犬のきもち 🦮

上月くるを

犬のきもち 🦮





 こう見えて、頭脳はイマイチだけどさあ、動物的勘には自信があるんだよね。

 なにしろほら、その点においてはピカイチだった「うちの子」ゆずりだから。

 

 人間の「うちの子」自慢は即却下だが、動物家族の場合は別格と強弁し、自身と亡き犬が如何に似ていたかを得々と語っては、またですか? と周囲を閉口させているケイコであるが、第三者が冷静に分析してみると、その主張にも一理あって、ビミョウな違和感の察知が相当に鋭いのは、まぎれもない事実であるらしい。


 たとえば、朝一番に出勤したオフィスで、机上のパソコンの位置が昨夕の退社時とほんの少しズレている、湯沸かし室の食器棚の観音開きが閉まっていない、あるいは有名人の婚約会見で「この男は危ない」と囁く危惧が必ず現実のものになる。数え上げればキリがなくて自分でも鬱陶しいが、こればかりはどうしようもない。

 


      *

 


 さてさて、犬の話である。

 

 ふたりの娘たちが巣立ったあと独りになったケイコにぴたりと寄り添ってくれた犬は、末子であり相棒であり無二の親友であり、床に突っ伏し呻いている頬を舐めてくれる看護師であり、黙って愚痴を聴いてくれる心理カウンセラーでもあった。


 言われるように飼い主にそっくりで、お世辞にも利発とは言いがたい犬が、持ち前の動物的勘だけは優れていたことを証する真冬の脱走譚をふたつご紹介しよう。


 

      🐕

 


 ひとつ目は、生後3か月でもらわれて来た犬がやんちゃ盛りのころの話である。


 どかっと新雪が降った朝、玄関のわずかな隙をぬるりと掻い潜った犬は、あっと言う間に走り去ってしまった。大慌てで近所を探しまわったが見つからない。車に乗り、窓を全開にして名前を呼びまわったが、黒いしっぽの影さえ見当たらない。


 夕方まで探しまわり、途方に暮れて帰宅したところへ電話が鳴った。

 聞き覚えのない男声の主は、家から数キロ離れた駅前の大きな会計事務所の職員さんで、全身濡れねずみでお腹の被毛から何本もの氷柱つららをぶら下げた黒犬がホールの自動ドアから入って来たので、保健所に連絡してくださったのだという。


 慌てて駆けつけると、全身泥まみれの犬が、リニューアルしたばかりの総ガラス張りオフィスのホールに荷造り用の黄色い紐でつながれ、ちんまり丸まっていた。豪奢なシャンデリアに照らし出された古雑巾みたいな塊の不釣り合いといったら!


 快く応対してくださった中年の職員さんは「積雪で道幅が狭くなっているのに、国道を越え線路も越えて、よくぞここまで歩いて来たもんだよなあ。しかも、数多のビルからうちを選ぶとは、なかなか賢いぞ、おまえ」大冒険野郎を大いに褒めてくださったが、そのいちいちがすなわち飼い主の不徳の致すところなのであった。


 

      🐶


 

 ふたつ目の脱走劇は、それから10年後の極寒のバレンタインデーの夜のこと。


 仕事から帰ると、昼間の居場所として定めてある犬小屋がもぬけの殻だった。

 青ざめて車から降りて見ると、地面に埋め込んだ鎖が根元から千切れている。

 多忙にかこつけて経年劣化の点検を怠っていたケイコの全面的な過失だった。


 立ち尽くす脳裡に10年前の一件が鮮烈によみがえり、膝がガクガクした。

 二度までも……自分の愚かさを悔いても後の祭り、とにかく探すしかない。


 懐中電灯を片手に、刻一刻と寒さを増して行く住宅街を闇雲に探しまわった。

 犬友だちのご主人も駆けつけてくださったが、犬は気配すら発してくれない。


 やはり車で探そうかと思いかけたとき、厚手のダウンコートのポケットで緑色が点滅した。携帯電話の着信は、保健所とともに届け出ておいた警察署からだった。

 

 ――本官も長いことこの仕事をやっていますが、こんなことは初めてですわ。

 

 生活安全課の刑事さんは、軽い興奮口調で、ことの経緯を説明してくださった。

 

 ――善良なる市民……あ、奥さんのことですがね、その市民さんから届け出のあった内容をね、全身真っ黒な中型犬で赤い首輪をしている、耳はやわらかく折れていて歩くたびピロピロ揺れる、4本の足先だけ靴下を履かせたように真っ白……とメモしていると、聞いていた同僚が「おいおい、いまそこによく似た犬が入って来たぞ」と言うんですよ。まさかと思ってホールを見たら、だるまストーブの横に通報とそっくりの犬が丸まっているじゃありませんか。目を疑いましたよ、本官。

 

 急いで迎えに出向くと、揃って偉丈夫の刑事さんに囲まれた犬はべつだん臆する様子もなく、「以前からこの署の犬ですよ」とでも言いたげに馴染みきっている。

 

 ――え、なに、奥さんの会社、この先の南部地域にあるの? じゃ、あれだな、母さんを迎えに行ったんだな、きっと。賢いよなあ、おまえは。いい子いい子。

 

 しきりに褒めてくれる刑事さんに、10年前は縁もゆかりもない東方をひたすら目ざしたのだという事実は言えなかった。もちろん都合のわるい犬も黙っている。

 

 ――はぁ? 自ら出頭したのかって、奥さん、それはかわいそうだわ。この子、何もわるいことはしていないんだから、自ら保護を願い出たと言うべきでしょう。

 

 元気でいろよ、二度とこんなことするんじゃないぞ、母ちゃんと仲良くやれよ。

 刑事さんたちに口々に別れを惜しんでもらった犬は、勝手知ったる車の助手席に飛び乗ると、思いきりの大欠伸をひとつして、何事もなかったように眠り出した。

 

      *

 

 以上がケイコの家の犬の話である。


 賢明なる諸氏においてはすでにお気づきのように、しなくてもいい真冬の冒険を二度まで経験しながら16年の天寿を全うし、静かに神のもとに召された犬には、本来の帰巣本能というものがなかった(これまた方向音痴の飼い主と瓜二つで)。


 なのに、圧倒的な動物的勘をあくまでケイコが主張する理由は、二度が二度とも自分の安全を保障してくれる場所と人とを選んだ、その峻厳なる事実に尽きる。


 寒い夜道を心細く彷徨しながら、体長50センチ、体重15キロの小さな全身で会計事務所と警察署を選んだ動物的勘に、ケイコはいまなおぞっこんなのである。




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