第4話 冷やし中華と手作りおにぎり

 駅で出迎えてくれた聡は、白のワイシャツに黒のベストを羽織っていた。やっぱり彼の普段着はおしゃれだ。私はベージュのワンピースにカーディガンを重ねている。まるでデートに行くみたいだ、と思ってしまい、だが、んな情緒はない、と頭を振った。

「手ぶらでいいって言ったのに……」

 お母さんみたいなことを言う。私は近所のお店で買ったちょっと高いわらび餅の袋を、それでも聡の胸に押しつけた。「わっと」とよろめいて彼は袋をつかむ。

 昨日の授業中、聡からメールが来た。「明日の晩御飯は冷やし中華にするから、うちで食べな」と。麺ものがいいな、と思っていた矢先だった。聡は自分の席からこちらを振り向き、ちょっとだけ笑った。結局、超能力者様の前ではお見通しなわけだ。

 男子の家に一人で行くのは少し緊張したけど、聡だからいいか、という気もした。基本的に聡は男友達ばかりと一緒にいるし、無表情で無口なので、初対面の女子には少し怖い印象を与えやすい。何度か告白されたことはあるらしいが、女子とつきあったことは今まで一度もないという。「女子って束縛したり、毎日メールしたり、他の女としゃべっただけで怒り狂うって連れから聴いたから怖い」と青ざめた表情で語る十代男子。イケメンの無駄遣いも甚だしい……。

「今日は、おうちの人は?」

「言ったでしょ、父親は仕事でいないほうが多いって。中学生になったとたん、もう大人だろって言ってほぼ放置。おかげで自分の好物は作れるようになった」

「あれ?」私は悪気なくたずねたつもりだった。「お母さんも働いてるの?」

「いや、うちは父子家庭」

 その一言でなんだか微妙な空気が流れ始めたので、素直に「ごめんなさい」と頭をさげた。「いやいやお気になさらず」と聡はあいかわらずの無表情で言う。

「ただ、三人で食べるかも知れない」

「おうちの人と?」

「ううん、隣の人」

 そこから先は詳しく聴いていないが、「かも知れない」なので流れに任せることにした。

 聡の住んでいる家もマンションで、こちらはオートロックつきのかなりしっかりした造りだった。二階の真ん中に大塚の表札がある。「お邪魔します」と言って中へ入った。

「ごめん、昨日片づけたつもりなんだけど」

 そう言って聡は私をリヴィングへ通す。もっと散らかっているものかと思ったら、小綺麗なものだった。私の部屋のほうが汚いかも知れない……。

 モノトーンで揃えられているおしゃれなインテリアをあれこれ見ていると、聡が「まだ少し時間あるな」と言う。

「ごはんのあとにデザート食べようと思ってたんだけど、作る?」

「作る作る!」

 わらび餅もあるのに、甘いものとなるとつい調子に乗る私。

 聡が冷蔵庫から出してきたのは牛乳パックだった。鍋にそれを注いで火にかけているあいだ、レンジであたためたコップの水に白いゼラチンの粉を溶かす。沸騰する直前の牛乳に多めの砂糖を溶かし、火をとめてゼラチンを加える。氷水に浸けて粗熱を取り、おしゃれなガラスの器に注ぐ。そこに聡は缶詰めのみかんを浮かべた。

「みかん入れるんだ、かわいい」

「子どものころ、父親が作ってくれたんだ。シンプルで優しい味がするから、俺は好き」

 器を冷蔵庫に並べ、「これで二時間待機」と言う。甘い牛乳のゼリー、と考えると早くも食べたくなってきた。もちろんそれが聡に見抜かれていることは分かっているので、「固まり具合見たくて何度も冷蔵庫あけるなよ」と言われても「どこの小学生ですか」と言いかえす余裕があった。

 しばらくお茶を挟んでくだらない雑談をしたあと、陽が傾きはじめたのを合図に台所へ立った。聡は鍋をふたつ出してきた。ついこの間までそれが要塞の武器にしか見えなかったのに、使いかたを覚えた今はなんだかわくわくする。

