08 覇王別姫

 項羽。

 古代中国の覇王であり、西楚の覇王と号して、のちに漢王朝を興す劉邦、すなわち漢の高祖を相手に、楚漢戦争と称される戦乱を巻き起こした男である。

 そして時は下り、この国の戦国において、安芸あきの安芸武田家・武田元繁は、己の武勇を誇り、そして覇王となることを望み、項羽と称した……。



 多治比元就は、安芸武田家・武田元繁から「佐東銀山さとうかなやま城に帰城したのちに会う」という言葉を信じて、ひそかに安芸武田軍の行進のあとをつけていた。

 安芸武田軍は順調に進軍していき、ついに佐東銀山城に至った。

 が、至ったあとから、なった。

 一向に軍勢が入城せず、それどころか、城の前にてたむろする感じになっている。


「はて……」


 元就が不審を感じて、いっそのこと思い切って城に行くか、と足を踏み出したところに、武田元繁が城から姿を現した。

 元繁はすたすたと、安芸武田軍の中の、ひときわ豪奢ごうしゃ輿こしの前に行った。そこで一言二言、何か言ったかと思うと、輿の戸を開け、中から女を引きずり出した。


「くどい! お前とは離縁する! そう言った!」


 女が髪を振り乱し、何故だ、分からないと言い出すと、元繁はうるさそうに、女のその髪をつかみ上げた。

 やめて、助けてと叫ぶ女。


「やかましい! 聞き分けのない女め! こういうときだけ気の強いところを見せおって!」


 元繁はつかんだ髪を思い切り引っ張り上げ、そしてそのまま、女を放り出した。


「大人しく言うことを聞いておれば、京まで送り返してやったのに……もう良い! お前ひとりで、どこへなりと行くがよい!」


 元繁は女に背を向けると、そのまま「入城」と軍に号令を下した。見かねた家臣のひとりが、どうしますかと聞くと、元繁は酷くつまらなそうな表情をして「捨て置けい」と吐くように言い、城へ戻っていった。


「……なんだ? こりゃ」


 元就は木陰に隠れて様子をうかがっていたが、そのうち、安芸武田軍が入城し終えてしまったので、そっと出ていき、よよと泣き崩れている女のそばに行った。


「……もし、もし」


「……あい」


 女は顔を上げた。白粉が涙と鼻水でめちゃくちゃになり、見れたものでない状態になっていた。


「酷い面相でござるぞ……ああいや、顔ではなく、化粧けわいがだ」


「いえ、それは分かりますが……そなたは?」


「拙者は、毛利家中、多治比元就と申す。こたび、武田元繁どのに……」


「ひ!」


 女は元繁の名を聞いた途端、悲鳴を上げる。

 周囲に誰もいなくて良かった、と胸をなでおろす元就だったが、せっかく落ち着いてきた女が混乱しても困るので、とりあえず「こちらへ」と言って、もと居た木陰に連れ立って戻った。


「落ち着かれよ、とりあえず、ご尊名を」


「安芸武田……ではなく、今はまた、飛鳥井雅俊のむすめ深芳野みよしのじゃ……」


「え!? 大内義興さまのご養女の!?」


「大内……その肩書も……意味をなさなくなったようじゃ」


 深芳野は言う。

 輿に揺られて、長旅を終え、ようやく夫である武田元繁の居城・佐東銀山城にたどり着いたかと思いきや、突然、その夫であった元繁から離縁を告げられ輿から引きずり出され、抗議したら放逐されるという羽目になった……と。


「離縁と? しかし、をしたら安芸武田家は……」


 そこで元就は気づいた。をしても、そもそも大内義興は何ら報復の手段を持っていない。そもそも、そういう手段が、兵があるのなら、武田元繁を安芸に戻したりない。

 今、安芸は空白地帯なのだ。だからこそ、元繁は大内からの離反を決意したのだ。


「こいつは困ったことになったぞ……」


 頭を抱える元就に、深芳野が艶々した黒髪を揺らしながら、誰か来る、と言った。

 反射的に元就と深芳野は近くの茂みに飛び込む。

 その茂みの前を、葦毛あしげの馬を闊歩かっぽさせ、ひとりの初老の男が、あくびをしながら通り過ぎて行行くのが見えた。


尼子経久あまごつねひさ……」


 あれが張本人か。元就の頭に、勢力地図が浮かぶ。

 安芸武田が、大内と手を切る。

 そして一方で、尼子と結ぶ。


「これでは、兄上の描いた絵図面と逆ではないか」


 尼子の安芸への策動に抗するため、大内義興に頭を下げて、安芸武田家の武田元繁に、安芸に帰ってもらったのである。

 ところが、その安芸武田家が、尼子の側についてしまった。

 そして今、その安芸武田家を、止められる者はいない。


「いない、が……もはやここまで来ると、動かすのは……」


 そこまで呟いた元就は、深芳野が袖を引っ張っているのに気がついた。

 もう、経久は充分離れたところまで行った、と。


「……ふむ、しかしこれでは、佐東銀山城に行くわけにはいかないな。虎穴に入るようなものだ」


 多治比へ戻るか、と元就は腰を上げた。同時に、深芳野も立ち上がる。そこで初めて元就は、深芳野の扱いについて考えねばならないことに気がついた。

 深芳野は顔をぬぐったらしく、化粧の下にあった、切れ長の憂いを帯びた目を見せながら、言った。


「申し訳ありませんが、妾は他に頼れる者がいません。妾を連れて行ってもらえませんか」


「……そうなるよなぁ……ではなく、田舎の城ですが、ご来駕らいがいただけますかな、深芳野姫」


「姫」


「ああいや、他意はござらん」


 離縁の現場を見といてそれはないよな、と元就は顔を赤くして恥じ入った。

 深芳野は、ほほ、と笑って、他に呼びようがないでしょうから構いませんと答えた。

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