泥に塗れた白

九十九

泥に塗れた白

 家の隣には泥の塊があった。

 竹藪の中、いつでも、その場所だけは泥に塗れていた。

 


 物心ついたばかりの頃、少女は祖父に、あの泥は何なのかと尋ねた事があった。近づいてはいけないと言い含められてはいたけれど、どうしてなのか知らなかった少女は、興味本位で散歩の途中に祖父へと尋ねた。

 少女の小さな指は泥を指差していたけれど、彼女の祖父はけして泥の方を見ようとはせず、節くれだった手で指差す幼い指を丸めた。

 少女の祖父は青い顔をして、あれに近づいてはならない、と普段とはまるで違った、硬く低い声で私に言った。

 泥は危ないから近づいてはいけない。そう言い含められて少女は育った。

 少女の家には、一人特別な人が居た。血縁で言えば少女の叔母に当たる人だった。

 叔母は連れ添っていた人と別れてから、居候として家から少し離れた場所にある小さな小屋に住んでいた。

 少女は叔母が好きだった。昔からよく遊んでくれていたからだ。

 身近に同い年の子供の居ないかった少女は、けれども忙しい父母には甘えることが出来ず、よく一人で遊んでいた。

 そんな少女の元に叔母はよく遊びに来てくれたので、少女は叔母のお陰で寂しい幼少期を過ごすことは無かった。遊園地に連れて行ってくれたのだって叔母だったし、風邪を引いた日に看病をしてくれたのも叔母だった。

 ずっと一緒に居てね、と強請った少女に叔母は、ずっと守るわ、と少しだけすれ違った返事を返した。少女は叔母の返事に首を傾げたけれど、叔母が柔らかく笑ったので、返事のすれ違いすら気にならなくなった。

 少女は叔母が大好きだった。



 少女の大好きな叔母が死んだのは、泥の中だった。

 叔母は泥に塗れて死んでいた。



 ぎいぎい、と何かに強く指を立てているような音がする。或いは何かを木の板の上で引き摺っているような音がする。そうして音が続いた後、木々の騒めきが広がった。

 

 少女は聞こえる音に耳を塞いだ。布団を被り影の中に頭を突っ込むことさえ怖くて、ほんの少しだけ布団を引き上げて目を必死に瞑る。


 今日は誰も居ない。叔母の火葬で、皆出払ってしまった。

 本当は少女も行くはずだったのに、熱を出してしまったので家で留守番となった。母は残ると言ったけれど、叔母を自分の代わりに見送って欲しくて、少女は母を無理に押し出した。

 直ぐに戻るからと、何かあった時のために電話の子機や飲み物、ビニール袋なんかを少女の周りに置いて、父母と祖父は心配そうな顔で火葬へと出掛けた。


 ぎいぎい、ぎいぎい。

 再び音が訪れた。

 音は近づいては離れ、離れては近づきを繰り返しては、時折ぴたりと止んだ。家鳴りではない、まるで何かがそこに居るかのような音が、しんとした空間に響きわたる。

 ぎいぎい、ぎいぎい。


 不自然なくらいの静寂が訪れた。


 不安で手に汗が集まり、手の平が冷えていく。熱で流れた汗が、鼓動の早さと一緒に冷えていき、少女は布団を強く掴んだ。

 目が覚めると鳴り響いていた音は、継続的に鳴り続け、少女の心をまるで細い錐で穴開けるように蝕む。

 次に目を覚ましたら、頭上に何かがいそうで、少女は震える瞼を必死に押し下げる。

 耳には五月蠅いくらいの鼓動の音が聞こえるのに、秒針の音はまるで耳元で鳴っているかのように鮮明だった。

 少女は何かに巻き込まれているのかも、それとも何にも巻き込まれていないのかも分からずに、布団の中で小さな身を縮こまらせた。


 いつもなら。そう、いつもなら叔母が傍に居るのに。

 少女は震えて、家族の、叔母の帰りを待った。


 ごとり。

 静寂の中で、なにかがドアに当たった。音は硬いような気がする。そう例えば、少女がドアに頭をぶつけた時のような。


 少女は咄嗟に悲鳴を呑み込んだ。喉がひきつき、息が荒くなる。恐ろしくて、目を開く勇気は少女には無かった。誰が居るのかなんて確かめる気なんて微塵も湧かない。

 少女が布団の中で震えて居る間にも、またドアに何かが当たった音がした。


 ごとり、ごとり。

 不規則な音で何かがドアに当たっていた。その代わりに、何かを引き摺る音はどこからも聞こえない。

 ごとり、――。

 ドアが軋んだ音がした。


 瞬間、木々の騒めく音が一層強く響く。

 先の騒めきの比では無い程の大きな音だ。さらさら、こつこつと鳴り響く音を聞いて、少女は竹林の音だと気付く。散歩の時、叔母と遊んでいた時に何度となく聞いた音だ。


 少女は咄嗟に目を開いた。丁度、その時、玄関から家族の声と、同時に母の悲鳴が聞こえた。

 母の悲鳴にそれまでの恐怖も忘れて、少女は布団から抜け出した。一瞬だけドアノブを捻るのを躊躇したけれど、慌てるように名前を呼ぶ祖父の声に少女はドアを開けた。



 扉を開けた先、そこに有ったのは泥と灰だった。

 黒い泥を覆い隠すように、真っ白な灰が広がっていた。

 


 母がやって来て少女を泣きながら抱すくめた。父と祖父は叔母のお陰だと泣いていた。

 少女は灰の中に、小さな小さな白い石があるのを見つけて、それをそっと拾って小さな拳で包み込んだ。


 白いそれは、温かかった。

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泥に塗れた白 九十九 @chimaira

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