「昨日言ったけど、暑いし、四季のご希望どおり冷麺にします」

「手伝ってもいい?」

「もちろん」聡はふわりと笑った。「そんなに手間じゃないから、三十分でできるよ」

 彼は両方の鍋に水を張り、火にかけた。「沸騰したら大きいほうの鍋にこれ入れて」と、聡から半生の中華麺を三袋受けとる。パッケージをあけて待機させた。沸騰を待つ間、小ぶりのボウルで醤油、酢、ごま油、コチュジャン、砂糖、生姜を、聡に言われた分量で混ぜる。醤油と酢の割合が多く、ツンとした匂いが唾を誘う。どうしても我慢できなくて、混ぜていたスプーンでちょっぴりすくい、舐めた。

「おいしい!」

 辛しょっぱくて、だけどごま油の風味が効いている。これだけでサラダや肉の味付けに使えそうだ。

 悶絶していると後ろからぺーんと軽く頭をはたかれる。

「つまみ食い禁止。食べたときの感動が半減するよ」

 聡は笑ってボウルを冷蔵庫に入れた。暑いのでとにかく徹底して冷やすつもりらしい。

 またもレタスを手渡され、ちぎるよう言われる。「こないだよりもっと小さく、」と言われ、ちまちま地味に手で裂く。面倒だけど、結構楽しい。その間に聡は長ネギを細く、トマトを小さく切っていた。リズミカルな包丁の音は、すっかり聴き慣れた聡だけのものだ。もう片方の鍋はすでに沸騰し、中で三つの卵が踊っていた。

 レタスをちぎり終わるころに大きいほうの鍋も沸騰しはじめ、私は中華麺を放りこんだ。

「一分で茹であがるから、時計見ながら箸でほぐして」

「一分? 凄いね、カップラーメンより早い」

「あれは乾燥させてるからね。ざっと茹でて終わりだから、暑いといつもこればっかり」

「わ、わ、なんか超泡出てきた、あふれる、うわわわわ」

「いや、火ゆるめなさいって、普通に……」

 ゆで卵の殻をむいて包丁でふたつに切りながら、冷静に隣で私の手元を見ていてくれる。言われたとおり、茹でた麺を氷水に浸けてすすぎ、ざるで水気を切る。洗った鍋ではすでに味噌汁の準備が進んでいた。具はタマネギ、しいたけ、わかめ、焼き麩らしい。

「具だくさんだね」

「味噌汁ってだいたい何入れてもおいしくない?」聡が鍋を菜箸で混ぜながら言った。「かぼちゃとか、ゴボウとか、レタスとか。いろいろ試してみたい」

「うちはシンプルに焼き麩とネギとか、そういうお吸い物扱いみたい。でも、お味噌汁って家ごとに味が違うってよく言うよね」

「言う言う。そこのお母さんが、おばあちゃんからずっと受け継いできた味っていうのかな。何せ日本独特の料理だから、島国で進化を遂げてきたってふうに」

「じゃあ、今作ってるそのお味噌汁は?」

「大塚家の大黒柱が妻より教わった最初の料理、と言うべきか」

 ふいに、聡は持っていたお玉を私に手渡した。

「やってみる?」

 ぎっ、と背骨が張った。ものすごい速さで心臓がドクンドクンと高鳴る。

 断る理由はないが、なにせ味噌汁を最後に作ったのは小学校の調理実習だ。ええい、何事も経験じゃないか女子中学生! と自分に喝を入れて、お玉をがっつり両手でつかむ。

 私はひとつひとつ、何度も聡に確認を取りながらお玉で味噌をすくう。お玉に出汁をすくって菜箸でちまちまと溶かす。単純作業なのに、機械の修理でもするかのように緊張していた。肩をよっぽどガチガチにすくめていたのか、そこに手を置いて「落ちつきなって」とまで言われてしまう。

