私の食べ残しを前に「いただきます」と言って手を合わせている姿を思い出した。もっと貪欲で、だけど些末なものを大事にしていて、それ以上に臆病な人の目。


「――俺、超能力者なんだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る