07 天性無欲正直の人
その覇道はまっすぐな一本道ではなく、時に曲がり角もあり、一度は国を失うという憂き目にあったとも言われる。
……だからこそ、亡国という不運というか過失に見舞われたからこそ、経久は貪欲に、飽くなき国盗りに身を投じている。
天性無欲。
そう言われるほど、物欲を捨てきっている経久であったが、国盗りに対する欲は誰よりも強く、それ以外の欲を彼から抜き去っていた……。
*
「……ご婚礼、ならびに、ご帰国、おめでとうござる」
ぬけぬけと経久は言い放ち、いかにも当たり前といった感じですたすたと歩み寄り、
そのあまりの自然さに、誰もが度肝を抜かれた。
元繁もまた自失の渦中にいたが、さすがに数瞬で立ち戻り、手綱を引いて、経久から離れようとした。
が、経久は笑った。
「はは、
騅とは、史上、本物の項羽の愛馬の名である。
経久から離れようと、元繁は手綱を引いているのだが、馬はぴくりともしない。
経久の腕力というか迫力に、馬がなびいているのだ。
「……とりあえずは入城されては
経久が半ば振り返りながら、その眼光で元繁を射抜く。
「……く」
大内義興が傑物だとしたら、こいつは怪物だ。
元繁は心中の動揺を抑え、ここで
*
尼子経久は、何を狙ってきたかは察することができない。しかし、少なくとも、
「天性無欲正直の人」として知られる経久の、真骨頂である。
「…………」
元繁としては
決して、経久は威張ったり脅したり、ましてや殺気を向けたりはしない。
だが、それが、逆に恐ろしいのだ。
この、家来に対しても、物欲しげな場合は、その物をあっさり
城の松の木を良いものと持ち上げた家来に対し、その松の木を差し上げようと切り倒そうとする男だ。
こんなにも人のために尽くす男が、その国盗りという野望のためにどれだけ尽くしているか。
それを想像すると、恐ろしい。
「さ、足を洗えましたぞ、元繁どの」
綺麗になった足を見て、心底嬉しそうに微笑む経久。
この正直なところが、また怖い。
二人で。
「……こちらへ」
足まで洗ってもらったのだ。
城主である自らが案内せざるを得ない。
元繁と経久は、ごく自然に城主の間に入り、そしてそのまま二人きりとなった。
「……して?」
元繁としては、用件を聞くだけ聞いて、とりあえずは経久に帰ってもらおうという腹積もりだった。
仮にも大内義興の命で安芸へ戻ってきたその日のうちに、敵の首魁である経久と膝を突き合わせているこの状況は、いかにも
義興の猜疑心を刺激し、せっかくの安芸帰国を取り消しにされ、また上洛を余儀なくされるかもしれない。
「…………」
経久は、そんな元繁の胸中を読み取っているのかいないのか、にんまりとした笑顔を浮かべていた。
それが元繁の
「聞いておるッ! なぜ、答えぬ!」
「……さようでございますな。失礼をいたした」
少しもそのようなことを思っていないような笑顔を浮かべ、経久は詫びる。
しかし次の瞬間、それは凄絶な笑みに変わった。
「尼子を討伐されるとの
自分と敵対するか、と聞く経久。
経久の二つ名、雲州の狼。
その牙を見たような気がした。
「……ま、まことだッ」
ここで退くわけにはいかない。
自分にも、安芸武田家の当主として、仮にも項羽と称せられる者として、意地がある。
経久は元繁を睨んだ。
「……ほう、それは残念至極」
「ふん、だが、今すぐとは言わぬ。いろいろと尽くしてくれた礼は言う……が、
こいつと一緒にいると危険だ。
総毛立ったこの身が教えてくれる。
こいつと一緒にいればいるだけ、深淵に取り込まれる。
……元繁のその感覚は正しかった。
もう取り込まれているということをのぞいては。
「それは仕方ないのう……可愛い一族の者にさようなことを言われては、の」
「だ……誰が一族だッ! 血迷うたか!」
