40 熊谷元直の最期

 熊谷元直とその軍は、今や捨て身である。

 「勝てるはず」と言われた、多治比猿掛城攻めに失敗し、その失敗を糊塗するために、中井手の柵にこもり、来たるべき、安芸武田家と毛利家の会戦にとして参陣し、挟み撃ちに一役買って出て、功成るつもりであった。

 しかし、その意図は多治比元就にことごとく見破られ、逆に分離状態にある熊谷元直をにとめてしまう。


「策士めが! だが、この熊谷元直、容易たやすく食われはしない!」


 まだ、勝機はある。

 それは、この、目の前にいる多治比元就を討ち取ってしまうことだ。

 こやつが。

 こやつこそが。

 安芸武田家にとって、最も危険な存在なのだ。

 この、いつの間にか熊谷元直を手玉に取っている男が。


「今度こそ! 彼奴きゃつに一騎打ちを挑み、っ首、いただいてくれる!」


 吶喊とっかんする熊谷元直。

 だがその前に、躍り出た男がいた。


「……長井、新九郎!」


「おや、名を覚えててくれたか? では礼に、槍を馳走してやろう!」


 長井新九郎の長槍が、まるで蛇のごとく鋭く空中を這い、熊谷元直の首を目指す。


「しゃらくさい!」


 元直の槍が弧を描き、新九郎の槍を弾き飛ばす。

 新九郎はその槍を放さず、槍ごと体を回転させて、勢いと力の乗った一撃を繰り出す。


「そらよ!」


「うぬっ」


 丁々発止の槍の戦い。

 この頃には熊谷、多治比の互いの兵らも集結してきており、集団戦も始まっている。

 熊谷軍の部将、山中、板垣らは必死に攻めるが、一方の多治比軍の多治比元就、井上光政も、油断なくその攻勢を受け止め、押し返す。


「かかれ! かかるんだ! 多治比の首を取れ!」


「押し返せ! 押し返せば、熊谷の首は取れるぞ!」


 熊谷元直と長井新九郎。

 熊谷軍と多治比軍。

 じりじりとせめぎ合う、ふたつ。


 だがその戦いを見つめつつ、そっと近づいてくる、ひとつの群れがあった。



 吉川家の軍、宮庄経友みやのしょうつねともを大将とするその一軍は、矢戦の終了と共に、指揮権は吉川家の姫・雪から宮庄経友へと移った。

 元より、そのような作戦である。


 弓矢については、鬼吉川の妙弓たる雪が。

 刀槍については、猛将たる宮庄経友が。


 吉川軍の三〇〇騎はごく自然に、その変更を受け入れた。というか、そのように打ち合わせを重ねていた。


「皆の衆、刀を持て」


 宮庄経友は、その巨躯と豪放磊落な性格から、想像もできないほど冷静な声と表情で将兵に命じた。


「…………」


 経友の目に、激突する熊谷軍と多治比軍が映る。

 元就の予見どおり、突出して一騎打ちをする、熊谷元直の姿も。


「では、手はずどおり、これから、熊谷元直を討ち取る」


 それはあまりにも冷静に話され、今後の予定のひとつとして言われているのかと思われるくらいだ。


「……雪、お前だけは弓を。援護を」


 雪は無言でうなずく。兄・経友が冷静なのは本気である証拠だ。そしてその冷静さに負けは無い。

 雪にとっては、この兄――宮庄経友こそが、弓は置いておいて、最も「吉川」を体現する武者と思えた。長兄・吉川元経も優れた武者だが、まつりごとに重きを置いているゆえ、やはり経友には一歩譲り、それは本人も認めているところである。


