08 覇王別姫
項羽。
古代中国の覇王であり、西楚の覇王と号して、のちに漢王朝を興す劉邦、すなわち漢の高祖を相手に、楚漢戦争と称される戦乱を巻き起こした男である。
そして時は下り、この国の戦国において、
*
多治比元就は、安芸武田家・武田元繁から「
安芸武田軍は順調に進軍していき、ついに佐東銀山城に至った。
が、至ったあとから、おかしくなった。
一向に軍勢が入城せず、それどころか、城の前にて
「はて……」
元就が不審を感じて、いっそのこと思い切って城に行くか、と足を踏み出したところに、武田元繁が城から姿を現した。
元繁はすたすたと、安芸武田軍の中の、ひときわ
「くどい! お前とは離縁する! そう言った!」
女が髪を振り乱し、何故だ、分からないと言い出すと、元繁はうるさそうに、女のその髪をつかみ上げた。
やめて、助けてと叫ぶ女。
「やかましい! 聞き分けのない女め! こういうときだけ気の強いところを見せおって!」
元繁はつかんだ髪を思い切り引っ張り上げ、そしてそのまま、女を放り出した。
「大人しく言うことを聞いておれば、京まで送り返してやったのに……もう良い! お前ひとりで、どこへなりと行くがよい!」
元繁は女に背を向けると、そのまま「入城」と軍に号令を下した。見かねた家臣のひとりが、どうしますかと聞くと、元繁は酷くつまらなそうな表情をして「捨て置けい」と吐くように言い、城へ戻っていった。
「……なんだ? こりゃ」
元就は木陰に隠れて様子をうかがっていたが、そのうち、安芸武田軍が入城し終えてしまったので、そっと出ていき、よよと泣き崩れている女のそばに行った。
「……もし、もし」
「……あい」
女は顔を上げた。白粉が涙と鼻水でめちゃくちゃになり、見れたものでない状態になっていた。
「酷い面相でござるぞ……ああいや、顔ではなく、
「いえ、それは分かりますが……そなたは?」
「拙者は、毛利家中、多治比元就と申す。こたび、武田元繁どのに……」
「ひ!」
女は元繁の名を聞いた途端、悲鳴を上げる。
周囲に誰もいなくて良かった、と胸をなでおろす元就だったが、せっかく落ち着いてきた女が混乱しても困るので、とりあえず「こちらへ」と言って、もと居た木陰に連れ立って戻った。
「落ち着かれよ、とりあえず、ご尊名を」
「安芸武田……ではなく、今はまた、飛鳥井雅俊の
「え!? 大内義興さまのご養女の!?」
「大内……その肩書も……意味をなさなくなったようじゃ」
深芳野は言う。
輿に揺られて、長旅を終え、ようやく夫である武田元繁の居城・佐東銀山城にたどり着いたかと思いきや、突然、その夫であった元繁から離縁を告げられ輿から引きずり出され、抗議したら放逐されるという羽目になった……と。
「離縁と? しかし、そんなことをしたら安芸武田家は……」
そこで元就は気づいた。そんなことをしても、そもそも大内義興は何ら報復の手段を持っていない。そもそも、そういう手段が、兵があるのなら、武田元繁を安芸に戻したりない。
今、安芸は空白地帯なのだ。だからこそ、元繁は大内からの離反を決意したのだ。
「こいつは困ったことになったぞ……」
頭を抱える元就に、深芳野が艶々した黒髪を揺らしながら、誰か来る、と言った。
反射的に元就と深芳野は近くの茂みに飛び込む。
その茂みの前を、
「
あれが張本人か。元就の頭に、勢力地図が浮かぶ。
安芸武田が、大内と手を切る。
そして一方で、尼子と結ぶ。
「これでは、兄上の描いた絵図面と逆ではないか」
尼子の安芸への策動に抗するため、大内義興に頭を下げて、安芸武田家の武田元繁に、安芸に帰ってもらったのである。
ところが、その安芸武田家が、尼子の側についてしまった。
そして今、その安芸武田家を、止められる者はいない。
「いない、が……もはやここまで来ると、動かすのは……」
そこまで呟いた元就は、深芳野が袖を引っ張っているのに気がついた。
もう、経久は充分離れたところまで行った、と。
「……ふむ、しかしこれでは、佐東銀山城に行くわけにはいかないな。虎穴に入るようなものだ」
多治比へ戻るか、と元就は腰を上げた。同時に、深芳野も立ち上がる。そこで初めて元就は、深芳野の扱いについて考えねばならないことに気がついた。
深芳野は顔をぬぐったらしく、化粧の下にあった、切れ長の憂いを帯びた目を見せながら、言った。
「申し訳ありませんが、妾は他に頼れる者がいません。妾を連れて行ってもらえませんか」
「……そうなるよなぁ……ではなく、田舎の城ですが、ご
「姫」
「ああいや、他意はござらん」
離縁の現場を見といてそれはないよな、と元就は顔を赤くして恥じ入った。
深芳野は、ほほ、と笑って、他に呼びようがないでしょうから構いませんと答えた。
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