 三人分の味噌を溶かすと、ふーっと大きなため息をついた。聡に、たいへんよくできました、とばかりに頭をぽんぽんと叩かれた。馬鹿にされている気がして頬をつねってやった。……つねりかえされた。

 聡は用意した冷やし中華用のガラス皿三枚に、麺をそれぞれ手でざっくり等分して入れる。その上に聡が切った長ネギ、トマトが乗り、私のちぎったレタスがぱらぱらと振られる。端のほうにゆで卵を添える。最後に冷蔵庫で冷やされた、私の混ぜた辛しょっぱいタレと白炒りごまが上から一気にかけられて。

「はい、完成」

 聡が両手をひろげる。私はもうすでに生唾が止まらなくなっていた。

「器が冷たい、お酢の匂いがやばい、トマトがやばい、ぜんぶやばい、きらきらしてる」

「簡単で単純なのにおいしそうだよね。こないだ作ったシンガポール・チキンライスのタレ、四季がえらく気に入ってたみたいだから、酢醤油系とか好きかなって思ってこのタレにした」

「好き!」思わず声を張りあげた。「食欲そそられるよね、匂いだけで」

 彼は笑って「覚えておくよ」と言った。もう聡の前では子どもになっても大丈夫だと思った。好きな食べものを素直に好きと言ったら、料理してくれる。それを手伝わせてくれる。作り方を教えてくれる。毎日食べているごはんの時間が幸せになれそうな、そんな魔法をこの超能力少年がかけてくれる。

 一日三回、笑顔になれるささやかな時。

 リヴィングのテーブルに冷麺と味噌汁とごはんが並べられる。聡は私と彼のぶんのほかにもう一セット、あいた席の前に並べていた。聡が時計を見て「七時だ」とつぶやく。

「六時半に空港着の国際線で……そこから電車で二十五分、駅から歩いて十分か。でもあいつなら走って五分で来るだろうから、たぶんもうそろそろだと思う」

「どこの何の話してるのお兄さん……」

「引き合いに出してた隣の人」

 ああ、と思うが早いかピンポンピンポンピンポンと玄関のベルが連打された。どんなお隣さんだ。聡が玄関をあけると、「さーくーん!」という女の人の大絶叫が聴こえてきた。

「ただいま! おなかすいた! ごはん食わして! あたしが何食べたいかぐらい一瞬で分かるよね?」

「見なくても分かるよ、どうせごはんと味噌汁でしょ。いつものごとく。作ったから」

「よっしゃーお邪魔しまーす!」

 そう叫んでドタドタと入ってきたのは、Tシャツにジーンズというラフな格好をした、野生児っぽい女の人だった。揺れる黒いポニーテールが猫の尻尾みたいだ。彼女は私の姿をみとめると、いきなり抱きついてきた。