「…………」


 無表情な宮庄経友の視線が、より鋭くなり、遠く熊谷元直を見すえる。

 鬼の目じゃ、と足軽たちがささやく。

 経友が片手を上げた。


「進め」


 経友がさっと手を下げると、吉川の将兵は、物も言わずに戦場へ進軍を開始した。



 ……そうこうしている間にも、毛利本家の軍が後背から襲ってくる。


 その焦燥感が満ちてきた熊谷元直だが、蛇のように食らいついてくる長井新九郎のせいで、眼前で指揮を執る多治比元就の方へと進めない。


「しつこい奴めがッ」


「よく言われる……い女からな!」


 新九郎一流の諧謔かいぎゃくに、多治比軍の将兵はどっと笑う。

 この場合、熊谷元直がもし多治比元就との一騎打ちであれば、死力を尽くして勝ちに行くだろう。

 だが今、熊谷元直の相手は、どこの誰ともつかぬ風来坊、長井新九郎である。毛利家中の誰かでもなく。

 そのことが――元直の脳裏に、元就との戦いに余力を残しておかなくては、かような流れ者に討たれてたまるか、という、後ろ向きな気持ちを生み出していた。

 そしてその気持ちは、熊谷軍全軍に伝播し、不思議な停滞感を作り出していた。


 そしてその隙を――宮庄経友率いる一軍が、襲撃する。


「かかれッ」


 号令一下。

 経友麾下の将兵は、熊谷軍に向かって、容赦のない突撃を食らわせた。


「うわっ」


「何っ」


 動揺し、戸惑ううちに、熊谷軍は次から次へと討ち取られ、倒れていく。

 前面の多治比元就に、多治比軍に。

 完全に意識をいた。

 それも、に終始していたはずの吉川の兵に。


 後世、謀神とまで言われ畏怖されることになる、多治比――毛利元就の真骨頂が、そこにあった。


「何だと――まさかッ」


 熊谷元直が咆哮する。

 こうなると、長井新九郎にこだわっている場合ではない。

 無理矢理にでも前へ出て、あの青二才に一太刀を。

 そう覚悟を決めた、元直の耳に。

 矢羽が風を切る音が聞こえた。


 ひゅう。

 ひゅう。


 矢は、元直の甲冑をかすめ、あるいは兜に当たって鍬形を折る。

 このときには、長井新九郎は抜け目なく、退いていた。

 元直にも、それは分かる。

 この矢は。

 鬼吉川の妙弓――雪が、元直を、その射程距離に捉えたという証だ。

 もう、多治比元就へ攻めかかることはできない。

 雪は必ずや、その元直の背に矢を突き立てるであろう。


「こんな……ところでッ」


 元直は再び咆哮し、ならば迫る吉川の兵をと猛進する。

 その元直の前に、一人の巨漢が立ちふさがった。


「貴ッ様……宮庄経友かッ」


「さよう……吉川家中、宮庄経友!」


 いざ尋常にという挨拶する暇もなく、二人の猛将はぶつかり合った。

 おおきな熊同士の殺し合いだ、と長井新九郎は思った。

 元就は叫ぶ。


「宮庄どのにつづけ! 多治比の兵! 吉川の兵! そして……毛利の兵よ!」


 この頃には、相合元綱の率いる毛利本家の軍が戦場に到着し、熊谷軍と多治比軍の激突の現場へと駆けつつあった。


「多治比どのはあすこに居るぞ! 全軍突撃!」


 相合元綱は、自ら愛馬に鞭打って、我先にと吶喊とっかんする。

 今義経の二つ名に恥じない、見事な奇襲突撃である。


「…………!」


 言葉にならない叫びを上げて、熊谷元直は、宮庄経友に向けて、突っ込んだ。


 今や、進退窮まった。

 多治比という、多治比元就という餌に食いつけると思いきや、それは猛毒の罠であった。

 元就は開き直って窮鼠と化した「だけ」であり、安芸武田家・武田元繁との挟み撃ちになれば、必ずや撃破できるものと考えていたら、元直自身が挟み撃ちという憂き目に遭っている。

 すべて、計算づくだ。

 おそらく、安芸武田家と干戈を交えると分かったときから、研鑽を重ねて来たに、相違ない。

 そうでなくては、ここまで、物の見事にまるものか。

 こうして、確実に、この熊谷元直を仕留めるべく、猛将と名高い宮庄経友をぶつけて来ているところが、その証左だ。

 だが。


「……貴様……ぐらいは……」


 元直のそれは、もはや人間の言葉ではなく、野獣の唸り声である。

 だが、宮庄経友は、それを正確に理解した。

 己もまた、心身の裡に、野獣を宿した武士であるという自覚があったからだ。


「いやむしろ――鬼だ」


 すでに何本かの矢を受けて、手負いの獣と化した熊谷元直に、宮庄経友は恐れげもなく、組み付いた。

 元直の牙をかんばかりの咆哮に目を背けず、経友はその太い腕で、元直の甲冑を、引きちぎらんばかりに掴み上げた。


「…………!」


 元直は凄絶な笑みを浮かべて、逆に経友に組み付く。

 互いの巨躯が、はたからはおいそれと加勢は出来ないくらい、密接する。


「……このまま、貴様だけでも道連れにしてやる……宮庄経友」


 元直は、巧みに経友と場所を入れ替え、周りの将兵らの手出しを防ぐ。


「串刺しになるなら、貴様も……持久に持ち込むなら、貴様に噛みついて」


「……必死なところ、悪いがよ」


 経友は、むしろ元直の体さばきに合わせるように動いた。

 気がつくと、周りの将兵は、むしろ元直と経友をけ、熊谷軍のに入っていた。


「何故……」


「わが祖父、吉川経基が……何故、鬼吉川と言われるようになったか教えてやろう。そして……またの名を、俎板まないた吉川と言うのかを」


 経友はいきなり、これまでに倍する力で元直を。石か金棒かと思うくらいに硬直した経友に、元直は足掻あがくが、微動だにしない。

 ……そうこうするうちに、元直は、自分を見つめる視線に気がついた。

 自分の額のあたりを見つめる視線に。


 かなり遠くだが、馬上、弓をぎりぎりまで引き絞る、一騎の武者が見えた。

 華麗な甲冑の、姫武者を。


「鬼吉川の――妙弓!」


 吉川家の姫、雪が無表情に、熊谷元直を見すえている。


「馬鹿な。あんな遠く、いくら何でもを当てられるものか。まさか、道連れは、貴様が――」


 あわてふためく猛将・熊谷元直を、もう一人の猛将・宮庄経友はわらった。


「当時、の尼子経久に、こうして敵を捕まえさせて、弓矢を一発。哀れ、『俎板まないた』の上の敵は、『鬼』の矢に……」


「まさか、やっ、やめろ! 離せ!」


「もう遅い」


 幼き日から、共に弓矢を学んだ仲だ。

 もう――矢を放ったことは、見ずとも分かる。


 その瞬間。

 熊谷元直にとっては、永遠にも近い一瞬だったが、はゆっくりと、だが瀬を流れる水のように軽快に、元直に向かって、ほとばしって来た。


 ――雪の射た矢は、あやまたず、元直の額に突き刺さった。


「無……念……」


 熊谷元直、二十八歳。

 まだ、過去よりも未来に多くを持つ年齢であり、もし、安芸武田家・武田元繁が安芸を制覇したら、その右腕として、その勇武により中国地方を席捲する驍将ぎょうしょうとなりえた男であった。


 だが――大いなる智謀をその脳裏に潜ませる、多治比元就によって翻弄され、ついに討ち取られたのであった。

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