有肢菌類

 太鼓腹がムクリと立つと、青ジャージに包まれた両手両足が、まるで意思があるみたいに無作為にぼこぼこと蠢いた。


 うねうね、ピクピクと奇妙な物体はいつか顕微鏡でみた微生物のように動いていた。


「野口!」イトりんがいった。「こいつから離れろ!」


 僕の腕をつかんで、体を持ち上げるために肩へまわした。彼の手が震えているのが分かった。


 ハッシーとカネちゃんは顔面蒼白で警棒とメリケンサックを構えて松本に、にじり寄っていた。僕からヤツを引き離すためだ。


「……」


 上下が逆さになった松本の顔はあんぐりと大きな口を開けていたかと思うとパクパクと閉じた。池の中から口をだす醜悪な鯉のように見えた。


「二人ともひよってねーだろうなっ! こいつは人間じゃねぇぞ!!」


 青白い液体をかぶったカネちゃんは動揺しながらも勇敢に鉄製の警棒を真横に振り払ったが、手応えのないままスルりとジャージだけが地面に落ちた。


「!!」


 分裂。黒いのような物体が見えた。サッカーボールほどの大きさの五つの物体が飛散し、僕らは目を疑った。ずれかかった眼鏡を直しながらハッシーは動揺の声をあげた。


「く、蜘蛛だ。蜘蛛の化けモンだぁ」


「ひ、ひいいぃ!」


 恐怖がこの場を包んでいた。三人ともはじめてみる化け物に腰が抜けたように後退りした。それでも、僕は冷静さを取り戻していた。


「……」


 怖くはなかった、嘘ではなく。今までずっと怯えてきたのは一人だったからだ。ずっと僕は自分が置き去りにされた迷子だと感じていた。


 何ヵ月も、いや何年も。だけどカネちゃんやハッシーは僕を覚えていてくれた。これがどれほど僕に勇気をもたらすことか。


 それに怯えて生きてきた僕に強みがあるとするなら、本当に怯えるべき状況が唐突にやってきても、それを平気だと感じることができることだ。


 負け続けてきたこと。無理なことを無理だと思い込んで、怒りも努力も自分に向けてきたこと。


 自分のせいにして、自分だけの世界で身体を鍛えることしか出来なかった。でも、こんな状況になって初めて気が付いた。まだ、僕はみんなと繋がっていた。


 もし居場所があるなら、もっと繋がっていたい。僕の得意な場所、ディフェンダーで敵をマークし、左サイドからのロングキックを決めてやる。


「みんな下がってくれ、僕が倒す。ぼくが戦わなくちゃ、ぼく自身が向き合わなきゃ、前には進めないんだ!」


 立ち向かわなきゃ、僕の時間は本当の意味で止まったままだと気付いた。戦わなくちゃ、何も変わりはしない。


「ゴールは……いいや、みんなは死んでも守る」


 五年前の台詞が自然と口にでていた。僕は助走をとり、軸足を思い切り踏み込んだ。



        ※


 数分前。


「きっ、キモいいいっ!」


 キモい以上の言葉を探しても思いあたらなかった。羽鳥舞は、思わず図書室で雄叫びをあげていた。


 あの動きは有肢菌類に違いない。あらゆる生物に寄生、融合を繰り返すことで進化した変異生命体。ふと、となりに立ち尽くしていた初音に目を向ける。


「は、初音さん!?」


「……」


 そこにいた同級生はさっきまでとは別の存在のように静止していた。突きだした右手が宙をつかむようなポーズで止まっている。


「……」


 静寂、日は沈もうとしていたがまだ暗くはなっていない。


 ――この時間旋、何かおかしい。


 時間旋とは有脂菌類の使う次元を操る特異能力である。単に時間を止めているというわけではない。


 そもそも時間の流れを完全に止めることなど、いかに進化した彼らであっても不可能だ。


 水をたっぷりと溜めた浴槽をイメージして欲しい。栓を抜けば、当然渦を巻いて水は流れ落ちていく。だが流れの早い場所がある一方で、まるで水の流れが止まっているかのような場所も存在する。