「え、わ、ちょ、おぶっ」

「やーん、イメージどおり超かわいい!」

 む、胸が、顔にあたって息できない。

「……あの、その子全力で引いてるからほんとどいてあげて京姉」

 聡が猫を扱うように、彼女の首根っこをつかむ。そこでようやく解放された。

「四季、この人がお隣さんで、幼なじみの水無月京。女の子好きで放浪癖のある危険人物だから重々気をつけて」

「ひどい、本当のことそんなにズバズバ言っちゃうなんて」

「ふわっとした言い方にしてどうすんだよ、すでに存在がドン引かれてるのに」

 ドン引いてはいないが胸の大きさに愕然とした。資質の不公平レベルは尋常ではない。

 その野生児さんは私の肩を持って揺さぶり、「さーくんのお友達でしょ? だいたいのことは帰国前に聴いてるよ。仲良くしてね」

「はあ……」

 もう何がなんだか。

「いいから京姉、手洗ってきてよ汚い」

 洗面所に光速で飛び込み光速で戻ってきた京と、三人揃って食卓につき「いただきます」を言う。京は冷麺を前に、アイドルをうっかり道で見かけたような声をあげる。

「おいしそう! これもさーくんの?」

「いや、今回は四季が手伝ってくれた」

「あ、そうなんだ! じゃあしーちゃんの手料理、心して食べます」

 なるほど、四季だからしーちゃんか……。

 京はチュルルッと麺をすすると、手足をばたつかせ、幼い子どものような笑顔になった。

「超おいしい! 夏っぽい! でも中国っぽいよさーくん」

「コチュジャン入れてるからむしろ韓国なんだけど、いいじゃん、アジア圏内だし。多分これ、オイスターソースとか豆板醤に変えてもおいしいと思う」

「せっかく一ヶ月ぶりに和食食べれるかと思ったのに、肉じゃがじゃなくて冷麺ですか」

「うーわーやめろよ暑いわ! 肉じゃがっていっぺん冷ますから二度加熱するじゃん、熱中症になるし。俺のヒットポイントも節電してよ」

 へー、肉じゃがって一回冷ますのか。そう思いながら私は冷麺をすすった。瞬間、口に広がる辛さとすっぱさが絶妙に絡まった、ごまの風味がじんわり広がる冷たいタレの味。もっちりした麺とシャキシャキの野菜がそれにマッチする。味が濃いのにしつこくない。思わず口元に手を添えた。

「これはやばい、夏専用。毎日食べたい」

「毎日は飽きるわ」聡が楽しげに苦笑した。

 私は味噌汁を少し飲んで、「どういうお隣さんなんですか」とたずねた。聡が口をひらく前に京が「はいはいはーい」と小学一年生のように手をあげる。……なんだこの人。

「あたしのほうがだいぶ年上なんだけどね、さーくんが病院で産まれるのも目撃しちゃった仲よしのお隣さんなんだ。あたしは海外放浪しまくってるからさ、生き残れるようにって料理教えてくれたのもさーくんなんだ」

「じゃあ、今日もどこかから帰ってきたんですか?」

「さっきまでスウェーデンにいたんだ。涼しいとこに行きたくて」

「涼しいとこ=スウェーデン、になる京姉の思考回路が読めん……」聡がぶつくさ言う。

「あっちってすごいよ。さーくんも聴いて。スーパー行ったら壁にダストシュートみたいなでっかい扉があって、それあけたら中からごろごろってじゃがいもばっかり出てくるの。もうじゃがいもがゴミのようだ! って感じでね。寒いから根菜系ばっかなんだなって。あ、おいしいものもあったよ。トナカイの肉のポワレ」

「トナカイー!?」私と聡は同時に声をあげた。

 京さんは「いい反応」と言って笑う。

「天罰くだるかと思ったけど、ごめんなさい言いながらいざ食べたらかなりおいしかった。匂いキツいからハーブとかじゃんじゃん添えられてて、でも超やわらかくてね」

「うわー、なんかサンタさんに申しわけない。そんな隠れグルメ」聡が肩を落として言う。

「いいなあ、私も外国でごはん食べたい。日本から出たことないから」

「そうなの? いいよ、しーちゃんだったらいつでも。食べものならタイかベトナムか台湾だね! 美容にもいいし、味もアジア人にぴったり。パスポート持ってる?」

「四季、ホテルは別々の部屋にしたほうがいいよ。食われるから」

 おいしい冷麺を食べながらのグルメトークははずみにはずんだ。聡は呆れたように京のボケをあしらいながらも、楽しそうに微笑んでいた。京さんは冷麺をひとくち食べるたびに「おいしい」と笑って悶絶した。それを見ているのが嬉しかった。必要とされている気分だった。聡はこの感触が大好きで、だから人に料理を振る舞ったり、ごはんを奢るのが好きなんだ、と思った。


 じゃんけんで負けた聡が皿洗いをすることに。泡の山に手を突っこんで食器や調理器具を洗う彼を横目に、私は京さんと話をしていた。年は離れているけれど、女子同士なので繋がるものはある。

