直観「猫を飼う家」【KAC20213】
雪うさこ
専門職の直観
「ねえ、その家。猫飼っていない?」
唐突に私に向けられた問いに、はったとして顔を上げると、目の前の席に座っている黒い瞳がキラキラと輝いて見えた。同性の私でもつい、魅入ってしまうようなその瞳の光は、私の憧れだ。
長い髪を一つに束ね、銀縁眼鏡をかけている彼女は、薄い桃色のブラウスに真っ白な白衣を纏っている。ぱっと見、女医に見間違うような風貌の彼女であるが、それは違っていた。そう、私たちは、医者ではない。医療相談員、MSW——医療ソーシャルワーカーと呼ばれているのだった。
私がこの病院に勤務して半年が経つ。幼いころから、人を助ける仕事に就きたいと思っていた。そのため、大学は福祉系を選び、今年の春には国家資格である社会福祉士を取得した。私たち社会福祉士の仕事は幅広い。児童分野から高齢者分野まで、様々なライフステージの人々を社会の仕組みを利用して支援していく仕事だ。
同級生たちは、児童相談所や、障害者施設、高齢者施設、行政関連施設など様々な機関に就職していった。その中で私が選んだのは「病院」だ。病で苦しむ人たちの力になりたい。そう思ってのことだった。
病院のMSWの仕事は、患者が安心して治療を受けられる体制を作っていく役割がある。公的補助制度の紹介や、手続きの手伝い。入院した場合、退院後に在宅での療養がスムーズに行えるように退院の準備の手伝いをする。多忙極まりない医師と患者やその家族との橋渡しをするのも私たちの役割でもある。
しかし患者、つまりクライアントは一人として同じ人はいない。個人の持つ価値観も違っているし、背景に広がる環境も違っているからだ。新人で入職した私には、毎日が新鮮で、そして四苦八苦の連続であった。そのため、この目の前に座っている美しき女性、佐藤主任が私の教育係として、この半年間、なにかと面倒を見てくれているというわけなのだった。
私が就職した病院は地方都市の総合病院だ。地域連携室(MSWのいる部署)には私を含めて六名ものMSWが配置されていた。これは田舎の病院にしては大所帯だった。もちろん、私は一番の下っ端であるのだが——と、説明をしていくと話が逸れてしまうので、私は最初に佐藤主任に問われた言葉に戻ろうと思う。
その日、土曜勤務時間を終え、残務整理をしていた昼下がりのこと。事務所でパソコンと睨めっこをしていると、目の前に座っていた佐藤主任がそう問うてきたのだった。
「え、なんで分かったんですか? 佐藤主任」
彼女の問いは的を得ていた。午前中に担当をしたT氏のことであろうと予測し頷くと、佐藤主任はニカっと満面の笑みを浮かべた。
「やっぱりね」
彼女は背もたれに預けていた体を前のめりにして、両肘をデスクについた。そして、キラキラとした瞳をさらに輝かせて私を見た。
「猫を飼っているクライントの案件は大抵、難儀するわよね」
「それって、どうしてですか?」
「なんとなくだよ。私の勘って言うのかしら? 直観ってやつね」
「直観って……」
私は「ただなんとなく」で片付けられては面白くないと思い、不満げに彼女を見返した。すると、佐藤主任は頬杖をついてニマニマとするばかりだ。
「T氏は八十代女性。今回は軽い脳梗塞で入院。まあ、今回の治療はそう造作もない。
「でも猫と難しい
「そうだろうか? それでは一つ問おう。彼女の家族である息子はどうだろうか?」
「息子さんですか?」
私は身なりの良い、頭の毛が薄くなってきている息子を思い出す。
「いい人ですよ。少し神経質そうですけど。それはTさんに似ているからだと思います」
「だからだよ! そこが問題だ。息子は五十代独身。新聞配達の仕事をしていると言っていた。しかし、そう高所得でもない職業の息子が外車を二台も所有しているのはどうしてだろうか?」
「なぜって。お好きなんですよ」
「好きだけで所有できる代物ではない。あれを維持するには相当な資金が必要になる。新聞配達の収入でそれが可能かどうかということだ。T氏の夫は元国鉄職員だ。そうすると、T氏の手元には相当額の遺族年金が入ってくる。あの息子は母親が受給している遺族年金を当てに暮らしているということが予想できる」
それは——確かにそうなのだが。
佐藤主任は続ける。
「問題は今回の入院ではないということ。彼女もそれ相応の年齢だ。いつ介護が必要になるとも限らない。彼女が寝たきりになった時、あの息子はどういう選択をするのか想像してみなさい」
「えっと。介護はできないからって施設に入れてしまうか、献身的に自宅で看るか、のどちらかですよね?」