 この場では時間がとまっているように感じるが、どこか別の場所では時間が速く流れているというだけの話。


 世界中に張り巡らされた胞子ネットを駆使してはじめて、この時空間の流れを操作することが可能になる。


 それこそが有肢菌類を最強、最悪の生物足らしめる能力といえた。証拠隠滅や影での陰謀、支配はお手のものだ。


 こちら側には連中が一瞬のうちにあらわれたり消えたりするようにしか見えないのだから、戦いにすらならないのだ。


 まさに別次元の生物。だが抜け道がないわけではない。時間旋のなかではその影響を受けない個体や物質を破壊することが出来ない。


 壊れた教室や破壊された窓などが、時間旋を抜いた瞬間、あっというまに復元したかのように見えるのは、そのためだ。


 この影響を受けつけない個体は有肢菌類にとどまらない。羽鳥舞わたしのような情動感応者エンパス、野口鷹志のような感染者キャリアー、あるいはタナ-やアッシュのような混血融合体ハイブリッドにも該当する。


 だが校門に立つ三人の不良はまったく普通の人間だというのに、自分の意志で動いている。この状況が理解できなかった。


 白昼堂々とこんなにも早いタイミングで現れた松本にも、感知能力で一枚上手でいると信じきっていた自分にも、この世界では誰も安全ではないという現実にも腹がたった。


「……くそっ」


 松本は胞子ネットワークを使っていないのかもしれない。使っていればこの私に感知できないはずがないのだ。


 だとすれば『時間旋』を展開しているのは誰か別の存在なのだろうか。何を見落としているのか見当もつかない。


「ふう。こんな顔をみられたら、初音さんにどこが学園のスマイル担当だって笑われちゃうわね」


「……」


「!!」


 動いた。いや、動いたように見えた。彼女の長く豊かな黒髪に光が反射しただけのようだった。わたしは他に誰も居ないはずの教室を見回して大きく開いた両手をかざした。


(何かがいる……)


 黒板の隅に張り付いて、僅かに蠢いている黒い影があった。見逃してしまうほど小さな蜘蛛をじっと見つめた。


(お、落ちつくのよ……)


 接触領域の距離を短く感じられるように速いテンポで念波を刻んで送る。速くていいときはさっさと速くやるのが大切。


 観念動力サイク。あまりに繊細で、ふつうの人間には感知できない領域に手を伸ばし、掴むっ。


「……っく!!」


 羽鳥舞が左手で宙を掴んだ瞬間、黒板の小さな蜘蛛が押し潰された。静止している生徒たちには一人に一匹、この蜘蛛が付いているようだ。


 蜘蛛糸が直接、動きを封じているのだ。彼女の髪からフワリと一筋の糸が垂れ落ちる。感知出来ない胞子ネット、時間旋の正体は。


「……有線ネットワークだからだ」


 初音の頭部からも糸が繋がっていた。だが彼女にはそのまま静止してもらっていたほうがいいと思った。


 ガラリと図書室の窓を開けると、めくれるスカートも気にせず校門に向かって跳んだ。


 静止させられている生徒は初音以外にふたり。さんにん、よにん、五人いるようだ。静止しているだけなら放っておいたほうがいい。


 無理に倒して本体に気付かれることは避けたい。腰を低く、花壇に刺してあった小さなシャベルを掴み、まっすぐに走る。


「……はぁ、はぁ」


 まだ間に合う。でも、勝てるだろうか。あの三人組は弱すぎて駄目だと思った。動けなければ死なないで済む『時間旋』とは違う。


 松本の裏をついたのはいいが、すぐに殺されるだろうと思った。野口に手をだした不良が、報いを受けるだけだと割りきるしかない。


 タナ-とアッシュは野口鷹志を守るようにと、私に依頼した。それ以外の連中の面倒までみることは出来ない。


 でも、やつは胞子ネットワークを使っていない。単独行動だとしたら……勝機はチームワークにある。

 

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