30 鬼吉川、動く
毛利本家・吉田郡山城にて、
吉川家。
小倉山城。
ここにも、多治比の一戦の報が届いた。
「……まことか!」
高齢の当主・吉川国経に代わって、吉川家を取り仕切る嫡子・吉川元経は、その報に接し、多治比元就が抗戦していることに仰天した。
まさか、戦うとは。
吉川元経は、現状、安芸武田家の軍に包囲されている、有田城の城将を務める家臣・小田信忠に、城を明け渡すよう指示しており、どちらかというと、恭順による交渉を目指していた。
だから、仮に多治比が安芸武田家に攻められたとして、多治比元就は、逃げ出すか、あるいは即座に開城して、交渉に入るかすると信じていた。
否、勝手に信じていただけだ。
「……くっ、このままでは」
事実上、吉川家の兵を指揮する立場にあるのは、嫡子・元経の弟であり猛将である
その弟の経友に対して、吉川元経は、多治比元就が戦うのであれば、その援護に向かっても良いと、言質を与えていたのである。
「……そうだ、有田城の救援に向かわせよう」
それなら、経友も断れまい。多治比は多治比で大変だが、何よりも友軍である有田城の方が優先なのは自明の理。
「……よし。誰かある! 弟を、経友を呼べ」
近侍に経友を呼ぶよう言いつけると、元経は城主の間に、どかっと座った。
「……そして、有田城には改めて、開城を命ずるか」
これなら、うまくすれば、有田城開城を安芸武田家が受け入れ、宮庄経友率いる吉川の軍は何も
そしてその頃には、多治比の
「多治比どのには悪いが、吉川としても生き残らねばならん」
元経が腕を組んでいると、既に甲冑を身につけた宮庄経友が大股に歩いてきて、城主の間に入った。
「兄者」
「おお、経友か。
「兄者、雪が、多治比へ向かっているそうだぞ」
「何!」
吉川元経は頭を抱える。
末妹・雪は、かねてから、安芸武田家の当主・武田元繁の側室にと求められ、出奔していた。
その雪が、この状況で、多治比へだと。
よりによって、この機に。
どこをほっつき歩いているものかと思いきや、今になって多治比へ、か。
「…………」
兄・元経のその様子を見て、経友は言った。
「……であるので、おれは、雪のところに行こうと思う」
「そうか……いや待て、それは……多治比に征く、ということか!」
「そうだ」
気づくと経友はもう、立ち上がっていた。
「三百騎ほど、連れて行くぞ」
「ま、待て!」
戦地となった多治比。
それに、鬼吉川の妙弓・雪。
この難所を切り抜けるには、猛将・宮庄経友の武勇に頼るしかない。
しかし、三百騎だと。
「それでは、この小倉山城の守りぐらいしか、残されていないではないか」
「当り前だ。多治比は今、燃えている。下手な兵数で行けば、焼けるのはこちらよ」
安芸武田家の軍中でも、最も猛々しい男、熊谷元直。その男を差し向けていることに、武田元繁の多治比攻めへの本気を知ることができる。
それゆえに、やはり猛将である宮庄経友としても、生半可な兵数で行くことはできないと言うのだ。
「……兄者は、
吉川元経が小倉山城に残れば、最悪、弟ではあるが別姓の宮庄経友の多治比遠征は暴走であり、吉川家は安芸武田家への恭順姿勢を崩さなかったと言い張ることができる。
「……いいのか」
かつて、弟・宮庄経友に言ったように、長兄・吉川元経は、自身は征かないという姿勢を貫いていた。しかし本音を言えば、弟を捨て石にすることは避けたかった。そう、妹の雪とて、できることなら、嫁ぎたい相手に嫁がせてやりたいと思っていた。
だが、国人(地域領主)の無力さである。
いかな鬼吉川とはいえ、所詮は地侍に毛の生えた存在に過ぎない。
ただ浮草のように、出雲の尼子経久や周防の大内義興、そして安芸の安芸武田家・武田元繁といった大魚の起こす波間を、ただただ吉川家は漂うしかできないのだ。
そう、安芸国人一揆のように、いくらひとりひとりの力を合わせたとはいえ、それが大いなる力にかなうものか。
「……経友。おれは弟のお前に死ねと言わねばならん」
「兄者、いつものことではないか。そう言ってくれ」
ただし、雪だけは落ち延びさせてくれ、あれがいないと、おれたち兄弟はどこまで言っても駄目吉川よ、と経友は
「あれがいたからこそ、おれたちはじい様……経基さまに叱られずに済んだ」
「ああ……妙弓の名を継ぐ者がいない、駄目吉川だ、情けないと愚痴られるところだった」
長兄・元経と次兄・経友の間にて、女の身ながら、鬼の祖父・吉川経基の鍛錬に耐えた雪。この健気な妹がそばにいて、共に弓を競う毎日。時にふざけ合い、時にいがみ合う……けれども、最後はそろって雑魚寝して、そして次の日の鍛錬に備えた、あの少年少女だった日々。
やがて祖父・経基は、雪に天賦の才を見出し、兄である元経と経友は妬むことなく、むしろわがことのように喜んだ。一緒に鍛えた仲間が、妙弓の名を受け継ぐのだ、と。
「……分かった。雪は、多治比で死んだ、とでも言っておく」
それぐらいは安芸武田家に通してみせる、と元経は約束した。
ありがたい、と経友は笑った。
「この乱世。弱き国人の家の者でも……ひとりくらい、己の思うままに生きてみてもいいんじゃないかと思っていた」
「分かったと言っておる、経友。だがな……この前のお前ではないが、もしかしたら、多治比どのはやるかもしれんぞ」
吉川元経は、多治比元就と直接に安芸国人一揆の交渉を持ったことから、元就の底知れなさを体感していた。
それを聞いた宮庄経友は、得たりかしこしとほくそ笑む。
「それならばなおのこと良いではないか、兄者。そのときは堂々と、雪を多治比どのの嫁に出せばいいこと」
元経は驚いた顔をした。
「……なんだ、経友、お前……雪が多治比どのに惚れていると、知っていたのか?」
「いや……兄者こそ、よく分かったな」
経友も驚いていた。
互いに、女心の分からぬ唐変木だと認識していた兄弟である。
「分からいでか。大体、宮島で多治比どのに会った、と嬉しそうに言いおってからに……その日から始めたんだろう、弓の鍛錬」
「そうだったなぁ……あれは、この日が来るのを予見していたのかいないのか」
元経と経友は笑った。
そして互いに、愛すべき妹のためにと、行動を開始するのだった。
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