第三章  多治比元就の初陣

25 兄の想い

 出雲いずもの尼子家・月山富田がっさんとだ城から、吉川家の姫・雪が、名馬・絶風に乗って、多治比へ疾駆している頃。

 当の多治比――山中の山里では、城主・多治比元就が、刻一刻と迫る、安芸武田家の尖兵・熊谷元直の情報を入手しつつ、領民の避難を進めていた。


「……よいか! 安芸武田家の配下である、三入高松みいりたかまつ城城主・熊谷元直が、兵およそ六百を率いて迫っておるという話だ! なるべく身軽にして逃げよ! 行き先は、吉田郡山ぞ!」


 元就は自ら多治比の山里に出て、大音声で告げて回った。

 そして、腹心である井上光政をはじめとして、各将兵に、一軒一軒回って、安否の確認と避難の促しを命じた。


御館おやかたさま! 領民の中で、足が不自由な者、病や怪我の有る者、そして年寄りや女子供で、吉田郡山まで行けないという者たちは、いかがいたしましょうや?」


 井上光政が、何軒か回ったあとで、元就に対応の検討を申し出る。

 光政は、かつて多治比の城を乗っ取った井上一族の者であるが、その城乗っ取りの際に、毛利興元の京への遠征行に付き従っていたため、元就との間に確執が無く、かつ、有為ゆういの人材だった。


「さような者は致し方ない、多治比猿掛城へ連れて行ってやれ。ただし、多治比猿掛城も戦場となるやもしれぬ。そのこと、承知せよと伝えよ」


「はっ」


 光政の指示の下、吉田郡山まで行けない人々は、すべてが多治比猿掛城に入った。

 ほぼ同時に、歩ける者たちは、元就の指図どおり、吉田郡山へののぼった。


「行ったか……」


 元就は、やれやれ、とりあえずは手筈通りだな、と額に浮かぶ汗を拭いた。

 

