7話



 薄ぼんやりと苔色に光る闇の中、異国のいでたちをした若い男がこちらを見つめている。全く覚えのない光景のはずなのに、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しかった。

 男は泣きそうな顔で蒼衣に手を伸ばすが、その指が蒼衣に届くことはなく、彼は悔しそうにその指を握りこんで唇を噛み締める。

 そして「名前を呼べ」と繰り返し囁くのだ。

 蒼衣はそれが、どうしようもなく悲しかった。

 名前を呼びたい。その指に、掌に、頭を撫でてほしい。

 でも、届かない。今の蒼衣は“違う”から。

 待っている、と彼は笑う。待っていてくれ、と蒼衣は叫ぶ。必ずもう一度その名を呼んでみせる。必ず、必ず――─!!

 苔色の光が消えていき、男の人影が急速に遠ざかる。離れてなるものかと伸ばした手の先、視界が完全に闇に染まる直前。

 小さな小さな泣き声が耳元を掠めたような気がした。


「―――――っ!」


 急速に戻った意識。糊でくっつけたように貼り付いた瞼を開くと、見事な格天井が目に飛び込んできた。蒼衣はガンガンと内側から肋骨を叩く心臓を押さえ、大きく息を吐く。

──どうやら自分は和室に寝かされているらしい。布団は確かめるまでもなく高級なものと分かる肌触りで、部屋はゆうに10畳を超えた広さだ。

 一体全体、なぜ自分はこんな場所で寝ているのかと首を傾げた刹那、眼前にぬっと逆さまの顔が現れた。

「っうわああ?!」

 蒼衣は思わず布団から飛び起き、枕を蹴飛ばして後ずさった。1度は落ち着かせた心臓がまた派手に暴れ始める。

「ふふ、本当にお前さんは元気だね。逞しいことだ」

 よく眠っていたね、と深草色の狩衣を着た青年が目を細めて微笑む。

 その姿に、その台詞に、視界が一瞬カメラのフラッシュを焚かれたように白く弾けた。

「───!」

 脳裏にこれまでの出来事が蘇る。通学路の猫、転校生、スピーカーのノイズ、図書室───。

 蒼衣は自分の身に何が起こったかをようやく理解した。


 転校生として現れた深泉慧。彼女とは初対面であるはずなのに、顔を見る度に浮かぶ映像に記憶を裏切られ。スピーカーから謎のノイズが響いたかと思えば、半ば脅される形で図書室に連行され。"反転"という聞いた事も見た事もない現象について説明を受けている間に図書室の周りは海になり──。そうして次々と与えられる情報に頭がついていかず、最後にはみっともなく気絶してしまったのだ。


「おま、え……」

「そういえば名乗っていなかったか。私は丹生(にう)という。気軽に呼んでおくれ」

 あの三毛猫──いや、本性はこの青年の姿だったか。

 登校中、そして四方を海に囲まれた図書室で出会った青年、丹生は頭からぴょこりと猫耳を生やして笑った。

 猫耳は黒、白、茶のまだら模様だが、ショートカットの髪は赤錆色でふわふわと毛先が跳ねている。

 目尻がくっきりとつり上がった瞳は金色に煌めいていた。

 蒼衣は鉛のように重く感じる腕を持ち上げ、額の汗を拭った。少し気分が落ち着いて、大きく息を吐き切る。

「丹生くんって結局猫なの、人間なの……?」

 蒼衣の言葉に丹生はきょとりと目を見開き、一拍置いた後弾かれたようにきゃらきゃらと膝を叩いて笑い出した。

「よせやい、むず痒い。私のことは丹生と呼び捨てにしておくれよ」

 丹生は少し腰を浮かせると、衣の隙間からするりと尻尾を晒した。耳と同じく3色のまだら模様の尻尾は途中で二股に分かれている。

「もとは猫だったがね、長く生きるうちに尻尾が分かれていつの間にか妖(あやかし)になったのさ。色々あって、今は姫──慧様の式神になっている。式神として名を戴いてからは、人の姿で居ることが多いね」

 丹生という名前は慧様にいただいたのだと、彼は微笑んだ。

 髪の色が辰砂という鉱物に似ているということで、辰砂が採掘できる土地"丹生"を授かったらしい。

 丹生にはにぶ、にう、といくつか読み方があるが、にう、だと猫っぽくて良いじゃない、と慧が言い放ったことから決まったそうだ。

 なんと言うか、実に単純である。

「当面はお前さんの世話を仰せつかったから、よろしく頼むよ」

 丹生は尻尾を揺らし、口角を上げて微笑んだ。

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トラジコメディー 結水あさき @yuimi-asaki

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