 京さんは聡の超能力を知っていた。怖がるでも面白がるでもなく、それが聡なんだ、と言って笑っていた。

「でもさあ、あたしが本当に食べたいもの分かるってのはいいんだけど、恥ずかしいんだよね実際。それに、だから? って感じ」

「超能力って、もっと壮大なイメージがあったんだけど、聡の場合はかわいらしいよね」

「好物とか作ってもらった? というか、しーちゃんの好物ってどんなの」

「私は、今日聡にも指摘されて改めて思ったけど、すっぱい系で味が濃いのが好きみたい。中華とか、揚げ物もレモンかけて食べる」

「あたしもあたしも! よく動くから、お肉をソースでガッツリ食べたい」

 いつも教室で騒がしい女子たちのことを馬鹿にできない。私はすっかり京のテンションに巻きこまれて、手を叩いたり高い声で笑ったりする。ずっと以前から友達だったと錯覚してしまいそうなほどだ。女子っぽいなあ、と思いながら、それでも自分が美人と並んでいることが少し恥ずかしくなったりする。

 旅の土産話を聴いていると、ふと電話機が置いてある棚に飾られた写真立てに目がいった。中央ではしゃぐ小さいころの聡と京。その後ろで微笑むひと組の夫婦と男性。

「これね、あたしとさーくんの家族なの」

 京が写真立てを手にして言う。「さーくんのお母さんは、このときもういないけどね」

「こんなに小さいのに……」

「もっと小さいとき、さーくんが小学校入ったくらいかな、そのときにね。さーくんの超能力が出てきたのと同時。知らなかった?」

 私は首を横に振った。重たい話になりそうだった。あまり深くは追求しないでおこうと、それ以上は話をつづけなかった。棚の左上の壁に飾られた表彰状を見て、「子どもかるた大会四位だって、凄い」と笑った。

 そのとき、食器を洗い終わった聡が渋い顔で戻ってきた。

「京姉、ちゃんと家には顔出した?」

「当たり前じゃん」子どものようにぶすくれる京。「鞄置いてすぐ飛んできたよ。でもどうせお父さんもお母さんもまだ仕事なんだから、さーくんちでごはん食べてもいいじゃん」

「いや、ごはん食べるぶんにはいいんだけどさ。そうか、おじさんもおばさんも、まだいなかったのか。もう完全に娘の出帰国とか慣れっこなんだな」

 苦い顔をする聡。私は京を見て「荷物だけ置いて、真っ先にここ来たの?」と訊いた。

「うん、海外にずっといるとね、ごはんとお味噌汁が超食べたくなるんだ。普段そんなに意識しないけど、いざ何週間も食べないと、ああ白いごはんが食べたいなあって思うようになる。西洋のお米、乾いてパラパラしてて日本人にとっては微妙だしね。ふわっとして熱いごはんは慣れた祖国のがやっぱり好き」

「だから京姉がどっかから帰って来る日は、絶対白米と味噌汁なんだ」聡が言った。

 毎日食べているのであまり考えないし、外国のお米がどんな味かも分からないけど、実際に外国を長く旅するとそうなるのかと素直に驚いた。祖国の味、日本人が好きなお米。実感がないからその言葉の重みは分からない。

 聡は「四季」と言って私のすぐ傍まで来た。歩いている途中、さりげなく棚の上の写真立てをきちんと定位置に戻す。

「牛乳プリン、もう固まってるよ」

「あ、そうだ忘れてた」

「牛乳プリンって、あれ?」京がはしゃぐ。「みかん入れてる?」

「あるよ。京姉のぶんも作ってるから。四季がくれたわらび餅もある」

 やっふーい、とかん高い声をあげて冷蔵庫にダッシュする京。子どもみたい、と思いながらその背中を見ていると、聡が私にしか聴こえないぐらいのちいさな声で言った。

「あまり気を使わないで」

「え?」

「写真、見たでしょ。京姉にどこまで聴いたか知らないけど、引きずってるわけでもなし、小説やドラマみたいなものじゃなし、家庭の複雑な事情扱いされたくないから」

 私はうん、とうなずいた。「本当に?」と念を押されて首を二度縦に振る。

 片親のいない超能力者。京は確かに、母親がいなくなると同時に超能力が目覚めたと言った。交通事故がきっかけで超能力者になったなどという話をテレビで聴いたことがあったが、それと同じようなことなのだろうか。

