第10話  稜ちゃんと私達 Ⅳ


 夕暮れになる頃にはもう血中の酸素飽和度も測定が出来なくなった。

 四肢の末端は網状のチアノーゼが時間の経過と共に広がっていく。

 握る手や擦る足……いや、母の全身から体温が余り感じられない。

 体温も測定不可と言うか、低過ぎて上がる事はない。

 血圧も機器での測定は上手く感知出来ず、ある程度の加圧だけをして触診で最高値を測るだけとなっていく。

 それも最初は手首で測定出来たものが肘へと場所が変わっていく。

 対光反射辛うじてあるけれども深夜へ向けて少しずつ動向が散大していった。


 危篤状態になってから特にこれと言った治療は行ってはいない。

 最初は一日500mlの点滴を食べる事も飲む事も出来ないから、でも二回しか行ってはいない。

 先生から余分な水分や酸素は患者さんの負担になるからと言われた。

 でも病院にいた頃それは当たり前に行われていた処置である。

 

 飲食が出来なければ点滴で補液を。

 血中の酸素飽和度がある一定まで下がれば酸素吸入を。


 だがその何れもが返って患者さんの負担になるとは思いもしなかった。

 でも確かに助かる見込みのなる患者さんならばそれは命を繋ぐ為に必要な処置だろう。

 だが命を終えようとする患者さん達にとってはどうなのか。


 そう枯れ逝く命へ必要のないものを与えたとしてもそれは返って患者さん本人への負担となってしまい兼ねない。


 理論上では直ぐに納得は出来た。

 しかし心の中では……それが二回だけ行われた点滴である。

 そしてそれ以降は何もせずまた特に苦しむ表情を見せる事無く母は静かに最期の瞬間へと向かって行った。



 あれは夜中の1時頃だったかな。

 私は普通に声を掛け、母の右手をしっかりと握りれば――――。


「ママ!!」


 それは何時も呼んでいたたかちゃんではなく昔から慣れ親しんだ様にママと呼べば、その瞬間だけぎゅっと手を握り返してくれた。

 まだ僅かだけれども意識は……いやそれは単なるモンロー反射なのだと言われるのかもしれない。

 でも家族としては呼び掛けられたからこその手を握り返してくれた事にしたい!!


 この時の私は准看護師ではなくだったと思う。


 仕事であればそこへ特別な感情を抱かず粛々と普通に、そして正確に観察が行えていたと思う。

 でもここは病院ではなく私達家族の家で、母は患者さんではなく私のたった一人の親なんだもん。

 だから母は私の声に反応してくれた。

 そう思っていいと思う事にした。

 


 そうして深夜3時……バイタル上は何も変わりがないと言うか、もうこれ以上何も出来ない。

 血圧も何もかもが測定不能となり繰り返しそれらを行う事は返って母の負担になると思い素直には認めたくはない。

 でもこれ以上旅立とうとする母へ戒めの様に縛り付けたくもなかった。

 だから全て――――とは言え行っているのは高が知れている。

 だがその高が知れているものだろうとも縛り付けてはいけないのだと思い外す事にした。

 それから寝ていただろう弟妹を起こしたのである。


「……もう最期だから。もう直ぐ稜ちゃん、いなくなっちゃうから……」


 この仕事をしてからだ。

 何気にわかってしまう人の死の瞬間。

 こんな特技何て私には必要ないし欲しくもない。

 そして何で寄りにも寄って自分の母の死の時間までわかるのだろう。

 そんな事よりも母を助けられる方法を私は知りたかった!!

 なのに……現実は時に酷く残酷である。



 一時間程三人でポツリポツリと昔話をしつつ稜ちゃんのベッドを囲んでその時を見守っていた。


 4時16分。


「ふう……」


 母の人生においての最期の息をゆっくりと最後まで吐き出した稜ちゃんは静かに呼吸が停止した。


「ママ、ママ、っママ!!」

「ママさん、稜ちゃんっっ」

「――――……」


 少しだけ、ほんの少しの時間だけ子供達だけで見守ってから訪問看護師さんへ連絡を入れた。


「――――夜分遅く申し訳ありません。先程母の呼吸……そして心音が停止しました」

「わかりました。これから直ぐに先生へ連絡して一緒に向かいますね」

「はい、お願いします」


 

 それから間もなく先生と看護師さんが来てくれて母の死亡確認をしてくれた。

 私と妹は看護師さんと一緒に最期の清拭とお化粧を施し稜ちゃんの身体を綺麗にした。

 葬儀屋さんへも連絡をしお昼までにはドライアイス等を持ってきてくれた。

 去年からの流行病の事もありお葬式は行わずに直葬を選んだのである。

 折角母を流行病より最後まで護り通してきたと言うのにである。

 最後の別れでクラスターはご免被りたい。


 また本当だったら直送の場合火葬場まで母には会う事が出来ない所だったのだが、流行病のお蔭と言うものではないけれどもだ。

 出棺までは自宅で安置されれば、母の傍にいる事が出来たのである。

 


 本当に見飽きる事のない穏やかで安らかな表情の稜ちゃん。

 だけどもう声を掛けても返事をしてくれる事はない。

 昔の様に冗談の一つも、笑顔すらも見せてはくれない。


 もっと一緒にいたかった。

 親孝行……元気になって社会復帰したらする筈だったのに。

 鬱で一杯迷惑を掛けたから、元気になったら今まで出来なかった旅行にも行こうと思っていたのに……。


 ああ、あれは何時の事だっただろう。

 寝たきりとなってからもよく元気になったらって何をしようかと二人で話をしていたのだ。

 色んな所へ行って美味しいものを食べて、北海道にも旅行へ行きたいねって言えば……。


『うん、行きたいねぇ』


 いつもそう笑って答えてくれていたのに本当にあれは何時の頃だっただろう。


『――――もう……無理』


 そう静かに告げる稜ちゃん。

 もしかしなくとも母はその時にはもう今日の日の事がわかっていたのだろうか。

 なのに問い掛けたくとももう母はこの世の何処にもいない。

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