第9話  稜ちゃんと私達 Ⅲ

「何でぇ、何でなんっっ」


 病院より朝早く妹と帰ってきた弥生を母は拘縮してきただろう腕を必死に動かせば彼女をしっかりと抱き締め慟哭する。

 

 母だけではない。

 家族の誰もが弥生を順番に抱き締めては涙を流していた。

 まだこんなに小さいのに、まだ経った15年しか生きてはいないのに、春菜の時も雪乃の時もそれぞれに悲しかった。

 でも春菜の時は雪乃と弥生が私達の悲しみを癒してくれた。

 いや、私達はお互い寄り添う様に悲しみで一杯になった心を癒し合っていた。


 雪乃の時もそうだった。

 弥生と一緒に私達は悲しみを寄り添い癒し合っていた。

 でも弥生の時は?

 姦し三人娘の最後の一人となった弥生を失った悲しみを癒す事は誰も出来ない。

 そんな状況のまま彼女のお葬式を済ませお骨となって家に帰ってきた時も母は小さな箱を抱えて慟哭した。



 それから間もなくだった。

 最初の数日は何とか食事を食べてくれていた。

 でも不思議な事に認知症が進行しているのにも拘らず、弥生が亡くなった事を一日たりとも忘れる事のない母。

 そしてそんな母からは笑顔が消え、食事を何度勧めても色々好きだったものを作ってみせてもほぼほぼ食べない日が続く。

 

 まるで勾配のきつい坂道を真っ逆さまに転がっていくようだった。

 今まで母が生きて来られたのは我儘でとても愛らしい弥生の存在があったからこそだったのかもしれない。


 その母にとってこの世に繋ぎ止めていたモノを失った瞬間――――母は生を放棄した。


 それでも何とか私達は繋ぎ止めたくて、まだ母にずっと生きて欲しいと思うからこそクリスマスのお祝いを準備し、心は萎んだままだけれどもクリスマスケーキも頑張って作ったよ。

 でも母が食べたのは小さな、ほんの小さな一口だけだった。

 そしてそれが最期の有形物の食事となった。


 高カロリーの飲み物で何とか少しずつ飲んで貰えばその日一日の命を繋ぐ。

 弟が蟹を、弥生が亡くなるひと月前に突然お刺身用の蟹を少しだけ購入をした。

 

『何時食べられなくなるかわからんからな』


 あの時は冗談半分だったと思う。

 シャイな弟は少し照れながらそう言って買ってくれた蟹を美味しいと食べた母の姿。

 きっとあれは虫の知らせだったのかもしれない。

 その証拠に年末に蟹の餡掛けうどんを作っても去年の様には食べてはくれない。

 

 お節も駄目かもしれないと思いつつ、そこを何とか一口でも――――と思いながら母の食べ易そうなものを色々と作ったけれども結局ほぼほぼ何も食べなかった。


 まるで母の心が生を完全に放棄したとしか思えない。


 だからもう何も必要はないのだとはっきり告げられている様にも感じられた。

 日に日に身体は痩せ細り満足に話も、返事もしなくなっていく。

 本当だったら年末最期の日にデイでお風呂へ入りさっぱりとなった状態で新年を迎えて欲しかった。

 だけどもうそのデイへも行けない状態。

 急遽訪問入浴へと変更して貰えば久しぶりのお風呂に入る事が出来て素直に良かったと思った。

 けれどもそれが母の人生最後の入浴となってしまった。


 

 年が明け弥生の月命日の頃にはもう母は危篤状態へとなっていく。

 年末からずっと妹と交代をしてほぼ24時間母を看ていた。

 私は基本不眠だから朝の4時から5時頃まで一時間おきにバイタルをチェックし、時折声を掛けるけれども殆ど反応はない。

 そして妹はその後早めに起きて私が起きるだろうお昼頃までの間をリモートで仕事をしつつ母の様子を見てくれていた。



 1月19日火曜日。

 本当だったら私の循環器内科の受診日だった。

 でもなんか嫌な予感がして私は二週間後へと再予約をし、お昼からは訪問Drの診察に立ち会う。

 

「多分あと数日でしょうね。私もこの症例は初めてなのでこんな風に進行していくとは全く予測は出来ないでしたね」


 それから訪問のオンコールの看護師さんと連絡交換をした。

 何かあれば何時でもいいから連絡して欲しいと。

 その後は訪問入浴の日だったけれども血圧はもう70/台だったから洗顔と綺麗に清拭をして貰えた。


 夕方になっても食事を作る気力はない。

 母の傍で過ごすこの時間が何とも痛いくらいに静かで、そして穏やかな表情のまま時間は流れていく。

 そんな中私は母へ声を掛け手を握れば、ぎゅっと力はないけれどもちゃんと握り返してくれた。

 その小さな事がとんでもなく嬉しくまたほっと安堵させてくれた。

 

 そうして稜ちゃんと私達の長いようでめっちゃ短い最期の夜を迎える事となる。


 

 

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