32 死線
――二重三重に張り巡らせた策であったが、どうやら敵はそれを看破したようだ
多治比元就は、不思議にも悔しさや悲しさをおぼえず、ただただ冷静にそのような感想を抱いた。
元より、毛利本家の援軍など期待していない。母たる杉大方を使者に立て、人質としたのも、彼女を守るための方便である。
また、吉川家や尼子家にも、助力を期待していない。吉川家の雪が、小倉山城に健在であれば、身一つでも駆け付けたかもしれない。うぬぼれだが。しかし、うまく彼女を煽って、尼子経久の居城・月山富田城へと向かわせた。おそらく、彼女にとって、この世で最も安全な場所が、あの城だ。
「……悔いはない」
あるとすれば、ここまでつきあってくれた、井上光政や多治比の兵……そして、長井新九郎を今、命を失う危険にさらしているということだけだ。
「……逃げろ」
「……何だ?」
その時、ちょうど元就と背中合わせに槍を構えていた、長井新九郎が聞き返す。
「逃げろと言ってるんだッ! 新九郎どの、これ以上の抵抗は無益!
「お前……正気か?」
新九郎は近づく敵を槍で突き倒しながらこたえる。
「今さら、帰れるかよ! ほれ、考えろ! 逃げるんなら、どう逃げる?」
「考えても駄目だったから言うておる! 新九郎どのだけではない、皆、逃げよ! これ以上は……」
「馬鹿野郎!」
長井新九郎の大喝が戦場に響く。それは、敵味方問わず静止させるだけの力を持っていた。
「いいか、やると言った以上、やるんだよ、おれらはッ。こんな中途半端な状態で逃げられるかッ。いいか、逃げるんなら、お前もだ。どこへ行く? 多治比か? 吉田郡山か?」
「阿呆がッ。逃がすと思うかッ」
問答に
元直は新九郎の大喝からいち早く自分を取り戻し、勝ちはきまったとばかりに、自ら突進し、元就の首を狙ってきた。
「その首、もらうぞ! 青二才!」
「やらせるか!」
熊谷元直の刀と、長井新九郎の槍が舞う。
宙空で火花を散らし、刀と槍がせめぎ合う。
……だが、さすがに力が尽きてきたのか、長井新九郎は押され始めた。
「終わりだ! 長井新九郎とやら! まず、貴様から首を取ってやる! 名誉に思え!」
「……くっ、この」
槍を捨て、刀を抜くか。
そう逡巡する長井新九郎を、背後から引っ張る者がいた。
「……なっ」
「退け! いや、後を頼む、新九郎どの!」
多治比元就が、驚異的な力で、おそらく最後の力を振り絞って、長井新九郎を後方へと引っ張り、入れ替わりに己の身を熊谷元直の前にさらした。
「やめ……」
「さらばだ!」
元就が元直に、躰ごと突っ込む。
だが、それも、力なく。
倒れたのは、元就の方だ。
嘲笑う元直。
「所詮は青二才よ。船岡山を知らぬ! あの激戦をくぐり抜けたこの元直に、かなうべくもないわッ!」
元直の咆哮。
新九郎の槍が飛ぶ。
くだらん、とばかりに元直の刀がその槍を振り払う。
「終わりだ! 死ね! こじき若殿!」
思ったよりもあっさりと、その瞬間は訪れた。
そう、元就は感じた。
力の限り、戦った。
甥の幸松丸は、長井新九郎が何とかしてくれるだろう。
癖のある男だが、頼りがいがある。
その新九郎が何か叫んでいる。
静止する時の中で。
迫り来る、熊谷元直の刀の刃紋が見て取れるくらいの、止まった瞬間で。
元就は、静かに……目を閉じ……ようとした。
激しい衝突音。
「………?」
閉じようとした目を開けようとすると、さらに衝突音が、ふたつ、みっつと響く。
気がつくと、熊谷元直の刀が、弾かれ、飛んでいき、弧を描いている。
唖然とした表情の元直。
振り向くと、やはり茫然としている長井新九郎。
その新九郎の方向に、まっすぐ目を凝らす。
多治比の山里の、木々の間に。
ひとりの武者が、弓をかまえていた。
「――遠からん者は音に聞け」
その、凛として響き渡る声。
「近くば寄って、目にも見よ――」
冴え冴えとした視線は、熊谷元直を射て、逃がさない。
「われこそは――」
その武者がつがえた矢を放つ。
あやまたず、元直へ向かって、直線を滑る。
「鬼吉川の妙弓なり!」
吉川家の、鬼吉川の妙弓の名を受け継いだ、姫――雪。
尼子家、出雲の月山富田城から一路、ついに多治比へ。
すでに合戦の渦中、迷いなく多治比元就を探し当て、自身の妙弓を
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