33 血戦の勝者
「鬼吉川の妙弓だと?」
熊谷元直は、弾き飛ばされた愛刀を拾うことも忘れ、呟いた。
まずい。
それが元直の抱いた感想である。
そう思ううちに、当の鬼吉川の妙弓――吉川家の姫・雪が、さらなる矢をつがえた。
弓弦の鳴る音。
「!」
もんどりうって、その鋭い矢を避ける。
避けた先に、またひとつ矢が。
それをも辛うじて避けるが、またも矢羽の風切り音。
「……きりがないッ」
元直はなりふり構わず、自軍のいる後方へと走る。
浅くだが、一、二本、背に矢が刺さった。
「……ぐっ」
だが、これで離れた。
ひと安心したところで、今度はその鬼吉川の妙弓が、とんでもないことを言い出した。
「毛利本家の援軍、来たる! わが目に見える! 吉田郡山から来たる、毛利本家の兵たちが!」
鬼吉川の妙弓は、おそるべき弓の腕を示した。
その弓は、おそらく目の良さに起因している。
熊谷元直は、そして熊谷軍の将兵は、そう感じた。
感じたがゆえに、「見える」などと言われては、もう信じざるを得ない。
毛利本家の援軍の到来を。
「……いかん!
ここで毛利本家の軍と当たるなど、愚の骨頂。
多治比軍の奮闘により、熊谷軍の損害は予想以上である。
この状況で、毛利本家の軍と干戈を交える。そして、おそらくは。
「鬼吉川の軍も来ているに相違ないッ」
あれほどの武者が、単騎で来るものか。
熊谷元直自身のその誤解が決定打となり、熊谷軍は撤退に入った。
部将の山中が問う。
「殿、いずこへ退きまするか?」
鬼吉川の妙弓のいる方向、つまり有田城包囲陣である安芸武田家本陣へは戻れない。
また、多治比攻めをしくじった今、おめおめと安芸武田家・武田元繁の前に馳せ参じることなど、できぬ。
「……中井手だ」
中井手は、有田城から少し離れたところにあり、また、有田城を包囲する安芸武田家の軍を守るために作られた柵がある。つまり、有田城包囲陣(安芸武田軍)を攻撃しようとする輩を、迎撃するための要害である。
毛利本家、吉川家の連合軍。そのねらいは、有田城の周囲に
この安芸の争乱、毛利と吉川としては、安芸武田家・武田元繁を討つことでしか、止めることができない。
ならば、ことここに至った以上、有田城を囲んでいる安芸武田家の本陣を撃つであろう。
「そこが付け目よ」
熊谷元直としては、一時、中井手へと撤退し、毛利・吉川連合軍が有田城へ向かったその後背を
これならば、多治比攻めの失敗を補って、あまりある。
安芸において、もはや安芸武田家にまともに抗おうとする勢力は、毛利か、あるいは吉川くらいしかいない。
それを撃滅すれば、今の敗北など、物の数ではない。
「殿の下知である! 皆の衆、中井手へ!」
部将の板垣が兵らに呼びかけ、全員、必死になって駆け出す。
元直も、負傷した兵を励まし、肩に負い、中井手の柵へと向かう。
「…………」
その撤退する様を、多治比元就は、ただじっと見ていた。
*
熊谷軍が多治比から去っていくのを見届けてから、鬼吉川の妙弓――吉川家の姫武者、雪は山の木々の間から、そっと出てきた。
尼子経久から頂戴した名馬・絶風を御しながら、静々と、だが力強く、多治比元就の方へと向かっていく。
「…………」
言いたいことは、山ほどあった。
自分を尼子経久の居城、出雲の月山富田城へ向かわせておき、己は血戦に挑むという元就。
その心根を嬉しく思うが、自分はそこまで頼りないか。
守りたいという気持ちは嬉しい……が、これでも鬼吉川の妙弓だ。
一助になろう、そばに居ようというこの気持ちが分からないのか。
今だって、自分がうまくこの機に間に合ったからこそ、助かったのではないか。
「……無茶をして」
涙があふれてきた。
自分や母・杉大方を遠ざけて、絶対不利の状況の合戦に挑んだ、元就の、その満身創痍の、ぼろぼろの甲冑と躰が、よく見えてきたからだ。
馬から下りる。
駆け寄る。
元就もまた、自分の姿を認めて、立ち上がった。
足を引きずりながら、向こうもやって来る。
「…………」
うまく口で言い表せない。
向こうも同じであろう。
言葉にならない間を、元就が歩んでいく。
気がついたときは、目の前だ。
「…………」
突然、抱きしめられた。
何を、と言う
ただ、雪は、元就に抱きしめられていた。
「……助かった」
再会の台詞が、人を抱きしめながら言う台詞が、これか。
そう思いながらも、言うほど自分も気の利いた言葉を出すことができずにいる。
人のことは、言えないか。
しかし。
「あの……見てるから」
「何をだ?」
「そうじゃなくて、みんな、見てるからッ」
突き飛ばされる元就。
受け止める長井新九郎。
「……いや、お前は間違っちゃいねえ。気にするな」
長井新九郎の肩に負われて、元就は立つ。
元々、それぐらいに負傷し消耗していた元就である。
今さらながら、そういう状態でもなお、自分のところへ立ってきてくれたことに、赤面する雪。
「生きてるって感じがするぜ、なあ?」
長井新九郎が周囲の多治比の兵に語りかける。いつの間にか近くに来ていた井上光政も、うんうんとうなずいていた。
「……いや、そこは見て見ぬふりをすべきでしょッ」
雪が叫ぶように言うと、皆、どっと笑った。ただ、元就のみが照れくさそうに微笑んでいた。
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