望まぬカルネアデスの板

新巻へもん

生存者の苦悩

 俺は行きつけのバーに足を向ける。もうどうにも飲まなきゃやっていられない気分だった。鼻の奥にこびりついた匂いを消すにはアルコールの力を借りるのが一番だ。今回の任務がこんな結末を迎えるのを分かっていたなら志願するのをやめただろう。

10数時間前の自分にメッセージを送れるなら今月の給料全額を払ってもいい。


 俺は軍人だ。正直品行方正とは言い難いが、戦えと言われれば戦地に赴くし、死ねと言われれば、嫌々ながらも死ぬ覚悟はできている。圧倒的な戦力を誇る異星の艦隊に有人機動ユニットで突っ込んだこともある。その時は文字通り死にかけた。だが、今回の任務の後味の悪さといったら比較にならない。


 バーの扉を開けると顔なじみのバーテンダーが笑顔を見せた。

「ご注文は?」

「スコッチストレート。ダブルで」

 バーテンダーはほんの一瞬だけ動きを止めるがすぐに支度にかかった。


 さすがプロだ。俺のひでえ顔色やいつもと違って強い酒から始めることについても詮索めいたことをしてこない。古めかしい紋章がラベルが張られた瓶からきっちり指2本分より僅かに大目に琥珀色の液体をそそぐ。この押しつけがましくない気遣いも心地よい。


「お待たせしました」

 カウンターに置かれたグラスを一気に呷る。カッと喉の奥が熱くなり、食道を通って胃を焼いた。鼻腔をくすぐるスモーキーな香りが、俺の心のささくれをゆっくりと溶かしていく。


 お替りを頼むと、バーの入口が開く気配がする。

「あら。曹長。随分と早くからご出勤?」

 首を捻じ曲げるとルビーのような赤毛をふんわりとまとわりつかせた美人が俺に向かってほほ笑んだ。俺はおざなりに敬礼をする。


 シュワルツ中尉は俺の横のスツールに滑り込んできた。何かいい香りがする。

「マティーニを頂戴」

 中尉は俺の横顔を視線でひとなでするが何も言わない。俺と中尉の飲み物が出てくるとお互いのグラスを掲げた。


「いい軍人は……」

「生き延びた奴!」

 お約束の音頭でグラスを傾ける。今日ばかりはこのセリフも忌まわしい。2杯目は舌の上に転がすようにして味わった。ほっと溜息をつく。


「中尉。いい香りがしますね。何か付けてます?」

「それを聞いてどうしようっての?」

「誕生日にプレゼントしようかと」

 中尉は形のいい眉を上げる。


「光栄だけど遠慮しておくわ。それで何があったの?」

 さすが衛星カリストに名を知られたエースパイロット。元部下の表情を読むのにも長けている。俺は逡巡して、時間稼ぎにグラスに口を付けた。辛抱強く中尉は俺が口を開くのを待っている。


 中尉は3階級も上の軍人にしちゃ話が分かる人だ。前に口説こうとしてヒールで思い切り足を踏まれたこともあるが、その後もこうやって出会えば他愛ない会話に付き合ってくれる。もう脈は全くないが、それにしても、長い夜を前にこんな話を聞かせてもいいかどうか。


 俺は壁のモニターに映し出されている臨時ニュースに視線を向ける。宇宙船の脱出シャトルから生存者が一人発見されたというテロップが流れた。遠くからの撮影だが、若い女性が両脇から抱えられてシャトルから運び出される映像が映し出されている。

「後で怒んないでくださいよ。あまり気持ちのいい話じゃないんで」

 

 中尉に断って話し出す。

「俺、あのシャトルのサルベージに動員されたんですよ」

「あの女性だけでも助けられたんだから、気にすることはないわ」

「彼女もそう思ってますかねえ」


「どういうこと?」

「地球を出発した高速船ルイ・パスツールが異星の宇宙船に攻撃を受けて航行不能になったのが、地球と火星のほぼ中間点。6名のクルーが脱出用のシャトルに乗り込みました」


「ええ。他の5人は気の毒だったけど……」

「シャトルはあらかじめ定められた進路をオートクルーズ。メインエンジンフル加速でも木星までは150日かかる計算です。駆動系と連動している水再生システムと空気循環システムは問題ありませんでしたが、シャトルの定員は5名。食料はその10日分しか積んで無かったんです。本来は僚艦が救助するはずですから」


「それじゃあどうやっても食料が持たないわ。なんで彼女は助かったの?」

「ええ。小学生でも分かる計算です。いくら1食当たりの摂取量を減らしてもカロリーが足りないんですよ。でも、クルーの全員が死ぬわけにはいかなかったそうです。彼女は暗い顔で私たちは薬だからと呟いてました。俺にはなんのこっちゃか分かりませんでしたけどね。彼女の生存を報告したら司令部では安堵の声が上がってましたよ」


 異星の強大な艦隊を前にして眉一つ動かさなかった中尉の顔が目に見えて強張る。

「彼女が一番小柄で基礎代謝量が少なかったそうです。カルネアデスの板でしたっけ? 古代じゃ難破船の舟板を争ってしがみつく他の人から奪ったそうですが今回は押し付けられたんですよ。まあ、俺は彼女の立場にはなりたくないですね」


 俺は凄惨な光景を思い出し、血の匂いが蘇る。込み上げてきたものを戻さぬように俺は残ったウイスキーを飲み干した。

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