31 策の結末
「かかれ、かかれ!」
多治比元就の大音声が響き、多治比軍は、ここが死に場所と、敵軍へと襲いかかる。
「押せ! 押せば勝つ!」
一方の敵軍、安芸武田家の熊谷元直は、多勢を
多治比軍一五〇対熊谷軍六〇〇。
兵数の差はいかんともしがたいが、元就が平地が狭まる地点にて戦端を開いたため、動ける兵数は、互いに同じ。
また、猛将と名高い熊谷元直であったが、対する多治比元就も、戦いながらめきめきと采配を上達させていき、指揮能力においてはほぼ互角となっていた。
*
「…………」
すでに多治比の山中の
このまま拮抗するのは良い。
だが、じり貧である多治比軍は、いずれ崩れる。
しかし光政は耐えていた。
「光政さま、もう……」
「いかん、待つのだ!」
この忠実さが、井上一族でありながら、元就の腹心といわれる
「しかし……このままでは……」
それでも不安は拭えない。
戦機を逃がすのではないか。
いや。
「法蓮坊さま、ではない、長井さま、頼みましたぞ……」
*
かつての法蓮坊であり、将来の斎藤道三である長井新九郎はその頃、熊谷軍の部将ふたりを相手取って、長槍を振るっていた。
「ふたりがかりなら、抑えられるとでも思うたか?」
長井新九郎の槍が走る。
一条。
二条。
閃光が見えた瞬間、その部将ふたりの首筋から血が噴き出して、がくりと倒れた。
「そら行けっ。吉田郡山からの援軍は、間もなくぞ!」
おお、と歓声があがり、多治比の兵は長井新九郎が開けた入口から、熊谷軍へ襲いかかっていく。
「……とはいえ、だ」
長井新九郎はひとりごちる。
「……そう長くは
ふと、脾腹に手をやる。手を持ち上げて見てみると、赤く血に染まっていた。
無傷で戦いつづけるなど、名人芸を超え、もはや神技だ。
自分、長井新九郎はむしろ、そういう神技を持ついくさ人を指揮する方が向いている。
「傷は浅いようだが……多治比の兵も……おれも……そろそろ、だな」
*
多治比元就は、奥の手である井上光政の別動隊を動かす機をうかがっていた。
毛利本家の軍を擬装した、別動隊。
その偽りの攻撃をもって、熊谷軍を撃ち、動揺を誘い、退却へ持ち込む。
合戦が初めてである自分が、その機を読めるかどうかは微妙だが、やるしかない。
しかし、別動隊の登場と同時に、多治比の本軍もまた、仕掛けなければならない。
その余力が、まだ、残っているか。
そこを見定めないと、ただの道化と化す。
「最悪、その時は……」
元就の目に、奮戦する多治比軍、そして長井新九郎の姿が映った。
*
「食い破れ! 食い破るのだ!」
熊谷元直もまた、機をうかがっていた。
全軍突撃を命ずれば、あるいは元就とその軍を打ち破れよう。
しかし、今、それをやってしまうと、後がつづかない。
多治比を占領するまではいい。
そこへ、毛利本家の軍が満を持して襲いかかってきたら、目も当てられない。
一番良いのは、このまま押し切って、普通に勝つことだ。
それならば、余力を残していられる。
「だが……それもじり貧か」
元直の指揮に迷いが見え始めた。
進むか、退くか。
将が決めかねるのなら、兵は左右される。
一瞬の停滞。
……それを逃がす、多治比元就ではなかった。
「間に合った!」
元就の大音声。
長井新九郎が、槍を振るって、兵を鼓舞する。
「かかれ! 挟み撃ちだ!」
どよめきを上げる多治比軍。
動揺する、熊谷軍。
「間に合っただと! まさかッ」
熊谷元直が振り向くと、毛利家の一文字三ツ星の旗印を掲げた兵が、元直の軍の後背を猛襲しているのが見えた。
多治比元就の声は大きい。
まだかまだかと耳をそばだてる井上光政には、それはうるさいほどに響いてきた。
「かかれッ」
井上光政率いる別動隊は、少数ながらも多治比軍の精鋭である。光政自身が船岡山へ従軍した時に付き従った兵を中心に選ばれている。
一方で、熊谷軍は、この多治比での最初期の戦闘で傷ついた兵を後方に回していた。
両者の差は、歴然としていた。
「ばかなッ。まやかしだ!」
その発言自身が、まやかしであっても構わない。
そういう心持ちで、熊谷元直は叫んだ。
熊谷軍の部将の山中や板垣らが、確認のために後方へ向かう。
そこを多治比元就が追いすがろうとする。
「
今度は熊谷元直の方が元就に襲いかかる。
将を後ろに行かせないとは。
やはり、偽計か。
「どけ!」
「
形勢逆転だ、とばかりに元直の太い腕が、元就の首に向かう。
元就は、肩を前面に押し出して、元直を弾き飛ばそうとする。
元直の手が、元就の足をつかむ。
地を転がりながら、取っ組み合うふたり。
「青二才! 貴様の奸計など、知れたものよ! 貴様を斃し、多治比はもらっ……」
「……かかったな」
元就が無表情にそう言うと、その後方にいた、ひとりの侍が駆けてくるのが見えた。
長い槍を持った、不敵な笑みを浮かべた侍が。
「新九郎どの! 首を討て!」
「応!」
先ほどから、槍の妙技を見せてきた侍、長井新九郎。
謎多き男だが、熊谷元直の目から見て、ひとつだけ確かなことがあった。
この男の槍が……相当、危ないということを。
「……いかん! このままでは!」
取っ組み合い、揉み合う元就と元直であるが、長井新九郎であれば、正確に元直を狙って刺し貫いてくるであろう。
瞬間。
熊谷元直は、元就の躰を蹴飛ばすようにして跳躍して離れた。
そして次の瞬間、部将の山中が主君の危機を察して戻り、元直の前に出て守る。
「殿! お下がりあれ! 下手な挑発に乗るのは愚策!」
「すまぬ!」
間一髪で、熊谷元直は、長井新九郎の槍の射程距離圏外へと逃がれた。
多治比元就がなお追いすがろうとするが、部将の山中が死力を尽くして立ちふさがった。
「あ、危なかった……」
熊谷元直は、多治比元就から距離を取り、そして元就の策の全貌に気づき、今さらながらに冷や汗をかいた。
熊谷軍の後背に別動隊を出現させる。
別動隊がまやかしだと指摘されたところで、わざと「作られた隙」に乗じた熊谷元直に多治比元就自身を捕捉させる。
熊谷元直と多治比元就が固まったところで、長井新九郎の槍の一撃で熊谷元直の首を取り、戦を終わらせる。
一騎打ちなどという、あやふやで、不安定なものではなく。
勝ったと思った瞬間に。
勝ちに
その瞬間に、確実に、確実に……熊谷元直の命を奪う。
殺す。
……そしてその入念かつ細心な殺意は、むしろ熊谷元直ではなく。
その先へ、武田元繁へとまっすぐに向かっている。
そんな気がした。
元直は、
「恐るべき策だ……だが」
元直の目に、熊谷軍の後方に走った板垣が駆けて戻ってくるのが見えた。
板垣は指を負傷し戦闘不能に追い込まれたため、指揮と索敵に徹し、そのため、主君の危機ではあるが、敢えて後方の確認に向かったのだ。
元直はその板垣の心意気やよしとしたが、その板垣の報告を待たずに、別動隊が少数であることを見破っていた。
「だが……それはつまり、別動隊がまやかしという証! 後ろは小勢だ! 気にするな! 全軍、突撃!」
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