第3話 残光魔法少女

 

 消防車や救急車のサイレン灯は、まるでわたしの家を照らしているようだった。

 人ごみを掻き分けた先、あまりに馬鹿馬鹿しい光景を見た時、わたしはどんな顔をしていただろうか? 泣いていたのか、ひょっとしたら笑っていたのかもしれない。


『隕石が落ちたらしい』


 誰かが言った。


 削り取られた、というより消えてしまったと呼んだ方が正しいように。わたしの家はちょうど半分が無くなっていた。

 乱れたブラウスに裸足のまま立ち尽くすわたしへと、ひとりの警官が駆け寄ってくる。この家の住人だとわたしが告げると、上司らしい私服の中年を呼んでくれた。彼は夏だというのに刑事ドラマで見かけるようなヨレヨレのコートを羽織っていた

 ヨレヨレコートの刑事さんが要領を得ない説明を始める。


「隕石が落ちた……そう付近の住民は言っているんだけど……本当のところはまだ、分からないんだ」


「わたしの……わたしの、家族は……」


 刑事さんが俯く。


「当時、隕石が落ちたらしい家屋の方にはいなかった。だけど、その衝撃波の被害にあったようだ」


 わたしの目を真っ直ぐ見て、刑事さんが言った。


「これから緊急搬送された病院まで、君を送り届けるよ。だが……救急が駆け付けた時には君のご家族はもう……」


 泣き崩れるわたしを、刑事さんはそっと抱きしめてくれた。



    ◦



 お父さん。


 お母さん。


 そして、あーちゃん。


 きれいな顔で、三人とも眠っているようだった。

 病院の霊安室で、この夜、わたしの家族はみんなが顔をそろえた。

 最初に発見した時、まるで君の妹さんを守ろうとしたみたいに、君のお父さんとお母さんはその小さい体に覆いかぶさっていたんだ――パトカーで送ってくれる途中、刑事さんが説明してくれた。

 多分、じゃなくて絶対に、お父さんとお母さんはあーちゃんを守ろうとした。

 だけど、結局あーちゃんも助かることはなかった。

 わたしの家族はみんな死んでしまった。

 わたしは悲しかった。

 その場に居合わせられなかったことが。

 魔法少女として。

 家族として。

 わたしは何度もその名を呼ぶ。


 お父さん。


 お母さん。


 あーちゃん。


 けして応え返してくれないとわかっていても、その名を何度も。何度も。

 ふいに霊安室のドアが開く。

 そこには、ヨレヨレコートの刑事さん。


「交番に保護されていて助かったみたいだ」


 やるせなさそうな、力ない笑顔で刑事さんは言った。

 その後ろから、辺りをきょきょろと伺うおばあちゃんが顔を出す。


「もえぎ。あたしはなんでこんなところに連れてこられたんだろうか」


 きょとんとしたままのおばあちゃんに縋りついて、わたしは泣いた。



    ○



 結局、他に行くところもない私たちは、翌日自宅へと帰った。

 でも、それが一番だと思う。寂しい霊安室よりも、家で過ごせる方が。

 看護士さんたちの善意で、車を出してもらえたのはありがたかった。わたし一人では一人ずつも連れて来られなかったと思う。

 エアコンのキンキンに効いた居間で、三人は横になっている。きれいな顔のままで。


 本当に馬鹿みたいな話だけど、半分だけになった家は二世帯住宅の一世帯がダメになっただけみたいに、普通に使えていた。これから思い出をたくさん作っていくはずだったわたしの部屋も、あーちゃんの部屋もなくなっちゃったけど、今はこれで十分だった。

