直観的虚無主義論者【KAC20213/お題「直観」】

蒼城ルオ

直観的虚無主義論者

 大学に入って最初に仲良くなった先輩の第一印象は、「生きて来た世界が違う人」だった。極端な例え方をするなら、悩み事なんて今まで一切なく生きてきて、常に前を向いているような人。心理学や哲学、倫理学を浅く広く勉強する姿には、何でも興味の赴くままに学ぶ姿勢こそ似つかわしく思えど、その題材はただ好奇心が向いただけで、真実学問に縋っているようには露ほどにも感じられなかった。だからこそ、親しい自覚はあったが先輩が自分にいつまでも声をかけてくれる理由は一切わかっていなかったし、学年も所属もばらばらな共通の友人達との飲み会で、先輩の白くて長い指によく似合う甘い煙草を始めた理由を聞いたとき、呆気にとられたのだ。


「間接的な自殺、ですか?」

「うん」


 己がどれだけ似合っていない言葉を吐いたのかまるで分かっていない様子で、先輩は頷いた。黒くて少し長めの前髪がさらりと流れる。そうして、先日手に入れた参考資料を諳んじるような薄っぺらさで続けた。


「あんまり長生きする気ないからねぇ、削れる寿命は削っとこうかと」

「なんで」

「別に深刻な悩みがあるわけじゃないよ。今は人生楽しいし」


 今は、と反復すると、そこに食いつくか若人よ、と芝居がかった口調で混ぜ返される。その軽やかな声のどこにも、生き死にを本気で考えたことがある要素はなく、困惑した。有り体に言ってしまえば、この発言自体が軽々しく発せられたものではと、苛立ちさえ覚えていたのだ。死にたいなんて本気で思ったこと、恵まれたあなたは一度だってないくせに、と。


「んー? 話すと長くなりそうだし、昔の写真見る?」


 だから、差し出されたスマホを、何の覚悟もせずに覗き込んだ。どうせ部活動か何かで泣き腫らした顔でも見せられるのだろう。誰かと協力して負けた思い出は、そもそも誰かと確固たる絆を結べた成功体験があってこそ悔しい悲しいと思うわけで、写真に残せる時点でそれは綺麗な、悪い思い出もどきでしかないんですよ、と、酔いが回って遠慮を放り投げてきた口先のままに論破する気でさえいたのだ。



 そこには、先輩の姿をした別人がいた。

 正解には、絶望と失望が先輩の肌という皮を被せられて、どうにかヒトとなりえただけの何かがいた。服装のセンスは良く、髪に至っては写真の中のほうが手間暇かけられていそうだ。画像の中の先輩も、目の前でスマホを持つ先輩と、全く同じ笑みを浮かべている。表面上の情報だけ拾ったならば、日常の風景、しあわせなひとだと言えるはずなのに、違う。



「これ、は」

「大学入ったばかりの頃かな。直観でね、ああ人生に意味なんてないんだなあ、と思ってて」

「直感?」

「あ、多分漢字が違うな。感情の感じゃなくて観察の観」


 頭の中でその熟語を思い浮かべる。直観。意味を問うより、そんなことを聞きたいんじゃないと反駁するより先に、スマホを自分の手元に戻した先輩の言葉が滔々と続いた。


「なんというかね、善悪とか倫理とかそういうものに、絶対的なものってないんだなーって実感することがあったのが高校の頃で、まあ、若かったからさ、色々考え込んじゃって……そのうち、あれ何日くらい眠れなかった日の深夜だったかな、とにかく、いつだったかの深夜に、人生や世界に何の意味もないんだろうな、って、すとんと辿り着いちゃったんだよね」


 一区切りとばかりにビールで喉を湿らせ、そのまま唐揚げをつつき始める。両隣には同期や先輩もいるのに、やれ次の講義がどうだバイトのシフトがどうだという声が遠い。あちらとこちらで話題の重さが段違いだ。そのくせ、そんなたわいない会話に、人の形をした薄暗い虚ろへと繋がる話も混ざりそうになる。確かに話題の穂先を提供したのは自分だが、先輩はなぜ、今このときこの場所で、こんな話をするのだろう。冗談だろうか、いや、そのはずだ、だから早く、悪い冗談だと言ってほしい。

先輩が唐揚げを頬張り咀嚼する間、無意味に長い沈黙が続く。そのまま煙草に火をつけた先輩は、煙と共にこんな言葉を唇から吐き出す。


「ああ、気にしなくていいよ。今は人生を懸命に生きる側でいるからさ」

「そう、ですよね」


 ぎこちなく笑う。それを、先の話を終わらせる免罪符だと思ってしまう。当たり前のように雑談に切り替わるから、違和感は酎ハイで押し流して笑った。何の免罪符にもならないが、心理学、哲学、倫理学の三分野にまたがる虚無主義という言葉にはふたつの意味合いがあるなどと、知る由もなかったのだ。すなわち、人生の無意味さに絶望することと、人生は無意味だと定義したうえで全て偽りでしかない生を肯定すること。



 先輩が結局、人生は無意味でないなどとは言っていないと気づいたのは、最初からなかった先輩と二人で飲みに行く権利を、完全に奪われたときだった。

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