 安易に触れるには物見遊山じみた感情の割合が多すぎて、ためらわれた。

 京が牛乳プリンとわらび餅を出してテーブルに並べながら、「早く食べようよ!」と叫んだ。私と聡はそれぞれ席につき、この夜二度目の「いただきます」を言った。


 家に帰ると、中華麺で満たされたおなかからベッドにダイブした。しあわせだ。熱々のごはんも、大塚家の味噌汁も、ぜんぶがおいしかった。今回は半分近く、作るのを手伝えたことも嬉しかった。自分で作ると一層おいしい。大事に大事に食べたくなる。

 お風呂に入っているあいだも、雑誌を読んでごろごろしていても、おなかのふわふわした幸福感はやまなかった。指折り数えて手順をおさらいする。醤油と酢とコチュジャンと、あとなんだっけ……ちゃんと紙に書いてもらわないと。夏が終わるまでにまた作りたい。あれをお母さんにも食べてもらいたい。一晩中、ずっとそんなことを考えていた。

 朝起きて最初に携帯をひらくと、夜中のうちに一通のメールが届いていた。

『通算百通お祈り達成\(^o^)/』

 ひとり暮らしをしている兄からだった。現在大学四年生で、就職活動の真っ最中。軽い文面とは真逆に、相当ショックを受けていることが分かる。「お祈り」の意味が最初は分からなかったが、今では聴き飽きて普通の中学生よりもそこに内包された意味を知っている。ようは「今後のご活躍をお祈り申し上げます」と締めくくられる不合格通知だ。

 祈るぐらいなら活躍できる場をくれ、と、日本独特の妙な言い回しを嫌う兄。別に彼は頭が悪いわけではない。むしろ普通の人とは違う考え方をしすぎて、だから敬遠されるか同じ異質の人に歓迎されるかのどちらかしかないのだ。私もあんなふうに就活で苦労するのかな、と思えばゾッとしないでもない。

 こういうとき、それこそ料理を作って待ってあげたりするのがセオリーなのだろうが、レタスをちぎるのが今できる最大限のスキルだと分かって提案はあっけなく崩れる。まあ、こういうのは少しずつでいいんだ、とひらきなおり、そこで思いついた。

 私は誰もいない台所に入った。母はまだ眠っている。彼女を起こさないように米を二合ぶんとぎ、炊飯器のスイッチを入れる。炊きあがるのを待つあいだに携帯をひらき、昨日交換した京のメアドを呼びだした。

 できることからやればいい、とはよく言うけれど、無理さえしなければギリギリできそうなことからやってもいいはずだ。



 こういうのはパターン化しやすいのか、と冷静に考える。机にゴミ、なんてわりと最初のころに何度かあった。いろんなバリエーションを駆使して駆け巡ったあげく一周して戻ってくるのがたぶんここ。いじめをつづけるのも結構体力や頭を使うのだと思った。

 私は何も考えずに教室のゴミ箱を持ってきて、机をかたむけて中のゴミをふるい落とした。こうなることが分かっているので、私は普段、机に置き勉をしない。他になくなっているものはないかと中を整理していると、女子たちの話し声がやっぱり聴こえてきた。五人ほどで束になっている、佳山と彼女の友人たち。はいはい、御苦労。こういう気丈な態度がいかんのだと分かっているけれど、彼女たちの幼稚さが目についてしまい、どうにも弱気になるどころか、何やってんの君たち……という気持ちになってしまう。

 やがてチャイム寸前に聡が登校してきた。「おはよっす」「聡ギリギリだべ」「春眠暁を覚えず?」「もう秋だって」仲良しの男子に囲まれて苦笑する聡に、女子の視線が集中する。やっぱり、顔はそれなりにいいからかな、あの人。私はぼんやりそんなことを考えて、すぐに彼から視線をそらした。朝のホームルームの時間、私は机の下でメールを打つ。