 日中はわりとはっきりしているおばあちゃんは、居間のすみに小っちゃく座ってみんなの顔を眺めている。


「おばあちゃん、わたし少しだけ出て来るね」


 わたしが声をかけると、おばあちゃんは不安げな顔をした。

 だから、わたしは無理やりに笑って、言った。


「すぐ帰るから」


 玄関を抜けると、これから本格的な季節を迎える夏の陽が燦々と降り注いでいた。その中をわたしはひとり歩き始めた。


 白壁の校舎が見えてくる頃、わたしの中学の制服は、魔法少女の正装たる〝魔法装束マジカルドレス〟へと形を変える。


 時刻は正午過ぎ。

 早々とお昼を終えた女子生徒がふたり、下駄箱を過ぎた廊下、『不審者注意』のポスターの前で話し込んでいた。


『……ちゃんが、先週『コスプレババア』に……』


『……ねぇ。あれって『マホウショウジョ』じゃない?』


 新しい種を見つけた噂話を背に、『マホウショウジョ』のわたしはリノリウムの廊下を行く。

 教室のドアを開けた瞬間、生徒たちの目はわたしへと集まる。


 驚き。


 同情。


 好奇心。


 その中に、ひどく充血した瞳。


 宮藤よすがの机に集まる数名の中に、不来方しずくの姿を見つけた。

 私が進むと、道を開けるように散り散りになっていく生徒たち。

 やがて、宮藤よすがの机にたどり着くころ、頭に包帯を巻いた持田が尻餅をついた。

 不来方しずくは、真っ赤な目を見開いて、だけど尻餅をつくことも出来ないみたいに立ち尽くしている。

 わたしは不来方しずくに向けて、〝魔法杖マジカルステッキ〟の莫耶ばくやを振りかぶる。


(だめバクよ! バクの力を人に向けてはだめバクよ!――)


 莫耶の声が聞こえた。

 でもそれを無視して、


「スターライト☆キャンディチャイム!!」


 生徒たちの視線が集まる中で、わたしは叫んだ。

 だけど、この魔法が人に及ぼす効果は何ひとつもない。そんなの分かり切っていたことだった。


「スターライト☆キャンディチャイム!!」


 それでも叫ばずにはいられなかった。

 

(ダメバクよ……あさぎ……バクの――)


 苦しげな莫耶の声が、次第に聞こえなくなっていく。

 わたしはもう涙も流せなかった。言葉を絞り出そうにも、口から出てくるのは獣のような唸り声だけ。

 項垂れて踵を返すその間際、不来方しずくの青ざめた顔が見えた。わなわなと震える唇と、見開いた瞳の端に光る後悔。でもそんなこと、どうでもよかった。

 きっと、宮藤よすがは相変わらずスマホでもいじりながら退屈そうにあくびをしていることだろう。たけどそんなこと、もうどうでもよかった。

 力なく〝魔法杖マジカルステッキ〟をぶら下げて、わたしは教室を後にした。



    ◐



 通り過ぎる車両のヘッドライトに、〝魔法装束マジカルドレス〟のチェリーピンクが時々煌めく。

 どこをどう歩いてきたのか。気づけばわたしは夜の街にいた。

 理由なんてあるはずもない。理由のないわたしは、けして見つからない理由を求めて、夜の街をとぼとぼと歩く。


 問いかけても、莫耶が返事してくれることはなかった。

 人に対して、杖はその効力を発揮することはできない。無意味なことには違いない。だけど、魔法少女は決して人に杖を振りかざしてはならない――鴇子おばちゃんはそう言っていた。

 人類の味方という宿命を背負った魔法少女の『禁忌』をわたしは侵してしまったのだ。

 だから、もうわたしは〝魔法杖マジカルステッキ〟の声を聞くことは出来ない。つまりわたしは魔法少女としての資格を喪失したのだ。

 だけど、それすらもうどうでもよかった。


 夜の街の路地裏。並んだポリバケツの隣に座りこんで、わたしは流れゆくテールランプをぼんやりと見つめる。分厚い雲に覆われた月のない夜。濃い闇の中、わたしの姿は誰の瞳にも映らない。

 賑やかな飲食店の舞台裏みたいな路地裏に点々としているのは、嘔吐物といつからともしれない水たまり。鮮やかだった〝魔法装束マジカルドレス〟の裾は泥にまみれ、下着は泥水を吸っている。

 でも、何も感じないわたしはただそこにいるだけ。誰かの何かだったものを詰め込まれて、そこにあるポリバケツと同じ。何かが詰まっていたはずのわたしもまた、ただそこにいるだけ。


 テールランプのまにまに、行き来する人の足が見えた。右から左に。左から右に。帰るべき家と、帰りを待つ人がいる彼や彼女らはまっすぐその先を目指す。


 わたしにはもう何もなかった。


 だからその人たちをうらやましいとも思っていなかった。


 なのに、なんでわたしはそこに居続けたのだろう。そして、なんでどこかの誰かに視線を彷徨わせ続けていたのだろう……。


 わたしはきっと、声をかけて欲しかったのだ。

 

 いつもみたいに。

 

 お母さんに。

 

 お父さんに。

 

 そして、あーちゃんに。

 

 いつもみたいに――帰ろう、って。

 

 わたしはきっと、声をかけてくれる人を待ち続けていたのだ。

 それに気づいた瞬間、わたしの両目からポロポロと涙が零れ落ちた。


「会いたいよぅ、お母さん」

 

 わたしが顔を覆うと、いつの間にか張り付いた蜘蛛の巣が両手の指に絡みつく。


「会いたいよぅ、お父さん」


 無慈悲にも、泥と埃まみれのわたしを照らすように雲はゆっくりと晴れ、月が顔を出す。


「会いたいよ……。会いたいよぅ、あーちゃん」


 一人ぼっちのわたしを見ているのは、空に浮かぶ月だけ。それは見事なまでに満ちていて。なおさらに照らしてくる月光が眩しかった。目を背けるわたしは、顔を膝に埋めた。

 誰にも気づかれてはならないという宿命を背負った魔法少女。もう魔法少女じゃないのに、わたしは誰に気づかれることもなく一人泣きじゃくる。


 その時だった。

 

 誰の目にも映らないはずのわたしの前に、一つの影が立っていた。

 蜘蛛の巣の張り付いた指の間に見えるのは、紛れもなく少女の両足。ハイカットのスニーカーから徐々に見上げていった先で、一瞬月明かりに目が眩んだ。それでも、目が眩もうが眩むまいが、わたしがその顔を見誤るはずがなかった。


『おねえちゃん』


 月明かりを背に、あーちゃんが立っていた。

 わたしは何度もその名を呼んだ。未練がましく持っていた〝魔法杖マジカルステッキ〟を放り捨て、躓きながらも駆け寄る。泥と蜘蛛の巣で服が汚れるのもお構いなしに、わたしはあーちゃんへとすがりついた。

 わたしは夢かもって思った。そして夢でもいいって思った。

 わたしはただの子供みたいに泣きじゃくった。そんなわたしをあーちゃんはずっといい子いい子してくれた。どっちがおねえちゃんか分からない。あーちゃんはまるでおねえちゃんになったみたいに、そしてお母さんになったみたいに、わたしが泣き止むまでずっとそうしてくれた。


 わたしが落ち着くのを見計らったように、あーちゃんがわたしの顔をハンカチで拭う。わたしが精いっぱいの笑顔で、えへへと笑ってみせるとあーちゃんは小さく頷いた。

 少し安心したようなあーちゃんの顔に、だけどすぐに別の色が浮かんだ。それは、困ったような、悲しんでいるような、そして怒っているような、何とも複雑な表情だった。


『おねえちゃん、聞いて。時間がないの』


 ふいに放たれた一言に、わたしはあーちゃんの両手をぎゅっと握りしめる。あーちゃんがどこかに行ってしまうと思ったからだ。

 あーちゃんは強く握られた手を痛がることもなく、話し続ける。


『もうすぐ……』


 だけどその言葉は、


「あれは鴇子ときこがやったことだな」


 別の声に遮られた。

 

 路地へと、短くなったタバコをふかしながらやってきたのは、家で待っているはずのおばあちゃんだった。



    ◉



「おばあ……」


 うわ言のように呟くわたしの足元をちらと見て、おばあちゃんは煙を吐きながら言った。


「あたしの杖を持ってたのは、もえぎ、やっぱりあんただったんだね」


 路地裏に転がる〝魔法杖マジカルステッキ〟をおばあちゃんは拾い上げ、そして海老茶のブラウスの裾で拭った。そして根元まで吸い切ったタバコを、さっきまでわたしが座り込んでいた水たまりに放った。ジュッと火の消える音を聞き終えて、おばあちゃんは同じ言葉を重ねる。


「あれは鴇子のやったことだな」


 あーちゃんがこくりと頷いた。

 あーちゃんを見るおばあちゃんの目に、いつものどんよりした色はない。そこにあるのはかつての横顔。しゃんとしていた頃のおばあちゃんがそこにいた。

 ズボンのポケットをまさぐり、新しいシケモクにおばあちゃんは火をつける。ゆっくりと煙を吐いた後で、穏やかで厳しいかつての瞳をわたしに向けた。


「もえぎ、お前は自分が退治していたものの正体を知ってるのかい?」


 射抜くようなその目に、わたしは唾を飲み込んでから言った。


「あ、あれは世の中の不純の集合体、『セルライト』と呼ばれる……」

 