「まずは緒戦……猛将と名高き、熊谷元直か」


 われながら大それたことをやっている、と元就はこぼした。

 自分は初陣前だというのに、いきなりの、寡兵を率いての、多数を率いる猛将相手の合戦である。

 国人(地域領主)である以上、大名の子息のように、十代の内に儀礼的な勝利を得させるための初陣は望めないと思っていたが、まさかこのようなことになるとは。

 それもこれも、兄・毛利興元が京から帰って来ず、初陣の暇がなかったことに起因している。

 そうこうしているうちに、もう自分は二十歳だ。


「……おうらみ申し上げますぞ、兄上」


 なぜ、自分を置いて、いつまでもみやこにいたのか。

 そのせいで、兄がいないことに乗じて、家臣に城を盗られたというのに、それでも、帰ってこなかった。

 城を盗られたことに関しては、旅の老僧と、それに応じた兄自身の動きにより、多治比という家を興し、また城を盗った家臣が頓死したことにより、解決を見た。

 奇妙なのは、それでも兄は帰ってこなかったことだ。

 主君・大内義興の命があるのは分かる。

 分かるが、何故……。


「……よお」


 そこで元就の思惟は中断された。

 いつの間にか、眼前に、目元の涼やかな、若い侍が立っていたからである。


「……法蓮坊どの?」


「よく、分かったな」


 侍はにやりと笑った。


「還俗されたので?」


「まあな」


 今は長井という、と元・法蓮坊は言った。


「……さて、興元が亡くなったという報を受けて、還俗破戒僧の身であるが、経のひとつでも上げてやるかと思いきや」


 興元の訃報を、元就は妙覚寺に対して送っていた。法蓮坊なら知りたかろうと思っていたが、まさか来るとは。

 元就の驚きをよそに、長井は手をぱんぱんと打ち鳴らして、あたりを見回した。


「吉田郡山城に行ってみれば、何だお前はと追い返される始末よ。何だあの高橋というは?」


 元就の答えは、簡にして要を極めた。


「兄の妻の父」


「……はっ」


 そういえばそういうことを聞いたような気もしたな、と長井は笑った。


「しかし何だお前も辛気くさい顔になって。お前もアレか? おれを追い払おうってクチか?」


「……正直、帰ってもらった方が良いと思っている」


「……ワケは?」


 それぐらい聞かせろと、長井は迫る。


「察しておろうが、多治比ここはこれから戦場となる」


 それだけで、長井は経緯を言い当てる。


「……そうか、興元の奴が死んだから、安芸武田家が乗じたんだんだな?」


「そのとおり」


 具体的には、と元就は説明する。安芸武田家が有田城の奪還を強行し、さらにその有田城攻めを陽動として、多治比へ猛将・熊谷元直を向かわせたことを。


「……以上により、吉川からの援軍は望めず、毛利本家・吉田郡山城からも派兵は見込めない……


 気がついたら、長井の口八丁で、元就は大分の経緯をこと細かに話していた。

 だがそれもいいさ、と元就は思った。

 長井が敵方にぺらぺらとしゃべることは無かろうし、そもそも、これから帰ってもらうつもりだ。

 できれば、さきほど送り出した多治比の領民の護衛でもしてもらえると嬉しい。

 ……そんなことを考えていると、井上光政が多治比猿掛城から戻ってきて、長井を見て、「あ」と言った。


「……法蓮坊どの! 法蓮坊どのではないですか! いやあ、懐かしいなぁ」


「お、光政か! 息災だな」


 不審げな顔の元就に、光政が説明する。

 京にて、毛利興元に付き従っているとき、その興元の知恵袋的な存在の、風来坊の破戒僧の護衛を興元に頼まれ、そして共に戦った仲であるということを。


「護衛がいらないくらい、強うございましたけどな」


「いや、法体ほったいのおれが剣を振るうのも、ちとどうかなと思うたし」


 元就は、光政が旧知の仲というなら、長井と一緒に、吉田郡山城へ向かってもらうのも悪くないと思った。

 これからの戦い、分が悪すぎる。やはり、光政につきあわせるのも悪い。ましてや、長井をも。


「……よし、二人とも。知り合いというならちょうどいい、多治比の領民が吉田郡山城に向かっている。その護衛を……」


「おい待て、多治比どの」


 長井が手のひらを前に出して、元就の発言を止める。


「そっから、おれたちに吉田郡山城にいろ、だの、美濃へ帰れ、だの言うつもりか?」


「……そうだ」


 長井はにやにやと笑いながら、指を三本、立てた。


「三日」


「何を言っている?」


 元就には、長井が言わんとしていることが何となく分かったが、それをにわかには承服できなかった。


「おれはな、興元のために経を読むつもりだった……で、美濃の父から許しを得た。三日は安芸にいてよいと」


「…………」


「だから三日、力を貸してやろう」


「……要らぬ気づかいだ」


「勘ちがいするなよ」


 長井は大仰に両手を広げた。


「おれはな、興元のために力を貸すんだ。お前じゃない」


「同じことだろう」


「ちがうな」


 長井は元就を指差す。


「お前、今、兄を怨むとか言っていたな? 誤魔化すなよ? おれは聞いていたぞ」


「…………」


「そんな台詞を聞いて、おめおめと帰れるかよ。仮にも戦友だぞ? 興元とおれと……光政は」


 光政は恐縮と言って、頭を下げた。こういう礼儀正しいところが、興元に重んじられた理由でもある。


「つまりは……残されたお前、多治比どのに、そんなことを言われちゃあ、あの世の興元も浮かばれないだろう。だったら、力を貸そう。そういうことだ」


「いや、さっきの台詞は……」


 元就は、この際だからいいか、と興元が京に居て帰らなかったことに対しての怨みを述べた。光政も、興元に付き従っていたから、これは聞かせても良いだろうとも、思った。


「……ふむ」


 ひとくさり、元就の話を聞いた長井は、少し首をかしげていたが、「……言っても、いいか」と、ぽつりとらした。


「あのな、毛利興元……お前の兄な、よく酒を呑んではこぼしていた……自分がここにいなければ、次は弟だ、と」


「……何?」


 元就は思わず、横にいる光政を見ると、光政もしかりとうなずいていた。

 光政は本来、興元の護衛として従軍しており、その関係から、よく興元と酒を付き合っていたという。


「では……まことか?」


「応。そもそもが、おぬしと興元の父御ててごが、大内どのへの協力に耐えらえれずに隠居したと聞く。結果、嫡子である興元が京へおもむく破目になったんだろうが」


「…………」


 先々代・毛利弘元、つまり興元と元就の父は、大内氏ならびに幕府側の細川氏双方から、出兵協力を要求され、それに耐えられず隠居し、毛利興元に家督を譲った。譲られた興元は、結局、大内義興に従って京へと出陣することになった。


「……興元はな、それを繰り返すことになるのを避けたかった。言っておくが、あの頃の京はな、魔境だ。応仁の大乱の頃に比ぶればマシかもしれんがな……やはり、魔境よ」


 長井の発言に、光政は瞑目してうなずく。何かに対して祈るように。


「そりゃあ、おぬしとしては、城を追われることになったのは、興元のせいでもあるだろう……が、奴とて、必死だった。領国を完璧に制御するなど、どだい、無理な話よ。奴も俺も、まだ十五か六の、ひよっこだぞ? 興元も悪いと思うが、それでも」


 そこで長井は言葉を切った。天を見つめるのは、そこに興元の顔が浮かんでいるからであろうか。


「……それでも、。あの魔境にな」


 そういえば、兄が「戦にいた」と言って帰ってきたときは、すでに自分は、取り戻した城にちなんで多治比という分家を興してしばらく経ったあとだった。その頃には、京の情勢は落ち着きを見せていたという。

 そして死を前にした兄が、言いかけたことは、そういうことだったのか。

 城を盗られる破目になったのに、京へ行かせないためと、何で言えよう。

 単なる言い訳ではないか、と返されるのが関の山と思っていたのではないか。

 あの頭がいいようでいて、不器用な、兄は。


「……兄上」


 元就の目から涙があふれてきた。

 怨みはあった。

 呪いもした。

 なぜ、帰らぬのかと。

 盗られた城は取り戻し、その憎しみの大半は霧消したが、それでも、しこりは残っていた。

 いてくれれば、と。

 だが。


「ありがとうございます……兄上。今……元就は、兄上の御為おんために戦い、そして、戦い抜いてみせます」


 黙って肩を叩いてくれる長井の存在が、今は嬉しかった。

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