『今日のお昼休みは、手ぶらで待っててください』

 一時間目の途中に返事がきた。

『服は着ていってもいいですか』

 思わず吹きだしそうになったので必死でこらえる。あんなふうに、教室では友達の前でしか笑わず、無表情で無口なことが多い聡が冗談を言ったので、新鮮だった。ちょっとアメリカンジョークっぽいところが、逆に聡らしかった。

 四時間目が終わり、お昼休みのチャイムがなる。騒がしくなった教室のどさくさにまぎれて、聡は私の机の前に立った。

「今日はどうしたの」

 なんだなんだ、と思うが早いかクラスの女子の視線が一気に終結した。教室で互いに話しかけることはほぼなかったし、あえてそうしていた。だが聡は大まじめな目で私を見おろしている。帰っていいですか、と言いたくなるのをこらえて、私は「いや」と言った。

「ちょっと、あんまり深くない事情が」

「深くないんだ」聡はいつもの、だけど教室で見るにはレアな笑みを浮かべた。

「分かった、行こうか。まずは職員室」

「え、でも」

「いいから」

 背中を叩かれて仕方なく、ランチトートを持って立ちあがる。そのまま連れだって教室を出ると、背後で話し声が復活した。四季が、聡が、あの四季が、あの聡が……。だが聡が涼しい顔をしているあたり、彼も私に似て、他人からの評価や目を気にしないのかも知れない。案外。

 職員室で鍵をもらい、初めてふたり並んで美術準備室に入った。聡は確かに丸腰だった。まだ元気な太陽の日差しが、火事になりそうなほど窓側をじりじり焦がしている。

「服は着てきました」

「当たり前です」私は笑った。

「でも、あんなふうにして、よかったのかな」

「何が」

「佳山さんは私が聡と話してることが気にいらないだろうからって、余計な火種をひろげないために教室で話しかけないようにしようって最初に言い出したのは、聡だよ」

「ああ、そうか、ごめん」聡は今思い出したように言った。「でも、あれなら大丈夫だと思う。俺が自発的に話しかけたんだから、四季が俺に近付いたっていう感じにはならないはず。もしつっこまれたら、俺が佳山さんを説得するよ」

「ややこしいのに、なんでそこまで」

「いや、購買のパン買うなって四季が言うから、なんでかなって気になってさ」

 私は「そうそれ」と言い、ランチトートの中身を机に並べた。

 今朝、ごはんを炊いて作ったそれは、おにぎりだった。ただごはんをにぎればいいのだと勝手に思っていたがどうやって具を入れればいいのかが分からず、ネットで調べた。梅干しと、おかかのふりかけと、海苔を巻いた塩むすび。それぞれふたつずつ、計六つ。ラップで個別につつんであるそれを聡は一瞬、あっけにとられたように見ていたが、「え、まさか」とつぶやいて私を見る。

「自分で?」

「そう、私が初めていちからぜんぶ作った、最初の料理」自分用のお弁当箱を出しながら言った。「作り方は京さんにメールで教えてもらいながらだったけど、ちゃんと自分でごはん炊いて、自分でにぎったよ」

 自慢げに話していたが、後半は尻すぼみになった。かっこよく三角形にしようとしたおにぎりはなんだか形が事件だし、ぎゅっとにぎりこみすぎて餅のようになってしまったかも知れない。そう考えると急に自信がしおれていった。

 ひとり心の中で悶絶していると、聡は無言でいつもの定位置に座り、手を合わせて「いただきます」と言った。私もあわてて席につき、反射的に同じことをする。聡は梅干しのおにぎりのラップをむしりとって、豪快にかじりついた。一気に半分がなくなってしまったおにぎりを静かに咀嚼する聡。私はお弁当箱の蓋を半分あけたまま手が止まる。やがて彼は微笑を浮かべ、シンプルに「おいしい」と言った。