 わたしの言葉を遮って、おばあちゃんは鼻で笑った。


「鴇子にそう教わったか。だが、違う。そんな大それたものじゃあないよ。真の名を木のみたまと書いて、『木霊コヅチ』。どちらかといえば妖精だとか精霊に近い存在さ」


 わたしは、おばあちゃんが何を言っているのか分からなかった。少しだけ寂しそうな顔をしたおばあちゃんは、理解の足りない孫を憐れむようにも、何か別のことに想いを馳せているかのようにも見えた。


「もえぎ、お前も『打ち出の小づち』の昔話くらい聞いたことがあるだろう。つまり木霊とはその小づちのことさ。あれはね、人間の願望を後押ししてくれる存在でね。木霊に出会って、その励ましを受けて成功した者がお伽噺として残したものが、打ち出の小づちの話になったというわけさ」


「励ます……?」わたしは訳も分からず、呟いた。

 おばあちゃんはひとつ頷いて、続けた。


「木霊の好物は、人間の幸福感の残り香みたいなものでね。それを得るために願望のある者の前に現れては、願いが叶えられるよう後押しをしてくれるのさ。っていっても願いが叶うかどうかなんてのは、結局その人間の頑張り次第なわけなんだけどね。とどのつまり、木霊ってのはその程度の存在に過ぎないってことさ」 


 わたしは混乱する頭で、言葉を絞り出す。


「だけど、悪さをしてるから、わたしは……」


 シケモクの煙まじりに、おばあちゃんはわたしの言葉を引き継ぐ。


「そうだ。願望は時に欲望となり、暴走する。それをはらうのが、鴇子が言うところの『魔法少女』の務めなのさ」


 言い終えたおばあちゃんは、すでにわたしを見ていなかった。再び、あーちゃんの顔を真っ直ぐに見据えていた。


「もえぎの願望を苗床にわざわざ姿を現したところを見るに……もう、時間が無いのだな」


 あーちゃんはこくりと頷いた。


『『セルライト』と名付けた自分にとって都合の良い敵、それを永遠に倒し続けたいという願望。永遠に魔法少女で在りたいという欲望が、彼女を強大な存在へと成長させていった。……もはや我々の手には負えないの。魔法少女の力なくしては、だからおねえちゃん……』


「無理だな」あーちゃんの言葉を遮って、おばあちゃんは冷徹に言い捨てた。


「鴇子が魔法少女の衣装で夜の街に出没していたのは噂で知っていた……」


 わたしはハッとする。

『コスプレババア』――叔母がそうだったのだ。


「……木霊を倒し、さらに強い力を得るために木霊を吸収していく。やがて魔法少女であると同時に、自らが望んだ強大な悪に自らがなっていたという皮肉。自分がセルライトと呼んだ存在になっているにも関わらず、今なおセルライトを退治し、魔法少女たる存在意義を守るためセルライトとしての自らの痕跡を消して回るという矛盾。鴇子は、あたしがに、家ごと自らに繋がる家族を消しにかかった。まるで隠していた汚点を処分する、子供じみた感覚で」


 わたしは願い、そして夢でもいいと思った。だけど、おばあちゃんはそれを許さないように容赦なく話し続ける。そしてあーちゃんは、おばあちゃんの言ってることがすべて正しいとばかりに終始頷いている。


 その光景が、いま、この瞬間は現実なのだと物語っていた。


 あーちゃんは、あーちゃんの姿をした木霊は、隠すつもりもなかったかのようにわたしを見ていた。

 わたしは改めて絶望を思い知らされる。だけどもう泣くことすら出来なかった。涙はとっくに枯れ果てていた。

 今この瞬間は、巻き戻すことなんて出来ない現実で、やはりお父さんも、お母さんも、そしてあーちゃんも二度と帰らない。

 容赦なくその事実を突きつけたおばあちゃんは、誰よりもそれを理解していたはずだ。それなのに、おばあちゃんは……


「あたしが鴇子を見つけられなかったばっかりに、止められなかったばっかりに、お前たちを辛い目に合わせて……もえぎ……あさぎ、すまない……すまない」


 わたしとあーちゃんに向けて、何度も謝った。目頭に光る涙。指は震え、シケモクはそこから滑り落ちる。点った火は短い音を発して消えた。

 

 夜の街を、シケモク集めに徘徊していたはずのおばあちゃん。でもそうじゃなかった。おばあちゃんは自分がしゃんと出来る限られた時間の中で、鴇子叔母ちゃんを捜し歩いていたのだ。現実を受け止め、そして誰よりも後悔しているのは、おばあちゃんだった。

 

 うつむくおばあちゃんを気遣うように、あーちゃんは静かに話し始める。


『彼女を止めるために、我々は強い欲望を持つ人間を誘導し、彼女に当たらせようと思った……』


 少しの沈黙のあと、あーちゃんはわたしへと視線を移す。


『……だけど、そのほとんどは彼女とぶつかる前に、おねえちゃんに祓われてしまったの』


 わたしは愕然とする。務めを果たしているつもりだった。この町が『巣』であれば、なおさらに。

 でも違った。わたしがやっていたことは……


「もえぎのせいではない」


 曖昧な思考に芽生えた罪の意識を断ち切るように、おばあちゃんの声が響く。


「もえぎ、お前は何も悪くない。鴇子は木霊の思惑を理解していたのだ。それを理解していればこそに、お前を巻き込んだのだ」


 わたしは嬉しかった――。

 子ども心に秘密を持てたことが、とても嬉しかったのだ。

 そして、わたしを導いてくれた叔母ちゃんのことが大好きだった。魔法少女の使命、その秘密を共有する大切な存在。かけがいのない人だった。

 

 だけどすべては嘘だった。

 叔母ちゃんにとって必要だったのは、秘密を共有する存在じゃなくて、『共犯者』だった。わたしは、叔母ちゃんの思惑通りに、その障害になる怪人たちを退治していただけだった。


『そうだよ。おねえちゃんのせいじゃない』


 あーちゃんはそう言った。力なく笑いながら。


『その頃には、彼女の力はとても強くなりすぎてしまっていたの。何人もの人間の欲望を暴走させてはみたものの、彼女の相手に成りえる者は誰一人としていなかったんだ。おねえちゃんに退治されなかったとしたって、彼女にはとうてい歯が立たなかったと思う』


 そして、あーちゃんは空を見上げた。満月と、星々が煌めいているはずの空を。

 つられて見上げたわたしの目に、顔を出した月が再び闇に覆われつつあるのが映る。雲と呼ぶには不定形に動くそれは、闇そのものに見えた。


『万策は尽きてしまった。もう頼れるのは魔法少女の力だけなの。だからおねえちゃん、力を――』


 多分、最初で最後になるだろうあーちゃんのお願い。だが、それすらわたしに答える『資格』はない。


「無理だと言っている」


 わたしの代わりに答えたのは、おばあちゃんだった。


「もえぎはすでに魔法少女としての資格を剥奪されている」


 そう。人に向けたあの時から、莫耶の声はわたしには聞こえなくなっていた。

 おばあちゃんは莫耶を空でうごめく闇へと軽く持ち上げながら、


「まあ、資格を喪失していようがいまいが、杖の力では、あそこまで強大になった力を祓うことは出来ないがな」

 

 無慈悲な言葉をさらりと告げた。

 そして、おばあちゃんは空を見上げ、力なく呟く。


「あそこまで育つ前に、止められなんだ自分を呪うわ」


 月を侵食していく闇は、巨大な球体を形作るように丸まっていく。


「残された時間は少ないのだな?」


 おばあちゃんが尋ね、あーちゃんはこくりと頷く。


『家族の消滅に際して、直撃を避けようとした最後の最後に残された人としての心も失せたはず。もう迷いはないよ。魔法少女としてのアイデンティティーを守るため、ひいてはセルライトたる自分の恥部を隠滅するため、今夜、町ごと消し去るつもりだ。そして町を滅ぼし我々を吸収した暁には、更なる力を持って、今度は国を滅ぼすだろう』