「そうだ。しかし施設に入れるとなると相当額の出費が課せられるのだ。あの息子が生活の質を落としてそうするだろうか。比較的出費の抑えられる在宅を選ぶ可能性が高くはないだろうか。そうなると、在宅での介護にあの息子がどれだけ関われるか。神経質で潔癖症気味の息子だぞ? 母親に実際に手を出せるだろうか」
「それは……。今ですらお母さんにご飯を作ってもらっているくらいですからね。家事能力はないと思います。ああ、確かにそうですね。お金は払いたくないけど、介護もしたくない。それって、経済的虐待と
私は午前中に面談した息子を思い出し、妙に腑に落ちた。彼には介護を担えるだけの能力はないと判断したからだ。佐藤主任は満足気に含み笑いをした。
「あの家は今後、高齢者虐待が発生する可能性がゼロではない。注意しておかないと」
「わかりました。しかしそれと猫と、どう関係があるんですか? 猫が不幸を運んで来るとでも?」
私の問いに佐藤主任は「では次」と話を続けた。
「先月のクライアント。マンションで生活保護を受給していた一人暮らしの女性O氏はどうだ? あの
「あれは——」
水商売で働いてきたO氏。七十代前半。賃貸型マンションで一人暮らし。昭和初期の建造物であるそのマンションは、十分に生活保護の住宅扶助の対象物件だった。
彼女はほぼ無年金であり、生活に
彼女は様々な社会制度に精通していたようで、O氏を市役所に連れ行き、生活保護の手続きをとってくれたのだという。O氏はU子を「命の恩人」と呼び、慕っているようだった。
しかし——。圧迫骨折の経過も落ち着き、いざ退院となったとき、O氏は「自分には金がない。暮らしが苦しい」と訴えてきたのだ。
生活保護であれば、医療費は扶助の対象になる。「金がないとはどういうことだ」とばかりに佐藤主任は、生活保護担当者とO氏の身辺を調べ上げた。
その結果出てきた事実はこうだ。懇切丁寧に接してくれていたU子というのは、ヤクザの女であり、親切にした見返りに生活保護の生活費を半分もピンハネしていたということが明らかになったのだ。
佐藤主任は生活保護担当者と、O氏を自宅には帰さずに、このまま施設に入れてU子から引き離そうとしたのだが……ここで
今の日本では、命の危機が差し迫っていない場合、本人の意思を無視して住まうところを変えることはできない。それこそ人権侵害に値するためだ。佐藤主任と生活保護担当者はかなりの時間をかけてO氏を説得し、施設に住まいを移してもらった。もちろん、その後U子が病院や市役所に乗り込んできたのは言うまででもないが……。
——確かにあの時ばかりは猫の存在を疎ましく思った。
「佐藤主任。だからって、猫が悪いわけではないじゃないですか。今日のTさんだって、猫が原因で虐待が起きるリスクが高まっているわけじゃないです。確かにOさんは猫がいるから話が進みませんでしたけど……」
「猫が悪いとは言っていないではないか。ただ、支援が難航するクライアントの家にはなぜか猫がいるということだ。この前のアルコール依存症のクライントの家にも猫がいた。認知症で猫のぬいぐるみを玄関先に並べていたクライアントもいた。先日のゴミ屋敷は典型的に猫だろう? 猫を十頭以上飼っていて、自分はカップラーメンの生活を余儀なくされ、塩分過多で心不全だ」
「最後の
佐藤主任の主張に、はっきりとした反論ができないのは、彼女の主張に、なんの根拠もないからだ。理由が「なんとなく」では、幻を相手に議論を重ねるようなものだった。
しかしどうしてなのだろうか? 「ただなんとなく」持論には信憑性も確実性もないはずなのに。私は佐藤主任の意見に賛同する気持ちに傾きかけていた。私も心のどこかでは、そう思っていたと言うことなのだろうか?
「一つの物事を見て『正常』か『異常』か、白黒をつけるのは、判断する側の価値観や生きてきた人生で培われた素地が多大なる影響を与える。第六感や第七感って根も歯もない、根拠も不確かなものだけれど、それを感じ取った自分を信じて仕事をしていくことが、私は大事だと思っているよ」
——そうなのだろうか?
ああ、そうだ。きっとそうなのだという確信。
「猫を飼っている家が全て問題ではないよ。私も猫は好きだからな。しかしなぜか、難儀するクライアントの家には高確率で猫がいる。これ、私の直観」
私はこれから何百人、何千人と様々な人に出会うことだろう。そういった人たちとの対話、関わりを通じて私なりの「直観」が生まれるのだろうか?
そう考えると、この仕事は興味深く、そうそう辞められるものではないと思った。私のソーシャルワーカーとしての人生は始まったばかりだった。
−了−
直観「猫を飼う家」【KAC20213】 雪うさこ @yuki_usako
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