「本当に?」

「おいしいけど……」

 聡は手で口元を隠しながらラップの上に何かを吐きだした。

 ……梅干しの種だった。

「まるごとっていうのはなあ」

 噛み砕くところでした、と言って聡が苦笑する。うわー、恥ずかしい、帰りたい、と思ったが、つられて笑ってしまう。

「ごめん、もう一個も同じだ」

 私は机に突っ伏しながら言った。彼は梅干しおにぎりを食べると、今度はおかかにかぶりついた。こちらはふりかけを混ぜこんだだけだ。それを食べて、同じように「おいしい」と言って笑う聡。塩むすびも同様。結局、私はそのあいだお弁当には手がつけられず、彼の反応を見ていた。ずっと笑ってくれていた。おなかがすいたお昼休みを、少しずつ幸福で満たすように。

 六つのおにぎりを完食した聡は、いつもよりことさらていねいにきちんと手を合わせ、軽く頭をさげて「ごちそうさまでした」と言った。私も頭をさげて、生まれて初めて「よろしゅうおあがりました」と言った。

 聡はラップをまとめながら、「こういうのっていいな」と嬉しそうに言う。

「学校で誰かが持ってきてくれた弁当食べるの、初めてかも」

「そうなの? 女子からわんさと餌付けされてるものかと」

「餌付けって」滅多に見せない、彼の吹きだし笑い。「じゃあ、これも餌付けなの?」

「まさか。単に、自力で作った料理を先生に味見してもらいたかったってだけ」

 料理と言うには違う気がするけれど。聡は笑いながら首を振った。

「味見だなんて、俺はこれに星つけて評価しようとは思わないよ。おいしかった。自分で作るより、断然。もっと欲しいぐらい」

「え、嘘、ただの塩むすびとか……」

「塩でも梅でも何でも、四季が頑張って作ったおにぎりっていう点がいちばんなんだよ。機械で大量生産されたコンビニのおにぎりとは違う。作った人の手のぬくもりが伝わってくるものが俺は好き。また食べたいから、そのうちもう一回作ってきてよ」

 そんな料理漫画みたいなことさらりと言うか……。そうは思ったが、聡は始終微笑んでいた。たった六個のおにぎりで、まるで焼き肉を食べたあとのように。

 私はこの笑顔が見たかったんだと気づいて、どうしようもなく嬉しかったから、鼻の奥が酸っぱいものを食べたときのように痛んだ。それをごまかすようにへろりと笑った。

 自分の作った料理で、誰かが笑顔になってくれる。冗談かと思うほど、それが嬉しくて。この瞬間を閉じこめてしまいたくて。だけどそれはできないから、力いっぱい笑って、そしてまた明日も頑張ればいい。それだけだ。

 ちいさなしあわせが、足元に転がっていた。それを知らせる声が、私にも聴こえた。

 聡はひとしきり後味を楽しんだあと、申し訳なさそうに眉をひそめて「ごめん、やっぱりちょっと足りない」と言って立ちあがった。ポケットから財布を出す。

「六個も食べたのに?」

「男の子ですから」彼が財布を手でぽんぽん遊ばせると、小銭の音がした。「今購買行っても、まだなんか残ってるよね。カルピスも一緒に買ってきてあげるよ。待ってて」

 そう言って彼は颯爽と美術準備室を出て行った。カルピスは、ちょうど私が「ちょっと抜けて買いに行こうかな」と思っていたものだった。聡が追加で食べたかったのは事実だろうが、そのついでに買ってきてくれるのは、おにぎりのお礼か何かなのか。

 彼が私の食べたいもの、飲みたいものを読んで、買ってきてくれる、作ってくれる。もうそんな些細な優しさが、寒空の下で食べる肉まんのようにあたたかい超能力だということに、私は違和感を持っていない。

 椅子に座って、膝の上で手の甲をあわせた。ふわっとした熱が、手から胸に伝わり、頬のあたりで丸くなる。それを逃がさないように、私は祈るように合わせた手を口元に当てた。

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