「やがて世界を滅ぼす、か」


『鼠算的に増えていく力だよ。やがて、なんて時間すらも与えてはくれないよ。自分の世界を守るため、そのためだけにこの世界を滅ぼすんだ』


 おばあちゃんはポケットをから三本目のシケモクを取り出して、火をつけた。味わうようにゆっくりと煙を吐く。


 そして。


「なら、せめて残されたわずかばかりの時間、お前は、あさぎのままでいてやってくれ」


 おばあちゃんはそう言った。

 目配せするように、わたしの目をちらと覗いた後で、


「あたしの旦那、つまりもえぎやあさぎの爺さんは、鴇子が生まれて間もなく死んだ、ってのは聞いてるね」


 問われて、わたしは頷く。


「爺さんとの出会いは、言うなれば敵同士、とでもいうのかね。つまりは祓う者と祓われるもの。お前たちの言うところの魔法少女とセルライトの関係だった」


 薄汚れた路地裏で、おばあちゃんは遠くの風景に想いを馳せるように語り続ける。


「簡単に言えば、死に対する憧れ――それが爺さんの願望だった。そいつを祓ってのち、いつしか惹かれあっていたあたしらは結ばれた。それからは本当……色々なことがあったよ……」


 タバコを吸うのも忘れて、おばあちゃんは記憶を辿る。遠い思い出に浸るように、少しだけおばあちゃんは微笑んだ。だけど、そんな幸せすらも数秒と経たずに、その瞳には悲しい色が浮かぶ。


「その頃のあたしはまだ若かったんだろう。祓いさえすれば人は幸せになれる。そう本気で信じていたんだ」


 それはわたしも同じことだった。怪人がちゅどぉんと閃光を発した後には、気を失って倒れている人影。取りついていた悪が祓われ、その人たちが目覚めたときにはきっと健全なる人生が開けているものだと信じていた。

 おばあちゃんは我に返ったように、せわしなくタバコの煙を吸い込むと、わたしの目を真っ直ぐに見つめた。


「だけどね、そうじゃないんだ。結局のところ、人間の心に芽生えた願望は一生ついて回るものなのさ。結局、爺さんはその願望に逆らえずに死んでしまった。……自殺だった」


 わたしは声も出せなかった。おじいちゃんは病気で死んだの――いつだって曖昧に濁したお母さんの言葉を思い出す。


「あたしは自らに課せられた使命にも、この力にも絶望した。だから、杖を封印することにしたのさ。あたしの杖と、対になったもう一本の杖。さすがに捨てる訳にもいかなくて、二本の杖は厳重に封をした箱にしまって隠しておいた。だから本来なら、これは二度と人が使うことのない代物のはずだった」


 おばあちゃんは〝魔法杖マジカルステッキ〟を右手で持ち上げ、丸みのある大きな星が乗っかった先端を左の手のひらでそっと包み込む。


「お前たちの母親、薙子ちこも妹の鴇子もまだうんと小さかった。そこからのあたしはなりふり構わず働いた。今となっちゃ、それも所詮は言い訳に過ぎないけどね。やがて、薙子が結婚して家を離れて、それでも働くことを生きがいに、あたしはずっと働きづくめだった。

 だから、鴇子がどうやら杖を持ち出しているらしいと気付いたのは、ずっとずっと後になってからだった。鴇子は高校卒業後、大学に進学して、地元の企業でOLになった。そう思っていた。だけど本当は、高校もほとんど不登校、大学も籍だけ置いて通ってなんかなかった。就職の話も嘘っぱちだった。高校生の頃から魔法少女として鴇子は木霊を祓い続け、そしてその行為に憑りつかれていたらしい。就職が決まったと嘘をついてからは、生計を立てていると見せかけるために昼はバイトづくで、夜は魔法少女としての日々を送っていたのさ。そんな生活を約二十年。ちょうどその頃さ、ようやくにして、あたしが鴇子の秘密に気がついたのは。

 だが、気づいた時には遅かった。以前のようには動かない頭と体。干将かんしょう莫耶ばくや――杖は二本あるとはいっても、正当な執行者として認められるのは一人だけ。封印したとはいえ、あたしはその資格を喪失したわけじゃない。あくまで予備の杖の所持者に過ぎない鴇子から、優先的にその資格を剥奪することも出来なくはなかったが、その時にはあたしの杖はあたしの手元になかった」


 そうだ。その頃には莫耶はわたしのもとにあった。

 孤独で、だが中毒性のある秘密を打ち明ける相手に、そして同時に共犯者として選ばれたわたしのもとに。


「そこからは、坂を転がるようなもんさ。鴇子はあたしを家に閉じ込め、夜な夜な街に繰り出しては、セルライト狩りに勤しんでいた。良くも悪くも秘密を打ち明けられる関係になったあたしとの日々。今まで隠していた鬱憤を晴らすように、今日は何匹倒しただとか得意げに話したり、部屋中に正の字で戦果を書き記したり。そんな壊れた日々は、鴇子やあたしをますます壊していった」