おれは大内家の身内だぞ、と強がる元繁を、経久は
「義興の、しかも養女ごときを
大内義興を呼び捨てにした
「そうではないか元繁どの。いかにも間に合わせという感じの、よその家の、しかも分家でもどこでもない、縁もゆかりもない公卿の娘。そんな養女ごときを妻としたところで、あの義興が、おぬしを身内と思うてくれるかの?」
そんなことより、と、いつの間にか経久は、元繁の横に回り、その手を取る。
「な……何をッ」
「この手に取りたくないのか?」
「だから……何をッ」
「安芸を、じゃ」
「そ……それは……大内家の者として……」
「自らの手で取りたくはないのかと聞いておる!」
これまでの柔和な態度を崩して、一転、怒鳴りつける経久。
手を握られたままの元繁は離れることができず、喘ぐように息を漏らす。
「おれの……手……で?」
「そうじゃ……今のように、義興の
そこで経久は言葉を切った。表情を見ると、能面のよう。これが、この男の本性か。本性の顔か。
能面がしゃべる。
「おのれの手で……盗ろうとは思わないのか、安芸を」
今なら盗れるぞ、
「い、今なら……」
「ああそうだ、大内は、おぬしに丸投げしたから、他に兵はない……好機だ」
「好機……」
元繁の脳裏に、安芸の勢力地図が浮かぶ。
安芸武田家の軍、そして麾下の国人に声をかければ、五千は集まろう。
そして大内家は、京に兵力を集中しているため、この五千の軍に対抗することはできない。
そうなると、あとは安芸国人一揆ぐらいか。
「しかし……」
「ふむ……」
ここらで決め手を打つか、と経久は表情を戻す。
「元繁どの、元繁どの」
「な、なんだ」
「さきほどのわしの言葉、覚えておるか」
「言葉……?」
「そう……一族に、ということだ」
「一族……?」
「わが弟の久幸に娘がいる」
「そ、それが何か」
「もろうてくれ……正室に」
「正室!?」
こいつは何を言っているんだ。
わが正室は、大内義興の養女で、公卿・飛鳥井雅俊の
何を今さら……。
「言っておくが、尼子の、他ならぬわが弟の娘だ。尼子は、そなたを切り捨てはしない」
人質と思うても良いぞ、と経久はつけ加えた。
「ぐ…………」
たしかに、大内義興にとって、養女である飛鳥井家の女は、人質の価値が薄い。
しかるに、尼子経久にとって、弟・尼子久幸は腹心である。尼子家にとって、
「飛鳥井の娘など、離縁してしまえば良いのじゃ」
「…………」
そうだな。
元繁はひとりごちる。
元々、安芸武田家は名門であり、大内義興には、不幸にも
「今こそ……安芸をわが手に。そして今度こそ、大内になど
元繁は立ち上がる。
同じく立ち上がった経久の方を向く。
「尼子どの」
「なんじゃ」
「おかげで目が覚めた。礼を申す」
「なんの、なんの」
「では早速……妻女を……ではない、妻女だった女を、追い出して参る」
元々、
しばらくすると女の悲鳴が聞こえた。「やめて」とか「助けて」という声だ。
そしてまたしばらくすると、元繁が戻ってきた。
「これでよし……尼子どの」
「うむ」
「姪御どのは、つまらない女ではあるまいな? おれは元々、強い女が好きなのだ……飽きさせない女だといいが」
元繁の中の何かが変わった。
野性味を増した元繁の風貌を見ながら、経久は、わが姪に伝えよう、と言った。
そうか、と元繁は鷹揚にうなずき、「では家臣どもを集める」と告げた。
「安芸をわが手に……ふっふ……尼子どののおかげで、面白くなってきた……わが人生、大内家の走狗に終わらすには惜しいと思うておったことに、今、気づいたわ。ふっふ……くふふ……はっはっはっは……」
武田元繁の覇道が始まる。
それは確かに、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます