マット・イーター

 松本一太、四十二歳、教銘高校体育教師。通称マット・イーターは有肢菌類に在する十八の名家とは程遠い系列を持っている。


 所謂いわゆる、下層階級。とはいえ、有肢菌類の大部分は胞子ネットワークに相互接続しているために階級意識など皆無に等しい。


 意識、財産までも共有化した社会では、貧富の差や不公平はありえない。ただ四大種族のバランスだの、迷走する人類を操作しろだの、海洋生命体には手をだすなだの、という漠然とした指示があるだけだった。


 それ以外は何もかもが自由。今日もネットワークには爬植石生物と人類、我々の情報トピックスが垂れ流されているだけで毒にも薬にもなりはしない。


 環境論者は行きすぎた人類の大量絶滅を唱えているが、この胞子ネットワークが発達しきった社会では、強い意志など何処にも存在しないと思っていた。あくまで集団的無意識に従うことが善とされているからだ。


 喜怒哀楽、特に低俗なマイナス思考。孤独は存在しない。すべての有肢菌類が繋がっているのだから、寂しくなる暇などないのだ。裏切りや駆け引き、陰謀も、他の種族を貶める武器でしかない。


 そう思っていた。進化の頂点に君臨し、愚かで知恵のない生物を支配する神々のような生活が何千年も続いていたのだから、疑いようもないじゃないか。


 だが、たったの四日前に事態は急変した。名家、通称センリツは俺を残して回線を強制的に切断した。そして去っていった。


 どんな場面だろうと、ことを急くのは良くないってわけだ。実のところ、野口こいつを私兵にして支配する欲求は薄れていた。


 恥ずかしいはなしだが、俺は野口という底無しに拡張する器に魅了されていた。原始的な本能が、そこに自ら入りたいと訴えていた。


 支配ではなく、融合しようなんて欲をだしちまったわけだ。その時間はたっぷりとあった。何年も前から骨格強化細菌から筋肉増強細菌、治癒力活性細菌や反射微生物まで取り込んで設計士気分を味わっていた。


 蜘蛛の巣状に張り巡らせたバランス重視の設計図が出来上がった。研究者きどりのセンリツは喉を鳴らし称賛した。


 考えるに、やつは人類の感情的な部分から何かを得ようと画策していたようだ。我々にはとうの昔に失われた感情を人類は大切にしているから、興味が湧いたのだろう。


 混血融合体ハイブリッドジジイからは強靭さを学び、センリツから集合意識を放棄する手立てを学んだわけだ。


 得体の知れない老人を三階から突き落とし罠にかけ、無数の鉄柵を刺してすべての部位に巣食っていた蜘蛛を散らし、なんとか逃げ仰せた。命からがら。


 おいおい、我らは地上最強・最悪の生命体じゃなかったのか。馬鹿げた生命力の怪力ジジイを相手に逃げまわっている三日の間、俺は学んだね。


 本当の意味で学んだ。まず、俺は強くなりたいという感情を持っていること。支配なんかより爽快で単純な破壊願望だ。


 ジジイをコンクリートに叩き付けて実感した。じっさい俺には強者の才能があると。


 もうひとつ。胞子ネットワークを放棄するという選択は、あながち間違いではないということ。逃げるため、だけでなく。


 今は健やかで順風満帆な気分を味わっている。なぜ名家や集合意識なんかの指示に従っていたのか。


 人間同様、ネット依存症になっていたのだ。そんな環境から少し離れてみてつくづく気付かされる。とどのつまり、進化はどんずまり。


 俺は確実にひとかわ剥けた。思考を凝らし、独立した成長をする未来を選んだ。多様性っていうやつだ。騒がしい声や情報は必要ない。


 優雅な音楽を楽しんでいるように、充実していた。計画はまず野口鷹志を支配下に置くことだった。いや、正直にいうと俺は融合しようと大切な神経細菌を剥き出しにして、やつに乗り移ろうとしていた。


 そこに一撃もらっちまうとは驚いた。こんなトロ臭い連中に。


 見てみろ、どいつもこいつも動きはまるでスローモーションだ。理由ははっきりしている。個体数に限界があって、他に意識が回らなかったというだけだ。


 しかし何だって……待てよ。この三人はサッカー部にいたな。入学そうそう、記憶と成長ホルモンに手を加えたやつらだ。


 ホルモンバランスをいじっただけで退部して、やさぐれた低能のごろつきだ。少しは野口を見習えと言いたいね。少なくともお前らみたいな不良にはならなかった。


 少年サッカーか。野口には親友がいたはずだ。うまく思い出せないが、あいつは特別に『賢者』直々の洗脳を受けたと聞いている。


 少年サッカーが関係あるのか? ネットワークを使わないと、こういう情報が入ってこないのが問題だ。事態が落ち着いたらいろいろと調べるのもいいだろう。


 さて、前置きはいいとして。そろそろこいつらを始末するとしよう。優雅にスローなバラードを聞いて鼻歌をうたいながら華麗にきめるとしよう。標的は四人、俺と蜘蛛が四体。


 野口は軸足を捻っている。足元の蜘蛛一体へロングキックをかますつもりだ。横に立っている間抜けな金髪は伊藤だな。


 なら、伊藤の首と一体を蜘蛛糸で繋いでやろう。さあ、どうする。蹴り跳ばした瞬間に伊藤くんの頭は一緒に弧をえがき飛んでいくぞ。


 なかなか笑えるな。背後で鉄パイプを振ってくれたのは同じく金髪ロングヘアの金子か。お前はただで済むと思うな。


 後でゆっくり生きたまま体液を吸ってやる。貴重な神経細菌は貴様が浴びるためのものじゃない。両手両足をぐるぐる巻きにして連れて帰るとしよう。そうだな、二体で同時に糸を吹きかけるんだ。


 いい具合になってきた。鉄パイプか、警棒を持っていたはずだが、何で持っていないんだ。どこへやったんだろうか。


 こいつは橋本か。低能の馬鹿なくせに洒落た眼鏡なんかしやがって。お前が持っている武器は何だ、スタンガンなんか校舎に持ち込みやがって。一生、停学にしてやるぞ。


 眼鏡は最後の蜘蛛に向かって、スタンガンを発射した。ネットのような白い紐が緩やかに広がっていく。明後日の方向に。


 笑わせてくれる。のんびり午後のティータイムでも楽しむ余裕がありそうだ。お前みたいなバカは細切れにして小型の蜘蛛たちの餌にしてやろう。


 蜘蛛糸を高速でしならせれば、鋭い刃へとかわる。指先から少しずつスライスしてやろうか。一気にはらわたがいいか。


 

 パリパリッ……。


『!?』


 煙をはいて、ビクビクと痙攣しながらしなだれる蜘蛛をみた。スタンガンは警棒を狙っていたのだ。その鉄製パイプの先は、俺のかわいい蜘蛛に刺さっていた。


『か、感電死……だと?』

 

 内臓に直接、スタンガンが撃ち込まれたのだ。鉄の電導率は低いはずだが、こいつは銀でコーティングされている特別製。


『け、警棒が……避雷針になったのか』

 

 偶然ではない。こいつらは精神感応者テレパスに覚醒したに違いない。とっさに味方の動きに攻撃を併せたとは信じられない。


 パァン……。


『!!』


 唐突に、野口の足元にいた蜘蛛が……破裂した。粉砕された八肢は影も形もなく飛び散っていた。美しい弧を描いて、伊藤の首と共に空を飛んでいるはずだった蜘蛛は、もういない。


『……の、野ぐぅちぃいいいっ!!』


 なんという速さと破壊力。たったの数日で、改造された肉体を使いこなしたというのか。いや、細菌の浸透圧から算出してあり得ない。


 金子を糸で丸めている場合ではない。今すぐ、本体の俺をカバーして一時離脱するしかない。こいつらは、ただのガキじゃない。


 ど、どうした。蜘蛛たちが動けない。校舎から両手を広げながら走ってくるブラウス姿の女がいた。二組の生徒か?


 間抜けなポーズとはうらはらに親のかたきをみるような形相で睨んでいる。よくよくみればいつも笑顔の羽鳥舞じゃないか。この学園じゃあ、そこそこ人気のある女生徒だが。


 勇ましい顔つきに鼻血まで出ていやがる。どうやって蜘蛛の拘束をといたかは知らないが、部外者に構っている場合じゃない。


『……?』


 その両手が、ぐっと握られると同時に。二匹の蜘蛛は歪曲した空間に捕らえられた。


 グチャ! バシャッ!!


『な、何っ!!』


 真上から野口が飛びかかってくるのが見えた。スローモーションで。それはそうだろう、俺は知っていたじゃないか。


 ――こいつは強い。俺よりも、誰よりも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る