 締めくくりのように、おばあちゃんは短くなったタバコを実に美味しそうに吸った。

 おばあちゃんの話に、わたしは胸が締め付けられる。

 だけど話し終えたおばあちゃんに、悲観の色はなかった。〝魔法杖マジカルステッキ〟で軽く左の肩を叩きながら、言った。


「親の務めだろうさ。子供に追いつかれ、追い抜かれた弱い力だとしても、せめてその横っ面を引っぱたいてやるのは」


「おばあちゃん……」


 わたしがかすれ声で呟くと、おばあちゃんはにこりと笑った。


「姉妹仲良くな」


 踵を返し、根元まで吸い切ったタバコをぴんと指で弾く。水溜りに、短い音を立ててタバコの火が消える頃、おばあちゃんは路地裏の闇の中へと消えていく。

 


    ♪



 最後の瞬間まであと少しだけ。

 次第に音は消え、静けさが路地を、夜を包みこむ。

 夜空に浮かぶのは、月光に照らされる黒い球体。いまはピンポン玉ほどのサイズでも、わたしの中で徐々に固まっていくイメージ。それは確認する必要もなく。

魔法装束マジカルドレス〟を身に纏う鴇子叔母ちゃん。鮮やかなピンク色のドレスは裾に向かうにつれ色を変えていく。黒色へと。それはやがて夜の闇と同化していく。変容していく。

 チェリーピンクのドレスで着飾った鴇子叔母ちゃんが映えるよう、ふわりと広がった裾――漆黒のレース。まるで日の丸の構図のように。

 浮かんだイメージは断定的に。でもそれを確認することも、叔母ちゃんの真意に思いを巡らすのも、どうでも良いことだった。

 わたしは、あーちゃんを抱き寄せる。

 無駄なことをしてる時間はない。一分を、一秒を、いまを大事に生きること以外には。

 だから、わたしはあーちゃんのからだをきつく抱きしめる。

 おばあちゃんのおかげで、わたしはあと少しだけこうしていられる。



    ◐



 月はゆっくりとその形を変えていく。

 温い夏の夜を照らすそれは、闇に侵されて、三日月の形を成していた。

 束の間、三日月の形をしたチャームを――宮藤よすがのことを思い浮かべる。

 あの日まで『普通』でいられたわたしたちの関係は、どこかで歯車が狂って、イビツになってしまった。

 今さらながらにわたしは思う。普通でいようといられまいと、関係性を築くことに支障はなかったんだって。きっとわたしたちは打ち明ける勇気が足りなくて、お互いのことを知らな過ぎたんだって。

 そしたらイジメられっこと、イジメっこのボスの関係もまた違ったものになっていたかもしれない。例えば――友達、とか……。

 

 でも。

 

 今となってはすべてが後戻りの出来ないことだし、どうでも良いことだった。

 怪人も。

 魔法少女の使命も。

 不来方しずくのことも。


 そして、宮藤よすがのことも。



    ★



 星はひとつ、またひとつと失われていく。

 月蝕のように覆っていく円形は、まるでもうひとつの月のように浮かんでいた。ただしそれは常世の国の月。

 やがて月明かりが完全に閉ざされると、あーちゃんの顔も見えなくなった。

 空に浮かぶのは、闇に蓋をされた満月。その朧で幻想的なリングだけ。

 闇の中、微かに感じる温もりと、呼吸の音。それはあまりにも頼りなくて、わたしはなおさら、きつくきつくその身を抱きしめる。

 

 だけど。

 

 わたしは嬉しかった。

 こうしていられれば、それだけでよかった。

 今この瞬間に、こうしていられることが。こうして終わりを迎えられることが、なにより嬉しかった。



    ●



 巨大な円形の闇――鴇子叔母ちゃんは、やがてゆっくりと落下を始め、路地裏の闇も一層色濃くなっていく。


 ――スターライト☆キャンディチャイム


 声が聞こえた気がした。

 それがおばあちゃんのものか、鴇子叔母ちゃんのものか、わたしには分からなかった。


 もうすぐわたしの世界は終わりを告げる。

 その時が近づいていく。

 だけどわたしは最後の最後に、魔法少女ではなく、ただのおねえちゃんとしてその時を迎える。


 わたしは、ただ、それだけが嬉しかった。

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